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記録されなかった地下通路

「今度は、開けるな」


壁の向こうから聞こえた声は、低く、ひどく疲れていた。


ヴィオレッタは動かなかった。


目の前の石壁には、先ほどまで亀裂があった。しかし、今は継ぎ目すら見当たらない。向こう側に誰かがいるという証拠は、壁越しに響いた声だけだった。


「あなたは誰?」


返事はない。


ヴィオレッタは一歩近づきかけ、ノアに腕をつかまれた。


「近づくな」


「声をかけただけよ」


「君の場合、その後に何をするかが問題なんだ」


「失礼ね。相手が壁の向こうにいるからといって、すぐに壊そうとは思わないわ」


「すぐに、という部分が気になるな」


エミリアが二人の間に割って入った。


「今は本当に、壁を壊すのはやめましょう。さっき倉庫の中が大変なことになったばかりですから」


「分かっているわ」


ヴィオレッタは壁から離れた。


「もう一度だけ質問するわ。あなたは、私たちを知っているの?」


沈黙。


それから、壁の向こうで何かが擦れる音がした。


「……知っている」


三人の表情が変わった。


「どこで会ったの?」


「ここではない場所だ」


「いつ?」


「それを知るのは、お前ではない」


ノアが眉をひそめた。


「随分と失礼な答え方をするな。質問に答える気がないなら、最初から話しかけなければいい」


「ノア、今は挑発しないで」


「挑発ではない。会話の基本を教えているだけだ」


「壁の向こうの人に会話の基本を教えないでちょうだい」


エミリアは不安そうに壁を見つめていた。


「その声……。本当に、こちらのことを知っているんでしょうか」


ヴィオレッタは答えなかった。


声には、奇妙な親しみがあった。


初めて聞いたはずなのに、どこかで知っている。


そんな感覚。


だが、彼女はそれを証拠として扱わないと決めていた。


「あなたは、私たちに何をしてほしいの?」


壁の向こうの人物は、しばらく黙っていた。


「調べるのをやめろ」


「理由は?」


「お前たちが見つけようとしているものは、見つけるべきものではない」


「それは、あなたが決めることではないわ」


声が途切れた。


一瞬、向こう側で笑ったような気配がした。


「……そう言うと思った」


ヴィオレッタの胸がざわついた。


なぜ、この人物は自分の反応を予測できるのだろう。


「待って。あなたは私を――」


カチリ。


小さな金属音が響いた。


壁の表面に、淡い光が一瞬だけ走る。


そして、再び静寂が訪れた。


今度こそ、何も聞こえなくなった。


ノアは壁を調べようとする兵士を止め、建築局の技術官に現場の封鎖を徹底するよう指示した。


「ここを開けるのは、必要な安全確認と調査手順を整えてからだ。誰も勝手に触れるな」


「承知しました」


技術官が頷く。


ヴィオレッタも異論はなかった。


声の主は、壁を開けるなと言った。


だが、従うべきかどうかを判断するには、情報が足りない。


警告が正しい可能性もある。


逆に、彼らを遠ざけるための嘘かもしれない。


どちらにしても、今は壁を開ける理由がなかった。


「戻りましょう」


ヴィオレッタは二人に告げた。


「建築記録をさらに調べる必要があるわ。この倉庫だけではなく、周辺の土地も含めて」


「地下構造の位置を地上の記録から割り出すわけか」


ノアが確認した。


「ええ。壁の向こうの人物が何者であっても、私たちが確認した事実は変わらないもの」


三人は建築局へ戻った。


夕刻の庁舎は、まだ騒然としていた。王都各地で発生した地盤の異常に対応するため、職員たちは地図や報告書を机いっぱいに広げている。


その中で、先ほど対応した職員が三人を見つけ、慌てて駆け寄ってきた。


「お待ちしておりました。先ほどの倉庫について、古い土地台帳が見つかりました」


「古い土地台帳?」


ヴィオレッタは足を止めた。


「はい。現在の建築局が保管しているものではなく、旧市街の区画整理に伴って別の部署へ移管された記録です。照合に時間がかかりましたが、ようやく確認できました」


職員が差し出したのは、薄い革表紙の台帳だった。


表紙には、かすれた文字で『旧市街地・区画管理記録』と記されている。


ヴィオレッタは慎重にページをめくった。


倉庫のある土地は、百二十年前の改築以前から、複数回にわたって用途が変更されていた。


倉庫用地。


資材保管区画。


旧市街地管理区域。


そして、最も古い記録には、現在のどの分類にも当てはまらない名称が残されていた。


『旧構造保全区画』


「保全区画……?」


