王宮の足元に眠る場所
手帳に浮かび上がった地図を、ヴィオレッタは何度も確認していた。
王都の北側にある倉庫。
そこから南へ伸びる一本の線。
そして、その終点に記された小さな四角形。
位置を現在の王都地図と照合すると、四角形は王宮の外壁に近い一角を示していた。
「……冗談でしょう?」
思わず声が漏れた。
王都の地下に異常な構造が存在することは、すでに分かっている。しかし、それが王宮のすぐ近くまで伸びているとなれば話は別だ。
王宮は、この国で最も厳重に警備されている場所の一つである。
その足元に、所在不明の地下構造が眠っている。
しかも、手帳の地図が正しいなら、それは倉庫の地下構造とつながっている可能性がある。
ヴィオレッタは窓の外を見た。
夜の王都には、まだ緊張が残っていた。遠くでは巡回する兵士の灯りが揺れ、北門の方向には臨時の警戒所が設置されている。
今から王宮へ向かうわけにはいかない。
それに、手帳の地図が本当に正確なのかも分からなかった。
彼女は地図を写し取り、現在の王都地図と照合した結果を別紙にまとめた。
最後に、手帳へ短く書き込む。
『王宮付近の四角形は、現時点では未確認。位置の一致だけで地下施設の存在を断定しないこと』
書き終えたとき、胸の奥に妙な違和感が残った。
この注意書きは、誰に向けたものなのだろう。
未来の自分か。
それとも、同じように手帳を開く誰かか。
考えても答えは出ない。
ヴィオレッタは手帳を閉じ、眠りについた。
翌朝、彼女は約束どおりノアとエミリアに連絡を取り、建築局へ向かった。
ただし、王宮付近の地図については、まだ話さなかった。
証拠が不十分な段階で二人を巻き込む必要はない。
そう判断したからだ。
もっとも、ノアは彼女の顔を見るなり、何かを察したようだった。
「昨夜、何か見つけたな」
「おはようございます、ノア。朝の挨拶より先に尋問を始めるのは、あなたの習慣なの?」
「君が何かを見つけた翌朝は、だいたいこうなる」
「ずいぶん失礼な経験則ね」
「経験に基づいているからな」
エミリアが二人を交互に見た。
「もしかして、私がいない間にも、いつもこんな会話をしているんですか?」
「いいえ。今日は比較的穏やかなほうよ」
「それはよかったです……?」
エミリアは納得できない様子だった。
建築局では、旧王都建設調査室の移管先について、追加の資料が用意されていた。
担当職員によると、調査室の廃止後、その業務は複数の部署へ分割されていたという。
一般の建築記録は建築局へ。
土地管理の記録は都市管理部門へ。
そして、旧構造物の保全に関する一部資料は、王宮管理部門へ移管されたと記されていた。
「王宮管理部門?」
ヴィオレッタは資料を見つめた。
「はい。ただし、移管先の細かな名称は記録されておりません。王宮の建物だけでなく、敷地内の土地管理も担当していた部門のようです」
ノアが資料を指で押さえた。
「その部門は、今も存在するのか?」
「現在は王宮施設管理局の一部に統合されています。ただ、旧資料の保管場所については、王宮側の許可が必要です」
「つまり、王宮へ行く必要があるわけね」
ヴィオレッタは椅子の背にもたれた。
「ずいぶん遠回りになったわ」
「王宮は遠くないでしょう?」
エミリアが首を傾げる。
「距離の話ではないわ。手続きの話よ」
ノアが頷いた。
「なるほど。君が苦手なものだな」
「正確には、必要性のない手続きが苦手なの」
「必要性がある場合は?」
「必要性を疑うところから始めるわ」
「……素晴らしい信頼関係だな、君と役所は」
「お互いに努力が必要ということね」
ヴィオレッタは資料をまとめた。
王宮に関連する記録を調べるには、正式な申請が必要になる。無断で敷地へ入り込むような真似はできない。
彼女たちは建築局の紹介状を受け取り、王宮施設管理局へ向かった。
王宮の外壁沿いには、すでに地盤調査のための兵士と技術官が配置されていた。北門周辺で起きた異常を受け、建物の基礎や石畳の状態を確認しているらしい。
王宮の敷地内へ入る許可を得るまで、三人はしばらく待たされた。
「こちらの申請は受理しました。ただし、閲覧できるのは一般公開可能な施設管理記録に限られます」
担当官は、丁寧ながらも慎重な口調で説明した。
「旧構造物の保全資料については、内容を確認したうえで別途判断いたします」
「承知しました」
ヴィオレッタは礼儀正しく頷いた。
「一点だけ、確認させてください。旧王都建設調査室から移管された資料には、現在の分類番号が付されているのでしょうか?」
「通常は付されています。ただし、古い資料の中には、移管時に分類が確定しなかったものもあります」
「そのような資料は、どのように管理されていますか?」
「未整理資料として保管され、必要に応じて再分類されます」
ノアが小さく呟いた。
「また未整理か」
担当官は困ったように微笑んだ。
「古い資料が多いものですから」
「ええ、理解しています」
ヴィオレッタはノアの脇腹を肘で軽く突いた。
「古い記録が残っていること自体は、ありがたいことですから」
「……そのとおりだ」
ノアは素直に引き下がった。
案内された資料室には、王宮の修繕記録や敷地管理図が並んでいた。
三人はまず、王宮外壁付近の古い地図を確認した。
現在の建物配置と比べると、過去には小規模な倉庫や作業小屋が存在していた場所もある。だが、手帳の地図が示す位置には、古い地図にも明確な建物の記載がなかった。
「何もないわね……」
エミリアが落胆したように言った。
