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壁が造られる前の記録

倉庫の壁が閉じてから、十分ほどが経過していた。


ヴィオレッタは、崩れた棚の破片を避けながら、問題の壁を見つめていた。


亀裂は消えている。


円形の跡も、青白い光も、今はどこにも見当たらない。


まるで、先ほどの出来事そのものが存在しなかったかのようだった。


「……腹立たしいほど、何も残っていないわね」


「棚は残っているぞ」


ノアが足元の木片を拾い上げた。


「それに、負傷者もいる。少なくとも、何も起きなかったとは言えない」


「そういう意味ではないわ」


「分かっている。少し慰めてみただけだ」


「あなたの慰めには、もう少し改善の余地があると思うわ」


「覚えておこう」


二人の会話を聞きながら、エミリアは技術官の手当てを手伝っていた。


幸い、彼の怪我は軽い打撲と擦り傷で済んでいた。しかし、倒れた棚の下から引き出す際に足をひねったらしく、歩くのには支障がある。


「エミリア嬢、ありがとう。君がいなければ、もう少し大変なことになっていた」


「いえ、そんな……」


「いや、本当に助かった」


「そ、それなら、よかったです」


褒められたエミリアは照れくさそうに微笑んだ。


その直後、彼女の足元で木片が折れた。


ぱきっ。


「きゃっ!」


体勢を崩した彼女を、近くにいた兵士が慌てて支える。


「だ、大丈夫です!」


「今度は君が手当てを受ける番では?」


ノアが指摘した。


「だ、大丈夫ですから!」


「そうか。では、次は床に勝てるといいな」


「ノア様!」


エミリアの抗議が倉庫に響いた。


緊張の残る空気が、ほんの少しだけ和らいだ。


だが、ヴィオレッタは笑わなかった。


壁の向こうにいた人物は、間違いなく何かを操作した。少なくとも、あの人物が現れた直後に装置が反応したのは事実だ。


問題は、その人物が装置を制御していたのか、それとも装置に反応させる方法を知っていただけなのかということだった。


後者なら、相手もまた危険を完全には把握していない可能性がある。


そして、壁の向こうに広がっていた通路。


あれが王都地下の構造につながっているなら、街の下には、まだ確認されていない空間がいくつも存在することになる。


「ヴィオレッタ」


ノアが彼女の隣に立った。


「建築局の人間に、現場を封鎖してもらうべきだ。壁を再び開こうとするのは危険すぎる」


「同意するわ。まずは、この倉庫が建てられた経緯を調べましょう」


「それと、君の手帳についても話してもらいたい」


ヴィオレッタは一瞬だけ彼を見た。


「……気づいていたの?」


「君が何かを隠していることくらいはな」


「相変わらず、嫌なところで目ざといわね」


「褒め言葉として受け取っておこう」


ノアは声を落とした。


「ただし、今すぐ話せとは言わない。君が話せる範囲で構わない」


その言葉に、ヴィオレッタはわずかに目を伏せた。


彼に話すべきか。


手帳に浮かび上がる文字は、これまでにも何度か見つかっている。しかし、その正体を説明できるほどの材料はなかった。


自分が書いたのか。


過去の自分が残したのか。


あるいは、まったく別の誰かが書いたものなのか。


どれも可能性にすぎない。


「もう少しだけ待って。手帳については、私自身にも分からないことが多いの」


「分かった」


ノアはそれ以上尋ねなかった。


「ただし、君が一人で確かめようとするのは勧めない」


「……善処するわ」


「それは、やるつもりだという返事だな」


「いいえ。検討する余地があるという意味よ」


「君の辞書では、そういう意味なのか」


「ええ。特に、面倒な忠告を受けたときにはね」


ノアは諦めたように息を吐いた。


その後、技術官の一人が建築局へ戻り、倉庫の管理記録を取り寄せることになった。


待つ間、ヴィオレッタは壁の前から動かなかった。


彼女の目には、先ほど見えた通路が焼きついていた。


石壁。


三つの青白い光。


そして、床に刻まれた三つの星と、そこから伸びる線。


あの線の始まりは、北方の観測地点で見た図形とは異なっていた。


同じ仕組みの中に、異なる役割を持つ場所がある。


そう考えるのが自然だった。


やがて、建築局から一冊の古い台帳が運ばれてきた。


「こちらが、当該倉庫の建築記録です」


職員が台帳を机に置いた。


「現在の建物は、約百二十年前に改築されています。ですが、土地そのものは、それ以前から倉庫用地として登録されていたようです」


「改築前の建物は?」


ヴィオレッタが尋ねた。


「木造の倉庫だったと記録されています。ただし、最初の登録年代は不明です」


「不明?」


「はい。現存する台帳では、最も古い登録が途中から始まっているのです。前の台帳があった可能性はありますが、所在は確認できておりません」