エミリアが文字を読み上げた。


「何を保全していたのでしょう」


「それが分かれば苦労しないわね」


ヴィオレッタは記録の続きに目を通した。


用途変更の理由は簡潔だった。


『既存構造の維持を優先し、地上利用を倉庫用途に限定する』


その下には、さらに小さな文字が添えられていた。


『地下部分については、現況を変更せず、所在の確認を行わないこと』


ノアの表情が険しくなった。


「まただな」


「ええ。偶然とは考えにくいわ」


「少なくとも、この土地を管理していた人間は、地下部分を調べないよう明示的に指示している」


ヴィオレッタは記録の日付を確認した。


今から約百七十年前。


百二十年前の倉庫改築よりも古い。


つまり、この場所では、少なくとも二度にわたって地下構造を調べない方針が採られていたことになる。


「この区画の最初の登録は?」


「それ以前の記録は、まだ確認できておりません。ただ、台帳の備考欄に別の文書番号が記載されています」


職員はページの端を指した。


そこには、数字と記号が並んでいた。


ヴィオレッタは、それを見て息を止めた。


三つの点。


短い線。


そして、枝分かれするような記号。


壁の向こうの人物が持っていた金属片と、よく似ていた。


「この文書番号の資料は、どこにありますか?」


「記録上は、旧王都建設調査室へ移管されたことになっています。ただし、その調査室は数十年前に廃止されています」


「現在の保管先は?」


「確認できていません」


ノアが静かに目を閉じた。


「また、所在不明か」


「今回は、最初から保管先が分からないわけではないでしょう」


ヴィオレッタは台帳を閉じた。


「廃止された調査室の後継部署を調べれば、何か見つかる可能性がある。少なくとも、移管の記録は残っているはずよ」


「その記録が失われていなければ、だが」


「ノア。あなた、今日は本当に悲観的ね」


「今日だけだと思うのか?」


「……いいえ。少し考え直したわ」


エミリアが困ったように笑った。


しかし、ヴィオレッタの意識はすでに次の調査へ向かっていた。


旧王都建設調査室。


その名称は、現在の建築局の組織図には存在しない。


だが、古い土地台帳に残された記録から判断する限り、単なる建築監督の部署ではなかった可能性がある。


地下部分の所在を確認しない。


既存構造を変更しない。


そして、特定の記号を用いて管理する。


これらは、偶然に積み重なった規則ではなく、何らかの方針に基づいていたように見える。


「明日の朝、旧調査室の後継部署を調べましょう」


ヴィオレッタは言った。


「今日はこれ以上、危険な場所へ近づく必要はないわ」


「珍しいな。君から調査を切り上げるとは」


ノアが意外そうに言った。


「私だって、状況に応じて判断を変えるわ」


「では、今夜は安全な場所で休むのか?」


「もちろんよ」


「その手帳を調べるために、夜更かしをしない?」


「……あなた、私のことを何だと思っているの?」


「質問に答えず、都合の悪い記録を夜中に調べる人間」


「よく観察しているのね。感心したわ」


「否定はしないんだな」


「善処するわ」


「やはり信用できない」


エミリアが小さく笑った。


三人は建築局を後にした。


外はすっかり暗くなっていた。


王都の街路には臨時の灯りが設置され、兵士たちが地面の亀裂を確認している。人々の不安は消えていないが、避難誘導は少しずつ落ち着きを取り戻していた。


ヴィオレッタは歩きながら、懐の手帳に触れた。


壁の向こうの人物は、彼女たちを知っていた。


調査をやめろと警告した。


そして、古い記録には、地下構造を調べること自体を禁じる指示が残されていた。


誰かが長い間、この場所を隠してきたのだ。


それは危険なものを封じるためだったのか。


それとも、誰にも知られてはならない何かを守るためだったのか。


まだ分からない。


だが、手帳の警告と古い土地台帳は、同じ方向を指しているように思えた。


閉じた場所を探せ。


ヴィオレッタは、その言葉を胸の中で繰り返した。


その夜。


彼女が宿泊先の部屋で手帳を開いたとき、最後のページに新しい文章が現れていた。


『記録されなかった場所には、記録されなかった理由がある』


その下には、見覚えのない地図の一部が描かれていた。


王都の北側。


倉庫の位置。


そして、そこから南へ伸びる一本の線。


線の終点には、小さな四角形が記されていた。


ヴィオレッタは息を呑んだ。


その位置は、王都の中心部。


王宮のすぐ近くだった。

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