残された者たち
ディートリヒ隊長が落下した穴を前に、私たちはしばらく動けずにいた。
崩れた地面から吹き上がる風が、土埃と冷たい空気を運んでくる。穴の底は暗く、わずかに青白い光が揺れていたが、それもすぐに消えた。
「隊長……」
若い兵士が、呆然とした声で呟いた。
先ほどまで彼を救おうとしていた男の姿は、もうどこにもない。
「全員、穴から距離を取ってください」
マルタが厳しい声で告げた。
「縁が崩れ続けています。救助を試みるにしても、まずは地盤の状態を確認しなければなりません」
「ですが、まだ生きているかもしれないんです!」
「分かっています。だからこそ、あなたまで落ちるわけにはいかないのです」
兵士は唇を噛み、拳を握り締めた。
私は何も言えなかった。
正しい判断をしている。それは理解している。
けれど、目の前で仲間を失った人間に、正しさだけを差し出しても意味はない。
「ヴィオレッタ」
ノアが静かに呼んだ。
「ここに残っても、今は何もできない」
「ええ……分かっているわ」
私は穴を見つめたまま答えた。
「でも、帰る前に確認したいことがあるの」
「何を?」
「崩落の範囲よ。私たちが退避していた場所だけが崩れたのか。それとも、石板から伸びた線に沿って、別の場所まで影響が及んだのか」
ノアは一瞬だけ穴に目を向け、それから頷いた。
「マルタさんに確認しよう。無理に近づかず、記録できる範囲で」
私は彼の提案に従い、マルタのもとへ向かった。
彼女は測定器を抱え、崩落地点から十分に離れた場所で地面の状態を調べていた。
「マルタさん。崩落前の測定結果と比較できますか?」
「現地で確認できる範囲なら。ただし、今は安全確保が優先です」
「もちろんです。危険な場所へ近づくつもりはありません」
「それなら結構です。私も、これ以上調査対象を増やしたくありませんから」
マルタは真顔で言った。
その言葉に、エミリアが小さく肩を震わせた。
「調査対象って……」
「人命のことよ」
私が答えると、エミリアはすぐに口を閉じた。
「冗談ではありません」
マルタは測定器から目を離さずに続けた。
「一人でも多く助けるためには、残った者が無事でいなければなりません」
その声には、調査員としての責任だけではない重みがあった。
私は頷いた。
やがて、崩落地点から少し離れた場所で、地表に走る亀裂が確認された。
石板の中央から北西へ延びる線。その延長に沿うように、細い亀裂が続いている。
偶然とは言い切れない。
しかし、それだけで地下の仕組みを理解したと思い込むのも危険だった。
「……やはり、線に沿っているように見えますね」
エミリアが古地図を手に呟いた。
「三つの観測点を結ぶ線と、崩落した場所の位置が重なっています」
「地図の基準点を合わせ直す必要があるわ。今の段階では、完全に一致しているとは断定できない」
「はい」
エミリアは真剣に頷いた。
その直後、彼女の持っていた地図が風に煽られた。
「あっ!」
紙が手から離れ、空へ舞い上がる。
ノアが素早く手を伸ばしたが、指先をかすめただけだった。
地図はひらひらと飛び、ディートリヒが落下した穴とは反対側の草地へ落ちた。
エミリアは青ざめた。
「ご、ごめんなさい! 今のはわざとではなくて……!」
「分かっているわ。地図が自分の意思で逃げ出したわけではないもの」
「ヴィオレッタ様、それは分かっています!」
ノアが地図を拾い上げ、土を払った。
「少なくとも、この地図は落下しなかった。今日はそれだけでも幸運だ」
「ノア様、慰め方が独特です……」
「慰めたつもりはない。事実を述べただけだ」
いつものやり取りだった。
けれど、笑う者はいなかった。
ノアもそれ以上は続けず、地図をエミリアへ返した。
調査は中止となり、私たちは護衛隊の残存メンバーとともに丘陵を下ることになった。
帰路の馬車では、誰もほとんど口を開かなかった。
あの若い兵士は、ずっと自分の手を見つめていた。
ディートリヒが最後に押し出した手。
自分を助けた手。
その手が、もう二度と戻ってこないかもしれない。
私は彼に何か声をかけるべきか迷ったが、結局、言葉を見つけられなかった。
安易な慰めは、彼の悲しみを軽く扱うことになる。
だから私は、ただ彼の向かいに座り、調査記録を開いた。
記録するべきことは多かった。
