閉じた場所を探せ
「開いた場所を数えるな。閉じた場所を探せ、か……」
ヴィオレッタは手帳に記された一文を見つめていた。
北門から現れた紙片には、こう書かれていた。
『北の門が開いたなら、地下の扉は閉じている』
そして、手帳には新たな警告が浮かび上がった。
『開いた場所を数えるな。閉じた場所を探せ』
二つの文章は、まるで互いを補い合っている。
だが、誰が何のために残したのかは分からない。
「つまり、入口を探すのではなく、出口を探せということでしょうか?」
エミリアが首を傾げた。
「それだと、結局は扉を探していることになるわね」
「では、閉じた場所とは……?」
「そこが問題なのよ」
ヴィオレッタは手帳を閉じた。
「言葉を文字どおりに解釈するのは危険だわ。そもそも、私たちが想定している『扉』と、これを書いた人物が想定している『扉』が同じとは限らないもの」
「なるほど。扉の定義から疑うわけか」
ノアが腕を組んだ。
「そのうち、壁の定義まで疑い始めそうだな」
「壁だと思っていたものが扉だったら、疑う価値はあるでしょう?」
「では、床が扉だった場合は?」
「あなたが先に踏んで確かめてくれるなら、検討してもいいわ」
「丁重に辞退しよう」
「残念ね。貴重な実験機会だったのに」
「お二人とも、今は実験の話をしている場合ではありません!」
エミリアが慌てて割って入った。
そのとおりだった。
北門の石扉は現在、王宮の技術官と魔術師によって封鎖されている。地下の崩落現場も立ち入り禁止になり、王都各地では地盤の確認が続いていた。
次に何が起きるか分からない以上、むやみに動くべきではない。
だからこそ、ヴィオレッタは考えた。
新しい扉を探すのではなく、すでに存在しているものの、誰も扉だと認識していない場所を探せばいい。
「エミリア。王都の古い都市地図を見たいの。できれば、現在の地図と建設記録も」
「王立記録院へ戻るんですか?」
「いいえ。今は王立記録院よりも、実際に街を造った人たちの記録が必要よ」
「建築局ですね」
「ええ。昔の街路や建物の位置が分かれば、地下構造と重なる場所を絞り込めるかもしれない」
ノアが頷いた。
「地下施設の調査記録が見つからなくても、地上の建築記録なら残っている可能性がある。意図せず古い構造を覆い隠した建物もあるだろうな」
「そういうこと。もっとも、建築局が協力してくれるかどうかは別問題だけれど」
「王都が揺れた直後に、地図を見せてくれと頼むのか?」
「街を崩さずに済むかもしれない、と説明するわ」
「ずいぶん控えめな売り文句だな」
「では、『このままでは街が崩れるかもしれません』と伝えましょうか?」
「前者で頼む」
三人は、封鎖区域を管理する兵士に行き先を告げ、王都建築局へ向かった。
道中では、倒れた看板を直す職人や、建物の壁を調べる役人たちの姿が見えた。市場の一角では商人たちが商品を運び出し、いつもなら賑やかな通りにも緊張が漂っている。
それでも、人々は立ち止まってはいなかった。
自分の店を守る者。隣人を助ける者。壊れた道を片づける者。
王都は傷ついていたが、まだ動いていた。
ヴィオレッタは、その光景を胸に刻んだ。
地下の謎を解くことは重要だ。
しかし、謎を解くために、この街で暮らす人々を危険にさらすわけにはいかない。
建築局へ到着すると、入口には臨時の調査班が設けられていた。
「現在、通常の閲覧申請は受け付けておりません!」
受付の職員が、三人を見るなり告げた。
「王都の地盤調査に関係する記録を確認したいのですが」
「でしたら、調査班へ申請を。担当者の確認が必要です」
「その担当者の方に、今すぐお会いすることは?」
「皆さん、現場に出ております」
「では、戻られる時間を教えていただけますか?」
「分かりません」
ヴィオレッタは微笑んだ。
「なるほど。王都を支える重要な記録を閲覧するには、王都を支える重要な担当者が戻るまで待つ必要がある、と」
「そ、そのような意味では……!」
「冗談です。お気になさらず」
受付の職員は、明らかにほっとした顔をした。
ノアが小声で囁く。
「今のは冗談だったのか?」
「ええ。七割くらいは」
「残りの三割は?」
