手帳に残された警告
王都の地下から響いた低い音は、一度きりだった。
それでも、誰もすぐには動けなかった。
通りの向こうでは、避難誘導の兵士たちが周囲を警戒し、建物の亀裂を調べていた。遠くで馬がいななき、荷車の車輪が石畳を打つ音が聞こえる。
日常はまだ続いている。
だが、その足元で何かが目覚めている。
ヴィオレッタは手帳を胸元にしまい、崩落した地下入口を振り返った。
『三度目の音を聞いたなら、扉を探すな』
先ほど見つけた文章が、頭から離れない。
自分の筆跡に似ている。けれど、書いた記憶はない。
以前にも、手帳に覚えのない記述が残されていたことはある。しかし今回は違った。
単なる調査記録でも、曖昧な夢の断片でもない。
明確な警告だった。
「ヴィオレッタ」
ノアが彼女の視線を追った。
「何か見つけたな」
「どうしてそう思うの?」
「地下から戻って以来、君は手帳を握ったままだ。さっきから、三回ほど中身を確認しようとしている」
「三回も?」
「正確には四回だ」
「……あなた、私の監視を仕事にしたほうがいいんじゃない?」
「報酬次第だな」
「では、あなたの報酬は沈黙にしましょう」
「ずいぶん安いな」
軽口を交わしながらも、ノアはそれ以上追及しなかった。
彼が待っていることは分かっていた。
話すかどうかは、自分で決めろということだろう。
ヴィオレッタは小さく息を吐いた。
「地下で見つけた手帳の記述について、後で相談したいことがあるわ。ただ、今は先に確認すべきことがある」
「壁の向こうへ消えた男か?」
「それもあるけれど、もっと根本的なことよ」
彼女は崩落現場の周囲を見回した。
「地下構造が動いたとき、王都のどこで異常が起きたのか。それを調べたいの」
「各地の被害を照合するのか」
「ええ。北方の観測地点、ここ、そして先ほどの低い音。これらが同じ仕組みに属しているなら、何らかの共通点があるはずよ」
「なるほど。記録を集めるわけだ」
「そう。記録を集めるだけなら、建物が崩れる心配も少ないでしょう?」
「記録を集める途中で建物が崩れる可能性は否定できないな」
「あなたは本当に、希望を見つけるのが下手ね」
「危険を見つけるほうが得意なんだ」
「知っているわ」
そのとき、避難区域からエミリアが駆け戻ってきた。
「お二人とも、大変です!」
「今度は何?」
「北門の近くで、地下から風が吹き出したそうです!」
ノアの表情が変わった。
「風?」
「はい。石畳の割れ目から突然、冷たい風が噴き上がったんです。それで、近くにいた人たちが転びそうになって……」
「怪我人は?」
「軽い打撲が数人。でも、今は兵士の方々が周囲を封鎖しています」
ヴィオレッタは即座に歩き出した。
「案内して」
「えっ、でも、危険だと……」
「近づくつもりはないわ。状況を確認するだけよ」
「その言い方をする人は、大抵、途中で近づきます」
ノアが指摘した。
「今回は本当に確認だけよ」
「前回も似たようなことを言っていた気がするが」
「前回の私は、今回の私とは別人よ」
言ってから、ヴィオレッタは口を閉じた。
冗談のつもりだった。
けれど、その言葉は自分の耳に妙に重く響いた。
ノアは何も言わなかった。
エミリアも、ほんの一瞬だけ不思議そうな顔をした。
三人は北門へ向かった。
王都の北側では、すでに一帯が封鎖されていた。石畳の中央に大きな亀裂が走り、その隙間から白い霧のようなものが立ち上っている。
風は止んでいたが、周囲の空気は明らかに冷たかった。
「これが……地下から?」
エミリアが身を縮める。
「断定はできないわ。地中の空気が押し出された可能性もある」
ヴィオレッタは兵士に許可を取り、封鎖線の外側から地面を観察した。
亀裂の縁には、青白い筋が残っている。
そして、その筋は石畳の模様に沿って伸び、門の基礎部分へと消えていた。
「ノア、これを見て」
