壁の向こうから来た追跡者
崩落した石畳の周囲には、厳重な封鎖線が張られていた。
警備兵たちは通行人を遠ざけ、地質調査員のマルタとクラウスが、壁の模様と地下構造の位置関係を慎重に記録している。
私たちが発見した銀色の粉は、すでに専門家によって採取されていた。
黒い外套の人物は、まだ見つかっていない。
「周辺の路地を確認しましたが、姿を見た者はほとんどいません。目撃者の証言も食い違っています」
護衛隊の副官が報告した。
「一人は北へ走ったと言い、もう一人は建物の中へ入ったと証言しています」
「どちらも正しい可能性はあるわ」
私は封鎖区域の地図を確認した。
「地下に通じる経路が複数あるなら、地上から見た移動方向だけでは判断できないもの」
「地下通路が実在すると決まったわけではないがな」
ノアが指摘した。
「そうね。だからこそ、まずは地上で確認できる経路を調べる。地下に何があるかを想像するのは、そのあとよ」
エミリアが、壁の模様を写した紙を机に置いた。
「この図形、北方の石板やエーバーハルト家の塔にあったものとよく似ています。でも、完全に同じではありません」
「違う部分は?」
「こちらです。三つの星を結ぶ線は同じですが、中央の円から伸びる線が一本多いんです」
私は紙を覗き込んだ。
確かに、王都の壁に刻まれた図形には、ほかの場所にはない短い線があった。
「単なる装飾なのか、機構の違いを示しているのか……」
「あるいは、私たちが今まで見てきた図形のほうが、一部を欠いていた可能性もあります」
エミリアの指摘に、私は顔を上げた。
「その可能性も記録しておきましょう。違いを勝手に誤差として扱ってはいけないわ」
ノアが壁の写真を手に取った。
「もし図形が機構の一部なら、形の違いには意味があるかもしれない。ただ、現時点では、どの線が何を表しているのか分からない」
「ええ。分からないからこそ、比較する価値があるのよ」
私はそう答え、記録帳に新たな項目を追加した。
そのとき、封鎖線の外から騒ぎ声が聞こえた。
「止まれ! ここから先は立入禁止だ!」
続いて、何かが地面に落ちる音がした。
私たちは一斉に顔を上げた。
「また侵入者か?」
ノアが立ち上がる。
「確認しましょう。ただし、全員で追いかける必要はないわ」
私たちが封鎖線へ向かうと、警備兵が一人の男を取り押さえていた。
男は地味な作業着を着ており、腰には工具袋を下げている。年齢は三十代ほど。特別目立つ容姿ではないが、その顔には焦りが浮かんでいた。
「離せ! 俺は何もしていない!」
「立入禁止区域に入ろうとした理由を説明してもらおう」
副官が男の前に立った。
「俺はこの辺りの修繕を請け負っている職人だ! 地下の壁が崩れたと聞いて、様子を見に来ただけだ!」
「修繕を請け負っているなら、依頼主の名前を言ってください」
私が尋ねると、男は一瞬だけ口を閉じた。
その沈黙を、私は見逃さなかった。
「……依頼主は、エーバーハルト家です」
男はようやく答えた。
ノアの目が細くなる。
「エーバーハルト家が、王都の壁の修繕を依頼した?」
「いや、そうじゃない! 以前、この辺りの石材を調べたことがあるんだ。古い建物の修繕に使えるかもしれないって話で……」
「いつの話ですか?」
「数年前だ」
「そのときの契約書や記録は?」
「手元にはない」
私は男の工具袋に目を向けた。
袋の口から、細い金属片が覗いている。
「その工具袋を見せてもらえますか?」
「これは仕事道具だ!」
「仕事道具なら、確認されても困らないでしょう?」
男は袋を抱え込むようにして後ずさった。
その動きに、副官が警戒を強める。
「袋を地面に置いてください」
「だから、俺は何も……!」
男が突然、工具袋を放り投げた。
袋が石畳にぶつかり、中身が散らばる。
同時に、男は警備兵の腕を振りほどいて走り出した。
「追え!」
副官の声が響く。
警備兵たちが駆け出した。
「ノア、エミリアを頼むわ!」
「待て、ヴィオレッタ!」
私は走り出した男を追った。
もちろん、無謀な追跡をするつもりはない。
男は封鎖区域から離れ、北側の細い路地へ向かっていた。地面の状態が比較的安定している道を選んでいるように見える。
その進路が、偶然とは思えなかった。
彼は一度も迷わず、曲がり角を選んでいる。
まるで、この辺りの地形を熟知しているかのように。