「あなたが受付を代わってくれるなら、もう少し穏やかに話せると思うわ」
「遠慮しておこう」
結局、三人は建築局の副局長が戻るまで待つことになった。
もっとも、待っている間にも情報は入ってきた。
北門付近の地盤調査を担当していた技術官が、奇妙な報告を提出していたのだ。
地下の亀裂から風が吹き出した際、周辺の建物に大きな損傷はなかった。しかし、石造りの倉庫が一棟だけ、内部の壁に沿って細い亀裂を生じていたという。
建物自体は古いが、外壁にも基礎にも目立った異常はない。
不自然なのは、亀裂の位置だった。
「内部の壁だけ?」
ヴィオレッタは報告書を読み返した。
「はい。しかも、亀裂は床から天井まで一直線に続いているそうです」
案内してくれた職員が答えた。
「建物の構造上、あそこに亀裂が走るのはおかしいと、現場の技術官が言っていました」
ノアが報告書を覗き込む。
「倉庫の所在地は?」
「北門から二本東の通りです。現在は立ち入りを制限しています」
ヴィオレッタとノアは顔を見合わせた。
北門の地下から風が吹き出した直後に、内部の壁だけが割れた倉庫。
偶然である可能性は残る。
だが、確認する価値は十分にあった。
「副局長の許可を得られ次第、その倉庫を調べたいと思います」
「分かりました。報告はしておきます」
職員が立ち去ると、エミリアは不安そうに報告書を見つめた。
「もし、あの壁の向こうに地下施設があったら……」
「その場合は、外から確認するだけにするわ」
「本当ですか?」
「ええ」
「絶対ですか?」
「……状況によるわね」
「ヴィオレッタ様!」
「冗談よ。今回は本当に、外から確認するだけ」
ノアが横から口を挟んだ。
「今の『今回は』という言い方が、いちばん信用できないな」
「あなたは少し黙っていて」
やがて副局長が戻り、現場確認の許可が下りた。
三人は建築局の技術官二名と護衛兵を伴い、問題の倉庫へ向かった。
倉庫は石造りの古い建物だった。周囲には縄が張られ、入口には立ち入り禁止の札が掲げられている。
外壁に目立った亀裂はない。
屋根も崩れていなかった。
「報告どおりだな」
ノアが建物を見上げた。
「外から見る限り、異常は確認できない」
「だからこそ、内部の壁を調べる必要があるわね」
技術官の許可を得て、三人は慎重に倉庫の中へ入った。
内部には古い木箱が並び、使われなくなった荷車や工具が置かれていた。長い間、倉庫として利用されていたらしい。
問題の壁は、奥の一角にあった。
床から天井まで伸びる細い亀裂。
その両側の石材は、驚くほどきれいなままだった。
ヴィオレッタは壁に触れず、目の高さから足元まで観察した。
「この亀裂、幅がほとんど変わっていないわ」
「確かに。通常のひび割れなら、石材の継ぎ目や負荷のかかる部分に偏りが出ることが多い」
技術官が頷いた。
「ところが、これは一直線です。まるで最初から、ここに線が引かれていたような……」
そのとき、エミリアが小さく息を呑んだ。
「ヴィオレッタ様。こちらを見てください」
彼女が指したのは、壁の下部にある石材だった。
亀裂のすぐ脇に、薄い円形の跡が残っている。
その中心には、小さな穴。
ヴィオレッタは懐から金属片を取り出しかけ、思いとどまった。
枝分かれした線と、小さな穴を持つ金属片。
壁の向こうへ消えた男の工具袋に入っていたものと、よく似ている。
「……触れないで。まず記録を取るわ」
技術官が寸法を測り、図を描き始めた。
その間、ノアは壁の周辺を調べていた。
「ヴィオレッタ。床を見てくれ」
彼の足元には、埃の上に残された細い跡があった。
誰かが最近、壁の前に立っていたようだ。
しかも、足跡は壁へ向かっているだけではない。
壁の手前で、左右に分かれていた。
「二人分かしら?」
エミリアが尋ねた。
「断定はできない。靴底の模様が違うように見えるが、古い跡と新しい跡が重なっている可能性もある」
ノアは跡の先を追った。
片方は入口へ戻っている。
もう片方は、壁の前で途切れていた。
「……消えている?」
エミリアの顔が青ざめた。
「足跡が途切れただけよ。人間が壁に吸い込まれたと決めつけるのは早いわ」
ヴィオレッタはそう答えながらも、壁から目を離せなかった。