石板の発光順序。三度の低い音。地表を走った青白い光。地鳴り。亀裂の発生。そして、退避経路の崩落。
これらの現象は、時間的に連続していた。
ただし、どの現象が直接の原因となり、どの現象が結果だったのかは分からない。
私は最後に、ディートリヒの項目を書いた。
護衛隊長ディートリヒ。崩落時、隊員一名を救助。その直後、足場の崩壊により地下空洞へ落下。現在、所在不明。生死は確認できず。
ペン先が止まった。
私は一度、目を閉じた。
彼の名前を記録することしかできない自分が、ひどく無力に思えた。
それでも、記録を残さなければならない。
彼が何をしたのかまで、崩落とともに失わせるわけにはいかなかった。
王立記録院に戻ったのは、日が傾き始めた頃だった。
私たちは調査資料を保管し、マルタが地質調査の報告をまとめることになった。護衛隊はディートリヒの捜索準備と、残った隊員の安全確認にあたる。
私はノアとエミリアを伴い、資料室の机に地図を広げた。
「ここから先は、現地で得られた情報を整理しましょう」
私は三つの観測点に印をつけた。
「エーバーハルト家の塔で見つかった線。北方の古地図に記された三点。今回の石板と、そこから延びた光。そして地表の亀裂」
「共通しているのは、線と星の図形ですね」
エミリアが言った。
「それに、古い建築物の内部に同じような構造が残されていることも」
ノアは塔の修繕記録を横に置いた。
「ただし、塔の機構が今回の作動に直接関わった証拠はない。図形が似ていることと、同じ仕組みであることは別だ」
「ええ。だから、現時点では関連する可能性がある、としか書けないわ」
私は記録帳にその一文を加えた。
「でも、ひとつだけ見直すべきことがある」
「何ですか?」
エミリアが顔を上げた。
「私たちは、古地図の線を場所を示すためのものだと考えていた。でも、もし線が場所だけでなく、何かを伝える経路を示しているとしたら?」
ノアの表情がわずかに変わった。
「地下の構造同士がつながっている可能性か」
「そう。地表に見える三つの観測点は、独立した目印ではないのかもしれない。離れた場所にある何かが、ひとつの仕組みを構成している可能性がある」
「そして、作動したときに地盤へ影響を与えた……」
エミリアの声が小さくなった。
「まだ仮説よ」
私は念を押した。
「それに、仮にそうだとしても、なぜ作動したのか、何を目的としているのかは分からない」
ノアは地図を見つめたまま言った。
「少なくとも、次に現地へ行くなら、地面の上だけを調べるわけにはいかないな。地下構造の調査と、作動条件の特定が先だ」
「その通りね。安全な調査方法が確立するまでは、石板に触れることも、周囲を掘ることも禁止するべきよ」
私はそう記した。
そのとき、扉が控えめに叩かれた。
入ってきたのは、護衛隊の副官だった。
「ヴィオレッタ様。隊長の捜索について、ご報告があります」
私はすぐに立ち上がった。
「何か分かったのですか?」
「現時点では、落下地点の全容を確認できていません。崩落が続いており、無理に降りることはできない状況です。ただ、明朝、地質調査員を増員し、安全な接近経路がないか確認する予定です」
「分かりました。調査の妨げにならない範囲で、私たちも記録と地図を提供します」
「ありがとうございます」
副官は深く頭を下げ、部屋を出ていった。
扉が閉じたあと、沈黙が戻った。
エミリアは膝の上で手を握り締めていた。
「助かっていてほしいです……」
「ええ」
私は答えた。
「私もそう願っているわ」
その言葉は、調査記録には書けない。
けれど、願いまで捨てる必要はなかった。
私は机の上の地図に目を戻した。
三つの星を結ぶ線。
エーバーハルト家の塔に残された細い溝。
そして、地下へ消えたディートリヒ。
私たちは、入口を見つけたわけではない。
むしろ、何かの一部を不用意に動かしてしまった可能性がある。
ならば、次に進む前に知るべきことがある。
この仕組みは、何に反応するのか。
どこまでつながっているのか。
そして、私たちが見つけようとしているものは、本当に開けてよいものなのか。
私は記録帳を閉じた。
ディートリヒの捜索は、明日から始まる。
その結果を待ちながら、私たちは次の調査計画を立てなければならなかった。
もう二度と、何も知らないまま誰かを危険にさらさないために。