「地上に何もなかったことは、地下にも何もなかった証拠にはならないわ」
ヴィオレッタは地図を重ねた。
「ただし、ここに地下施設があったと断定できる証拠もない。別の資料で確認する必要があるわね」
そのとき、資料室の職員が一冊の台帳を運んできた。
「こちらは、王宮外周部の地盤補修記録です。旧構造物に関する記載があるかもしれません」
ヴィオレッタは礼を述べ、慎重にページをめくった。
補修記録には、石畳の交換や排水路の修繕、外壁の基礎補強などが記載されていた。
大部分は通常の工事記録だった。
しかし、古い時代のページに差しかかったところで、彼女の指が止まった。
『北西区画、地下空隙の存在を確認。地盤への影響は未確定。既存構造の保全を優先し、地上設備の配置を変更すること』
その下には、さらに短い追記があった。
『入口の位置は、管理図に記載しない』
ヴィオレッタは顔を上げた。
ノアも、エミリアも、同じ文章を読んでいた。
「……見つけたわね」
ノアが低く言った。
「ええ。ただし、これが手帳の地図に示された場所と同じかどうかは、まだ分からない」
ヴィオレッタは記録の日付と区画番号を写し取った。
北西区画。
地下空隙。
地上設備の配置変更。
そして、入口の位置を管理図に記載しないという指示。
これは、単なる所在不明の資料ではなかった。
少なくとも、過去の王宮管理者は地下に空間があることを認識し、その入口を記録から除外する判断をしていた。
「この補修記録に、工事を担当した技術者の名前はありますか?」
「記録の末尾に、責任者の署名があります。ただし、当時の担当部署はすでに廃止されています」
職員は別のページを示した。
そこには、署名の横に小さな印が押されていた。
三つの点。
短い線。
枝分かれした図形。
ヴィオレッタの手が止まった。
倉庫の土地台帳にあった印と同じだった。
彼女は呼吸を整え、記号を手帳へ写した。
ここまでの記録は、地下構造の存在を裏づけている。
だが、その目的も、現在の状態も、何ひとつ分からない。
そして、手帳の地図が示した場所との関係も、まだ確定していない。
「この記録の続きを調べたいのですが」
ヴィオレッタは担当官に尋ねた。
「関連資料はありますか?」
担当官は台帳を確認し、少し考え込んだ。
「この時代の地盤補修記録は、別の保管区画にも残されているはずです。ただし、地下空隙に関する資料は、通常の修繕記録とは分けて管理されていた可能性があります」
「保管場所は分かりますか?」
「正確な場所までは……。古い保管目録を確認する必要があります」
ノアがため息をついた。
「目録の目録が必要になりそうだな」
「その場合は、目録の目録を管理する人の目録も必要かもしれないわね」
「頼むから、冗談で終わらせてくれ」
エミリアは笑いかけて、すぐに口元を引き締めた。
そのとき、資料室の外から足音が近づいてきた。
扉が開き、別の職員が慌てた様子で担当官に声をかけた。
「失礼します。王宮外周部の地盤調査について、緊急の報告が入りました」
「何があった?」
「北西区画です。石畳の一部が沈下しました。幸い、負傷者はいません。しかし、地面の下から人工的に加工された石材が露出しているとのことです」
ヴィオレッタの心臓が強く打った。
北西区画。
地下空隙の存在が記録されていた場所。
「現場へ案内していただけますか?」
彼女は尋ねた。
担当官はすぐには答えなかった。
「現場は危険です。調査班以外の立ち入りは認められておりません」
「承知しています。私たちだけで勝手に近づくつもりはありません。ただ、旧記録の調査に関わる者として、地上から状況を確認できればと思います」
担当官は少し考えたあと、現場責任者への連絡を指示した。
許可が下りるまで、三人は資料室で待機することになった。
ヴィオレッタは再び補修記録を見つめた。
『入口の位置は、管理図に記載しない』
誰かが意図的に入口を隠した。
それは確かなことだ。
しかし、隠した理由はまだ分からない。
危険だからか。
守るためか。
あるいは、地下にある何かを、王宮の人間にさえ知られたくなかったのか。
しばらくして、現場確認の許可が下りた。
三人は護衛兵と技術官に同行し、王宮外壁沿いの北西区画へ向かった。
現場にはすでに調査班が集まっていた。
石畳の一部が沈み込み、そこから灰色の石材が露出している。石材の表面には、古い幾何学模様が刻まれていた。
ヴィオレッタは封鎖線の外から、それを観察した。
模様の中央には円があり、その周囲に三つの点が並んでいる。
倉庫の壁。
北門の石扉。
そして、王宮の地下。
これらは、同じ仕組みの一部なのだろうか。
その答えは、まだ出ていない。
だが、次の瞬間。
石材の中央に、青白い光が走った。
調査班の一人が叫ぶ。
「全員、下がれ!」
光は円を描き、その外側へ広がっていく。
低い振動が地面を伝わった。
ヴィオレッタは反射的に後退した。
石材の奥から、何かが動く音が聞こえる。
重い石が、ゆっくりと擦れ合うような音。
そして、地面の亀裂の向こう側から、三度の音が響いた。
一度。
二度。
三度。
ヴィオレッタの頭の中で、手帳の警告がよみがえった。
『三度目の音を聞いたなら、扉を探すな』
彼女は息を呑んだ。
石材の中央に、細い線が現れ始めていた。
それは、閉じていたはずの何かが、内側から動き始めたことを示しているように見えた。
そして、その線の先には。
彼女たちがまだ知らない、地下への入り口があった。