亀裂の中央に、淡い青白い光が浮かび上がった。
「全員、下がって!」
彼女の声と同時に、倉庫の床が震えた。
壁の円形の跡がゆっくりと回転する。
金属が擦れる音。
石材が動く音。
そして、壁の向こうから聞こえたのは、かすかな足音だった。
誰かが歩いている。
こちらへ向かって。
ノアがヴィオレッタの前へ出た。
護衛兵たちは武器を構え、技術官たちを入口側へ誘導する。
亀裂が少しずつ広がった。
その隙間から、冷たい風が吹き出す。
ヴィオレッタは一歩も動かなかった。
壁を開けてはいけない。
その警告が、頭の中で繰り返される。
だが、彼女たちが何もせずにいても、壁は動き始めていた。
やがて、隙間の向こうに人影が現れた。
黒い外套。
顔は見えない。
男か女かも分からない。
ただ、その人物は壁の隙間からこちらを見ているようだった。
そして、手を伸ばした。
指先には、銀色の小さな金属片が握られていた。
ヴィオレッタの持つものと、同じ枝分かれの模様。
次の瞬間、倉庫の壁全体が青白く発光した。
「伏せろ!」
ノアの叫びが響く。
光が床を走り、木箱が一斉に跳ね上がった。
護衛兵の一人が吹き飛ばされ、技術官が倒れた棚の下敷きになりかける。
エミリアはとっさに駆け寄り、彼の腕を引いた。
「立ってください! ここは危険です!」
「分かっているが、足が……!」
「では、私が引っ張ります!」
彼女は必死に引いた。
技術官の身体が動く。
同時に、彼女自身も後ろへ転びそうになった。
「エミリア!」
ヴィオレッタが腕をつかみ、二人まとめて引き戻した。
直後、棚が轟音とともに倒れた。
黒い人影は、壁の向こうへ消えていた。
亀裂は閉じ始めている。
ヴィオレッタは一瞬だけ、隙間の奥を見た。
そこには通路があった。
石壁に囲まれた細長い通路。
その先に、三つの青白い光が浮かんでいる。
そして、通路の床には、見覚えのある印が刻まれていた。
三つの星。
その星を結ぶ線。
だが、線の始まりは、ヴィオレッタが知るどの図形とも異なっていた。
壁が閉じた。
静寂が戻る。
崩れた棚の破片が、床を転がる音だけが響いていた。
「……全員、無事か?」
ノアが周囲を確認する。
負傷者はいたが、命に関わる怪我はなさそうだった。護衛兵たちは倒れた棚をどかし、技術官を安全な場所へ運んでいる。
ヴィオレッタは壁を見つめたまま、手帳を取り出した。
『開いた場所を数えるな。閉じた場所を探せ』
その意味が、少しだけ分かった気がした。
探すべきなのは、今まさに開こうとしている扉ではない。
すでに閉じられ、存在そのものを隠されている場所。
この倉庫の壁は、その一つなのかもしれない。
そして、壁の向こうにいた人物は、彼女たちよりも先に、その場所を知っていた。
ヴィオレッタは新たな記録を書き始めた。
壁の開閉は、外部からの操作によって引き起こされた可能性がある。
しかし、人物が金属片を掲げたことと、装置が反応したことの因果関係は未確認。
最後に、彼女はもう一つの事実を書き加えた。
壁の向こうには、通路が存在した。
その通路は、北方の観測地点や王都地下の構造と、同じ系統に属する可能性がある。
「ノア」
「何だ?」
「この倉庫の建築記録を、できるだけ古いものまで遡って調べたいわ」
「壁が造られた時期を特定するためか」
「ええ。それと、この倉庫が建てられる前に、ここに何があったのかも」
ノアは一度だけ頷いた。
「分かった。だが、その前に負傷者の搬送だ」
「そうね」
ヴィオレッタは手帳を閉じた。
その瞬間、紙の向こう側から、かすかな音がした。
カチリ。
彼女は動きを止めた。
今度の音は、地下からでも壁の向こうからでもない。
自分の手の中から聞こえた。
手帳を開く。
新しい文字は、まだ現れていない。
しかし、最後のページの裏側に、薄い四角形の跡が浮かんでいた。
まるで、そこに何かが挟まれていたかのように。
ヴィオレッタは紙を透かして見た。
何もない。
それでも、四角形の中央には、小さな三つの点が並んでいた。
彼女は手帳を閉じ、誰にも見せずに懐へしまった。
まだ、確かめるべきことがある。
そして今度こそ、警告の意味を理解しないまま扉を開くわけにはいかなかった。




