壁の向こうで鳴る三度目の音
壁の向こうから、金属を叩く音が聞こえた。
一度。
静寂。
そして、二度目。
ヴィオレッタは、床に膝をついたまま息を潜めた。目の前では、男が消えた壁の隙間が、指一本分ほどの幅を残して閉じかけている。青白い光はすでに消えていたが、石の継ぎ目には薄い銀色の線が残っていた。
「……中にいるの?」
エミリアが小声で尋ねた。
「その可能性はあるわね」
「助けを求めているのでしょうか」
「それとも、こちらを誘い込もうとしているか」
ノアが淡々と付け加えた。
「あなたたち、もう少し希望のあることを言えないの?」
「希望を持つのは自由だ。問題は、それで足を踏み入れるかどうかだな」
「正論を盾にすれば、何を言っても許されると思っているでしょう」
「便利だからな」
こんな状況でもいつもの調子を崩さないノアに、ヴィオレッタは小さく息を吐いた。
だが、彼の視線は笑っていなかった。
壁の向こうには、未知の構造がある。男が通れたのなら、人が進める道が存在する可能性は高い。しかし、先ほどの地面の沈下と壁の移動を見れば、安易に追いかけるのは自殺行為に等しかった。
ヴィオレッタは、発見した金属片を取り出した。
枝分かれした線。その先にある、小さな穴。
「これを壁に近づけたら、どうなると思う?」
「光るかもしれない」
ノアは即答した。
「何も起きないかもしれない」
「あるいは、私たちの足元が消えるかもしれません……」
エミリアの声が最後だけ弱くなった。
「三人とも、想像力が豊かで結構ね」
「君が聞いたんだろう」
ヴィオレッタは金属片をしまった。
試すにしても、まずは周囲の変化を観察する必要がある。
そのときだった。
三度目の音が鳴った。
今度は壁の向こうではない。
背後からだ。
「伏せて!」
ノアが叫ぶと同時に、床の一部が跳ね上がった。
石片が飛び散り、ヴィオレッタの頬をかすめる。エミリアが悲鳴を上げるより早く、ノアが彼女の腕を引き、壁際へ転がり込んだ。
直後、彼らが立っていた場所を青白い光が貫いた。
光は床を走り、壁の銀色の線へと吸い込まれていく。
「全員、後退!」
護衛隊長の声が響いた。
封鎖区域の入口で警戒していた兵士たちが駆け寄る。しかし、光は彼らの足元にも伸び始めていた。
「隊長、地面が!」
石畳に細い亀裂が走った。
ヴィオレッタは立ち上がろうとして、足元に違和感を覚えた。
床の模様が変わっている。
さきほどまで壁に沿って伸びていた線が、いつの間にか床の中央へ集まり、三つの星を結ぶ図形を形作っていた。
そして、その中央に小さな円が浮かび上がる。
「まさか……」
彼女の脳裏に、北方の観測地点で見た光景がよみがえった。
三つの星。
線の始まり。
地下へ続く空洞。
しかし、記憶の映像はそこで途切れた。何かを思い出しかけた感覚だけが残り、肝心の答えは霧の向こうへ逃げてしまう。
「ヴィオレッタ!」
ノアの声で我に返った。
床の中央が沈み始めていた。
「走って!」
三人は崩れかけた通路を駆けた。
背後で石材が砕け、壁の一部が倒れる。護衛たちが負傷者を支えながら後退し、最後尾の兵士が転びかけた。
エミリアはとっさに彼の腕をつかんだ。
「大丈夫ですか!」
「はい、なんとか!」
「なら、立ってください! ここで転んだら、私まで巻き込まれます!」
助けた本人が必死だった。
兵士は思わず「申し訳ありません!」と叫び、エミリアと一緒に走り出した。
「エミリア、今のは少しだけ格好よかったわ」
「少しだけですか!?」
「評価を上げてほしければ、まず無事に帰りましょう」
ヴィオレッタは振り返らずに答えた。
通路の出口まで、あと十歩。
そのとき、壁の奥から轟音が響いた。
地下全体が震え、頭上から石の破片が降り注ぐ。護衛の一人が足を止めた瞬間、彼の足元に亀裂が走った。
ノアが腰のベルトをつかみ、力任せに引き戻す。
「止まるな!」
石床が崩れ落ちた。
深い穴の底で、青白い光がいくつも瞬いている。
ヴィオレッタは、その光の並びに見覚えを感じた。
北方の観測地点で見た三つの光とは違う。
もっと多い。
まるで、王都の地下に埋まった巨大な構造物が、互いに呼応しているかのようだった。
「……一つの施設ではないのね」
呟いた声は、崩落音にかき消された。
