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地下に残された応答

翌朝、私は夜明けとともに目を覚ました。


 眠れなかったわけではない。


 ただ、目を閉じるたびに、崩れた地面とディートリヒ隊長の姿が浮かんできた。


 あのとき、私たちは定めた手順に従っていた。危険を察知すれば退避する。地盤が不安定なら近づかない。分からないものには触れない。


 それでも、彼は地下へ消えた。


 正しい判断を重ねれば、必ず望んだ結果が得られる。そんな都合のよい法則は、この世界には存在しないらしい。


「……分かっていたつもりだったのだけれど」


 私は身支度を整え、机の上の記録帳を閉じた。


 今日は、感傷に浸るための日ではない。


 ディートリヒの捜索を進めるためにも、あの機構について少しでも多くの情報を集めなければならなかった。


 王立記録院の資料室へ向かうと、すでにノアが待っていた。


 机の上には、北方の古地図、エーバーハルト家の塔の修繕記録、そして昨日の調査報告が並べられている。


「早いわね」


「君に言われたくはないな」


「私は貴族令嬢よ。朝早く起きて勉強する姿を見せるのも、家門の評判を維持するために必要なの」


「では、睡眠不足でふらつく姿は評判に含まれないのか?」


「含まれないことを祈っているわ」


 ノアは小さく息を吐いた。


「それで、昨夜のうちに考えたことがある」


「聞かせて」


 彼は古地図の三つの印を指で示した。


「これまで、俺たちは三つの観測点を、入口を探すための目印として扱っていた。だが、昨日の現象を見る限り、それだけでは説明がつかない」


「線に沿って地表が崩れたことね」


「ああ。仮に地図の線が地下構造の位置を示しているなら、三つの点は単なる目印ではなく、何かをつなぐための節点かもしれない」


「節点……」


 私は地図を覗き込んだ。


 線は三つの点を結び、そこから北西へ伸びている。古地図の方角を現在の測量図に合わせ直せば、エーバーハルト家の塔や、北方旧施設の記録とも関連する可能性がある。


 しかし、まだ証拠が足りない。


「問題は、何がつながっているのか、ということね」


「そうだ。通路なのか、魔力の伝達経路なのか、それとも別の何かなのか」


「現時点では、どれも推測にすぎないわ」


「だから、今日は推測を減らすための調査をする」


 ノアが別の紙を取り出した。


 それは、昨日マルタがまとめた地質調査の速報だった。


 崩落地点周辺の亀裂の位置、地表の沈下量、そして石板の発光を確認した時刻が記されている。


 私は一つずつ目を通した。


「発光から三度目の音まで、時間差はほとんどないのね」


「その後、地鳴りが起き、退避経路が崩れた。順序は記録できている。ただし、地下で何が起きたかは分からない」


「地表の変化と、地下の機構の作動を区別する必要があるわね」


「その通りだ」


 そのとき、資料室の扉が勢いよく開いた。


「お、お待たせしました!」


 エミリアが息を切らして立っていた。


 片手には資料の束、もう片方には包み紙に入ったパンを持っている。


「遅くなってしまって申し訳ありません。記録院へ来る途中で、朝食を買っていたら道を間違えてしまって……」


「記録院までの道を?」


「はい。考え事をしていたら、いつの間にか反対側の通りに出ていて……」


 ノアが時計を見た。


「君は地図を三枚も持っているのに、自分の現在地だけは把握できないんだな」


「うっ……。地図の調査と道案内は、まったく別の技術です!」


「なるほど。今後、君に遠征の案内を任せるのはやめておこう」


「ノア様!」


 私は思わず口元を押さえた。


 昨日から張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ緩んだ。


 もちろん、状況が改善したわけではない。


 それでも、悲しみの中で息をつく時間くらいはあってもいい。


「エミリア、資料を見せてちょうだい」


「はい。古い観測施設に関する記録を探してみたんです。直接、昨日の石板について書かれたものはありませんでした。でも、気になる記述が見つかりました」


 彼女が机に広げたのは、数十年前の施設管理報告書だった。


 その一節に、私は目を留めた。


『旧北方区画における地中構造の再調査は、第三観測点の応答確認後に実施すること』


「第三観測点の応答確認……?」


 私は記述を読み返した。


「この報告書、いつ作成されたものなの?」


「およそ五十年前です。ただし、参照している原本はさらに古いものらしくて、作成者の欄は空白でした」


「原本の所在は?」


「別の保管記録に番号が残っています。でも、現在の分類番号との対応が確認できていません」


 私は顔を上げた。


「その番号を教えて」


 エミリアが読み上げた番号を、ノアが手元の記録に書き留める。