ノアが台帳をめくった。


「建物の修繕記録は?」


「こちらです。改築後、何度か壁の補修が行われています」


彼は記録を追い、ある箇所で指を止めた。


「百二十年前の改築記録に、奇妙な記述がある」


ヴィオレッタが隣から覗き込む。


そこには、こう記されていた。


『北側内壁については既存の石材を保存し、内部構造を変更しないこと。空隙の有無については、確認を要しない』


ヴィオレッタの目が細くなった。


「空隙の有無を、確認する必要がない?」


「普通なら、逆だろうな」


ノアが答えた。


「壁の内部に空間がある可能性を認識していたのに、調べないよう指示している」


「しかも、石材を保存するようにと」


エミリアが記録を読みながら呟いた。


「この壁は、改築前から存在していたのでしょうか?」


「その可能性が高いわね」


ヴィオレッタは、文章の横に記された小さな印を見つけた。


三つの点。


それらを結ぶ、短い線。


「これ……」


彼女は、先ほど手帳の裏側に浮かんだ跡を思い出した。


四角形の中央に並んでいた、三つの点。


偶然にしては、似すぎている。


「この印の意味は分かりますか?」


職員は首を横に振った。


「当時の記号一覧が残っていないため、分かりません。少なくとも、現在の建築局で使用する記号ではありません」


ヴィオレッタは記号を手帳に写し取った。


その瞬間、彼女の脳裏に短い映像が浮かんだ。


暗い部屋。


石の机。


机の上に置かれた、何枚もの図面。


そして、誰かの声。


『閉じた場所は、地図には載らない』


ヴィオレッタは息を止めた。


映像は一瞬で消えた。


頭痛はない。


声の主も分からない。


ただ、その言葉だけが妙にはっきりと残っていた。


「ヴィオレッタ?」


ノアの声が聞こえる。


「大丈夫か?」


「ええ。少し考え事をしていただけよ」


彼女は台帳へ視線を戻した。


『内部構造を変更しないこと』


『空隙の有無については、確認を要しない』


これらは、単なる建築上の判断なのだろうか。


それとも、百二十年前の人間も、この壁の向こうに何があるのか知っていたのだろうか。


「改築の責任者は誰?」


ヴィオレッタが尋ねた。


「記録では、当時の建築監督官が署名しています。ただ、設計を担当した人物の名前は別紙に記載されていたようです」


「その別紙は?」


「残念ながら、見つかっておりません」


ノアが眉を寄せた。


「また別紙か」


「何か問題でも?」


職員が不安そうに尋ねる。


「いえ。どうやら、重要な記録ほど別の紙に書かれる傾向があるようだ」


「ノア」


ヴィオレッタがたしなめる。


「事実を述べただけだ」


「言い方というものがあるでしょう」


「では、次回からは『資料の所在に関する課題が確認されました』とでも言おう」


「それなら、少なくとも役人には好まれるでしょうね」


エミリアが小さく頷いた。


「なんだか、意味が分からないのに納得できてしまいます……」


調査の結果、倉庫の北側内壁は、百二十年前の改築時にも取り壊されず、現在まで保存されていることが分かった。


しかし、それ以前の記録は見つからない。


壁の向こうの通路がいつ造られたのか。


誰が存在を知っていたのか。


なぜ倉庫の内部に隠されているのか。


どれも未解明のままだった。


三人が倉庫を出る頃には、夕暮れが近づいていた。


周囲には封鎖区域を示す縄が張られ、兵士たちが交代で警戒している。


ヴィオレッタは最後に一度だけ、建物を振り返った。


「閉じた場所を探せ、か……」


手帳の警告は、やはりこの壁を指しているのだろうか。


それとも、もっと別の場所を意味しているのか。


彼女にはまだ分からない。


ただ一つ、確かなことがあった。


この壁は、百二十年前の改築時点ですでに、何者かによって保存されていた。


そして、その人物は内部の空間を調べないよう指示していた。


誰かが隠したのか。


あるいは、誰かが守ろうとしたのか。


その違いは、これからの調査を大きく左右するだろう。


ヴィオレッタが歩き出そうとした、そのときだった。


倉庫の奥から、かすかな金属音が響いた。


カチリ。


三人は同時に振り返った。


封鎖された壁は、動いていない。


青白い光も現れていない。


しかし、壁の向こう側から、今度は明確な足音が聞こえた。


一歩。


二歩。


そして、三歩目で止まる。


続いて、壁を隔てた向こう側から、低い声が響いた。


「……まだ、そこにいるのか」


ヴィオレッタは息を呑んだ。


声の主が誰なのかは分からない。


だが、その言葉は、彼女たちの存在を知っている者のものだった。


そして、壁の向こうの人物は、次の言葉を口にした。


「今度は、開けるな」

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