一行はどうにか封鎖区域の外へ脱出した。
地上では、避難誘導に当たっていた兵士たちが負傷者を受け入れ、周囲の住民をさらに遠くへ移動させていた。王都の北側では、建物の壁に新たな亀裂が走り、遠方の鐘楼が不規則に揺れている。
王都そのものが、何かに揺さぶられている。
そんな感覚だった。
「地下の入口を完全に封鎖しろ!」
護衛隊長が命じた。
「ただし、内部に残った者がいないか確認する。崩落箇所へは近づくな。許可なく地下へ入ることも禁じる!」
兵士たちが動き始める。
ヴィオレッタは壁際に腰を下ろし、頬の傷をハンカチで押さえた。浅い傷だ。血もすぐに止まるだろう。
それよりも、気になることがあった。
「ノア。さっきの音、覚えている?」
「三回目の金属音か?」
「ええ。最初の二回は、壁の向こうから聞こえた。三回目は背後。それから床が動いた」
「音が装置を起動させたのか、装置が動いた際に音が発生したのかは分からない。だが、偶然と片づけるには順番が明確すぎる」
「つまり、音が合図だった可能性もある……?」
エミリアが不安そうに呟いた。
「可能性の一つね。断定はしないわ」
ヴィオレッタは、壁の向こうへ消えた男を思い出した。
男は仕掛けの場所を知っていた。少なくとも、壁が開くことは知っていたように見えた。
しかし、あの崩落まで予測していたのだろうか。
もし予測していたなら、なぜあれほど急いで逃げたのか。
予測していなかったなら、男自身も装置の危険性を完全には理解していないことになる。
どちらにしても、追跡は容易ではない。
「隊長、壁の向こう側から、もう音は聞こえません」
見張りの兵士が報告した。
ヴィオレッタは顔を上げた。
「壁は?」
「完全に閉じています。継ぎ目も見えなくなりました」
「……そう」
彼女は立ち上がり、崩落した入口を見つめた。
男が通り抜けた道は、再び閉ざされた。
けれど、あの男が消えた場所だけが出口だとは限らない。地下構造が王都の各所へつながっているのなら、地上のどこかに別の出入口が存在する可能性もある。
そして、その構造が北方の観測地点とつながっているなら。
「ディートリヒ隊長の捜索にも、影響が出るわね」
エミリアの表情が曇った。
行方不明の隊長を見つけるために地下を調べたい。だが、地下へ踏み込めば、今度は自分たちが救助される側になるかもしれない。
「諦めるつもりはない」
ノアが言った。
「ただし、次は道を探すだけじゃない。装置がどこまで連動しているのか、何が起動条件なのか、それを調べてからだ」
「珍しく慎重ね」
「君が無謀なことをしそうな顔をしているからな」
「私の顔に、そんな機能はないわ」
「今、実証された」
「二人とも、喧嘩はあとにしてください!」
エミリアの声に、二人は口を閉じた。
彼女自身も、なぜこんなときに口を挟めたのか分からないらしい。頬を赤くしながら、視線をそらしていた。
ヴィオレッタはわずかに口元を緩めた。
それから、懐から手帳を取り出した。
壁の移動。
三度の金属音。
床面の図形変化。
青白い光の伝播。
複数の地下空間における同時振動の可能性。
彼女は一つずつ書き留めた。
最後に、短い一文を加える。
『壁の向こうにいた人物は、装置の操作方法を知っている可能性がある。ただし、装置全体を制御できるとは限らない』
書き終えた瞬間、手帳の古いページが風もないのにめくれた。
そこに記されていたのは、見覚えのない文字列だった。
いや、見覚えがないはずなのに。
ヴィオレッタの指先が止まる。
短い一文。
『三度目の音を聞いたなら、扉を探すな』
喉の奥が冷たくなった。
この筆跡は、自分のものに似ている。
だが、いつ書いたのか分からない。
ヴィオレッタはページを閉じた。
今すぐ誰かに見せるべきか。それとも、まず記述の由来を確認するべきか。
答えはまだ出ない。
そのとき、遠く離れた王都の地下から、低い音が響いた。
一度だけ。
地上にいる誰もが、足を止めた。
ヴィオレッタは閉じた手帳を握りしめる。
壁の向こうに消えた男は、まだ地下にいるのだろうか。
それとも、彼らが知らない別の場所で、次の扉を開こうとしているのだろうか。
そして、手帳に残された警告を書いたのは、本当に自分なのか。
答えを得るには、まだ何もかもが足りなかった。