彼はしゃがみ込み、亀裂の先を目で追った。
「地下の壁にあった線と似ているな」
「ええ。ただし、こちらは枝分かれしている」
ヴィオレッタは手帳に図を描いた。
北門の亀裂。
地下の壁に現れた線。
床に浮かび上がった三つの星。
それぞれの形は異なるが、線の分岐には共通する特徴がある。
「まるで、どこかへ力を流しているみたいね」
「水路や導管に似ている、ということか」
「そう。ただ、何を流しているのかは分からない。魔力なのか、圧力なのか、それ以外の何かなのか」
「少なくとも、建物の基礎に組み込むには危険すぎる代物だ」
「同感よ。設計者には、ぜひ一度、普通の建築物で暮らしてみてほしいわ」
「千年以上前の人間に苦情を届ける方法を考えないとな」
「まずは住所の確認からね」
エミリアが、思わず小さく笑った。
その直後、亀裂の奥で何かが動いた。
カチリ。
三人は同時に口を閉じた。
石畳の下から、細い青白い光が浮かび上がる。
光は亀裂を逆向きに走り、門の基礎へ吸い込まれていった。
次の瞬間、北門の巨大な石扉が震えた。
「全員、下がれ!」
兵士たちの怒号が飛ぶ。
石扉の中央に、これまで存在しなかった細い線が浮かび上がった。線は円を描き、その周囲に三つの小さな点が現れる。
ヴィオレッタの背筋が凍った。
見覚えがある。
あの地下の床に浮かび上がった図形だ。
だが、こちらには中央の円を横切る短い線があった。
「違う……」
「何が違うんだ?」
ノアが尋ねる。
「地下の図形には、この線がなかったの」
彼女は石扉を見つめた。
「同じ仕組みの一部でも、役割が違うのかもしれない」
その瞬間、石扉の向こうから鈍い衝撃が伝わった。
一度。
間を置いて、もう一度。
三度目は来なかった。
しかし、石扉の表面には細い亀裂が走り始めていた。
「離れて!」
ヴィオレッタが叫ぶ。
兵士たちが住民を押し戻し、三人も封鎖線の外へ退避した。
石扉は崩れなかった。
代わりに、その中央に小さな隙間が生まれた。
中から吹き出したのは、冷たい風だった。
そして風に乗って、一枚の紙片が転がり出てきた。
紙片は石畳を滑り、ヴィオレッタの足元で止まった。
彼女はすぐには拾わなかった。
「触らないでおこう」
ノアが言う。
「ええ。兵士に専門家を呼んでもらうわ」
彼女は周囲を確認しながら、紙片の表面を観察した。
古い紙だ。端は黄ばんでいるが、文字は比較的鮮明だった。
そこには、短い文章が記されていた。
『北の門が開いたなら、地下の扉は閉じている』
ヴィオレッタは息を呑んだ。
地下の壁が閉じたのは、つい先ほどのことだ。
偶然なのか。
それとも、この紙片は現在の状況を予測していたのか。
「……どういう意味でしょう」
エミリアが不安そうに尋ねた。
「まだ分からないわ」
ヴィオレッタは答えた。
「ただ、私たちが思っていたよりも、この構造は広い範囲で連動している可能性がある」
彼女は紙片を兵士に預け、発見時刻と場所を記録した。
その後、三人は安全な場所まで退いた。
王都の地下で何が起きているのか。
壁の向こうへ消えた男は何者なのか。
そして、北門から現れた紙片は誰が残したのか。
答えは一つも得られていない。
それでも、ヴィオレッタには一つだけ確信できることがあった。
地下の扉を探すな。
手帳に残された警告は、単に危険を知らせていたのではないのかもしれない。
扉を探すという行為そのものが、何かを引き起こす。
もしそうなら、彼女たちはすでに、その境界を越えかけていた。
ヴィオレッタは手帳を取り出し、最後のページを開いた。
先ほどの警告の下に、もう一行、薄い文字が浮かび上がっていた。
『開いた場所を数えるな。閉じた場所を探せ』
彼女の指が止まる。
その文字は、先ほどまで確かに存在しなかった。
あるいは、自分が見落としていただけなのか。
ヴィオレッタには、もう判断できなかった。