「また古い分類か。どうやら、俺たちは記録の迷宮から抜け出せないらしい」


「迷宮なら、出口があるだけましよ」


「出口が記録されていない場合は?」


「そのときは、出口を探す人間の仕事になるわね」


「君は本当に、仕事を増やすことに抵抗がないな」


「抵抗はあるわ。ただ、抵抗したところで記録が整理されるわけではないもの」


 私は報告書を慎重にめくった。


 別のページには、第三観測点について、さらに短い記述があった。


『応答が確認された場合、周辺の地盤状態のみをもって調査の安全性を判断してはならない』


 私は息を止めた。


 昨日、私たちが経験したことと、あまりにもよく似ていた。


 地表が安定しているように見えても、安全とは限らない。


 この記述を書いた人物は、少なくともその危険性を知っていたのだ。


「……偶然では片づけられないわね」


 エミリアが不安そうに私を見た。


「ヴィオレッタ様。これは、昨日のようなことが以前にも起きたという意味でしょうか?」


「そう考えることはできる。でも、まだ断定はできない」


 私は該当箇所を記録帳へ写した。


「応答という言葉が、何を指しているのかも分からないわ。光なのか、音なのか、それとも機構そのものの作動なのか」


「それに、この記録だけでは、以前に崩落事故が起きたとも言い切れない」


 ノアが補足した。


「危険を予測していた可能性もある。実際に事故があった可能性もある。記述の背景を確認する必要があるな」


「ええ。原本と、その前後の記録を探しましょう」


 私は報告書の末尾に目を移した。


 そこには、別の資料番号が記されていた。


 そして、その横に小さな注記がある。


『応答記録は、通常の施設管理簿に記載しないこと。別系統の記録と照合すること』


 別系統。


 私は、エーバーハルト家の塔で見つかった修繕記録を思い出した。


 そこにも、通常の管理記録とは異なる分類が使われていた。


 もし両者が同じ仕組みに関係しているなら、記録が分けられていること自体に意味があるのかもしれない。


 だが、誰が、何のために分けたのか。


 その答えは、まだどこにもなかった。


 そのとき、廊下から足音が近づいてきた。


 先ほどの護衛隊副官だった。


「ヴィオレッタ様。捜索隊から連絡が入りました」


 私たちは一斉に立ち上がった。


「ディートリヒ隊長は?」


「まだ発見されていません。ただ、崩落地点の北側で、地下へ続く可能性のある空間が確認されました」


「空間?」


「はい。地表の亀裂から内部を確認したところ、自然にできた空洞とは異なる、平らな石面が見えたそうです。ただし、入口は土砂で塞がれており、内部へ進むことはできていません」


 私は机の端を握った。


 生きているという証拠ではない。


 けれど、完全に手掛かりを失ったわけでもなかった。


「その場所の位置を、地図に記録していただけますか。昨日の崩落範囲と照合したいのです」


「承知しました」


 副官が退室すると、私は古地図を広げた。


 新たに得られた位置を、昨日の測定結果と照らし合わせる。


 地下空間の候補地点は、石板から北西へ伸びた線の近くにあった。


 ただし、正確な位置関係は、追加の測量を待たなければ分からない。


「もし、そこが古い施設の一部なら……」


 エミリアが言いかけた。


「ディートリヒ隊長が、その中にいる可能性はあるわ」


 私は静かに答えた。


「でも、希望だけで判断はしない。救助に必要なのは、正確な位置と、安全に近づく方法よ」


 ノアが地図を見下ろした。


「次の調査は、入口を探すためではなく、地下構造の全体像を把握するために行うべきだな」


「ええ。昨日までの私たちは、何かを開く方法ばかり探していた。でも、先に知るべきだったのは、開いたときに何が起こるのか、ということだった」


 私は記録帳に新しい項目を設けた。


 第三観測点の応答記録。


 過去の管理報告書。


 地下空間の候補地点。


 そして、ディートリヒの捜索に必要な条件。


 どれも、まだ答えではない。


 それでも、昨日の出来事が単なる事故として片づけられないことは、少しずつ明らかになっていた。


 古い記録には、応答という言葉が残されていた。


 つまり、誰かは以前から、この場所で何かが起こることを想定していたのかもしれない。


 その誰かは、何を知っていたのだろう。


 そして、なぜその知識は、通常の記録から切り離されていたのか。


 私はペンを置き、窓の外を見た。


 朝の光が、王立記録院の石壁を照らしている。


 昨日、地下へ消えた光と同じものではない。


 そう自分に言い聞かせながら、私は次の記録を開いた。


 今度こそ、開く前に確かめるために。

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