「止まりなさい!」
私の声に、男が振り返った。
その瞬間、彼の足元で石畳が光った。
「伏せて!」
私は反射的に身を投げ出した。
青白い線が地面を走り、路地の壁へ伸びる。
直後、石壁の一部が内側から押し出されるように動いた。
重い石材がずれ、狭い路地を塞いでいく。
男はその隙間へ飛び込んだ。
「待ちなさい!」
私は立ち上がり、閉じかけた隙間へ手を伸ばしかけた。
「駄目だ!」
追いついてきたノアが、私の腕を掴んだ。
次の瞬間、石壁が激しい音を立てて閉じた。
土埃が舞い上がる。
壁の表面には、三つの星と一本の線が浮かび上がっていた。
そして、男の姿は消えていた。
「……今のは、何?」
エミリアが息を切らして追いついてきた。
「壁が動いたの?」
「そう見えたわ」
私は石壁から距離を取り、周囲を確認した。
壁は、先ほどまで普通の石造建築の一部に見えていた。扉も取っ手もない。
だが、今は明らかに、別の石材が組み合わされた構造になっている。
「地下へ続く通路があるのかもしれない」
ノアが言った。
「ただし、今の動きが入口を開いたのか、単に壁の構造が変わっただけなのかは分からない」
「ええ。しかも、作動した条件も不明よ」
私は壁の模様を観察した。
男が足を踏み入れた場所。
青白い線が走った経路。
壁が動き始めた瞬間。
そのすべてを記録しなければならない。
しかし、記録を取るより先に、もう一つ確認すべきことがあった。
「男が逃げ込んだ先に、別の出口がある可能性があるわ。周辺を封鎖して、建物の外側を確認してちょうだい」
副官が頷き、警備兵たちへ指示を出した。
その間に、私は地面に残された工具袋を調べた。
中には、通常の修繕道具のほか、銀色の細片が数個入っていた。
そのうちの一つには、小さな穴と、枝分かれする線が刻まれている。
エーバーハルト家の塔で見つかった細片に似ていた。
「これは……」
エミリアが声を漏らした。
「同じ種類のものなのでしょうか?」
「まだ分からないわ。でも、比較する価値はある」
私は副官に、道具と細片を別々に保管するよう指示した。
男がこの仕組みを知っていたのか。
偶然、壁を作動させたのか。
それとも、何かを探すためにここへ来ていたのか。
今のところ、どれも可能性にすぎない。
ただ、彼が封鎖区域へ侵入し、壁の作動と同時に逃走したことは事実だった。
「ヴィオレッタ」
ノアが私を呼んだ。
「ここを見てくれ」
彼が指し示したのは、壁の下部だった。
石材の継ぎ目に、細い銀色の粉が残っている。
そして、その粉の先には、靴底の跡が続いていた。
男のものかどうかは、まだ断定できない。
しかし、その足跡は壁の前で途切れていた。
「壁が動いたとき、彼は向こう側へ移動した。そう考えるのが自然だろう」
「ええ。でも、壁の向こうに何があるのかは分からない」
私は記録帳を開いた。
新たな侵入者。
銀色の細片。
作動した壁。
そして、消えた足跡。
これまで追いかけてきた古い機構は、遠い過去の遺物ではなかった。
現在の王都に残り、誰かがその存在を知っている。
その人物は、私たちが調べるより先に、壁の向こうへ進んでしまった。
私はペンを止めた。
記録を整理するだけでは、追いつけない相手がいる。
だが、焦って壁を開けば、昨日と同じ危険を招くかもしれない。
「マルタさんとクラウスさんに連絡して。ここを安全に調査する方法を検討してもらいましょう」
「それまで待つのか?」
ノアが尋ねた。
「ええ。壁の向こうに何があるかは気になる。でも、未知の機構を動かす方法が分からない以上、無理に開くことはできないわ」
私は壁を見つめた。
「ただし、侵入者の捜索は続ける。彼がどこへ向かったのか、外側から確認できる経路を探しましょう」
ノアは頷いた。
エミリアも、真剣な顔で地図を広げた。
そのとき、壁の向こうから、かすかな音が聞こえた。
カン。
一度だけ。
私たちは一斉に動きを止めた。
壁の模様は光っていない。
地面も揺れていない。
ただ、向こう側から、金属を叩いたような音が響いた。
私は息を潜め、壁を見つめた。
男は、まだ向こう側にいるのだろうか。
それとも、彼以外の誰かが、そこにいるのだろうか。
答えは分からない。
だが、壁の向こうには、私たちが知らない何かが存在している。
そして、その何かは、今も完全には沈黙していなかった。




