十二年前、封じられた記録
エーベルハルト侯爵からの知らせは、三日後の朝に届いた。
私は朝食の席で封筒を受け取り、封蝋に刻まれた侯爵家の紋章を確かめた。
「早かったわね」
「昨日の夕方には、使者がこちらへ向かっていたそうです」
隣に立つエミリアが答えた。
「侯爵閣下も気になっているのでしょうか」
「ええ。自分の家の古い塔に、由来の分からない仕掛けがあると分かったのよ。気にならないほうがおかしいわ」
私は封を切り、便箋を広げた。
そこには、十二年前の修繕記録に関する調査結果が記されていた。
当時の修繕責任者は、邸内の職人ではなかった。
外部から招かれた人物で、名簿には「北方旧施設調査協力者」とだけ記載されている。
氏名欄は空白。
依頼の経緯を示す書類も、現時点では確認できていない。
さらに、修繕の数日前に、先代侯爵夫人が管理人へ一通の書簡を預けていたという。
その書簡は、修繕完了後に回収された記録があるものの、内容の写しは残っていなかった。
私は便箋を机に置いた。
「北方旧施設調査協力者……」
聞き覚えのある言葉だった。
以前、王立記録院で調べた古い記録にも、似た肩書が登場していた。
外部研究協力者。
名前は記載されず、調査結果の一部だけが別の資料へ移されていた人物。
同一人物とは限らない。
けれど、無関係とも言い切れなかった。
「ノアを呼んでくれる? それから、王立記録院で以前の調査を担当した職員にも、確認したいことがあるわ」
「分かりました」
エミリアが部屋を出ていく。
私は手紙を読み返しながら、最後の一文に目を留めた。
――先代侯爵夫人は、修繕後、塔の内部へ立ち入らなかったと伝えられています。
私は眉をひそめた。
塔の内部へ立ち入らなかった。
それは、立ち入れなくなったという意味なのか。
それとも、立ち入る必要がなくなったという意味なのか。
あるいは、誰かに立ち入ることを禁じられたのか。
どれも、今のところは推測にすぎない。
ただ、一つだけ確かなことがあった。
十二年前の修繕は、単なる外壁の補修として片づけるには、不自然な点が多すぎる。
◇
「つまり、塔の壁を補修した人物の名前が分からないうえに、その人物が北方の旧施設と関係していた可能性がある、と」
昼前、私の部屋に集まったノアは、手紙を読み終えてそう言った。
「ええ。さらに、先代侯爵夫人が修繕の前に書簡を預けていた。何かを依頼したのかもしれないけれど、内容は不明よ」
「ずいぶんと都合よく、必要な情報だけが残っていないな」
「記録というものは、必要な情報を選んで残してくれるほど親切ではないわ」
「君が言うと説得力があるな。王立記録院で、あれだけ古い帳面と格闘していたんだから」
「あなたも一緒に調べていたでしょう?」
「僕は君ほど帳面に愛着を持っていない」
「愛着ではなく、執念よ」
ノアは少し考えてから、真顔で言った。
「それは、なおさら心配だな」
「今すぐ帰ってもらってもいいのよ」
「せっかく来たのに?」
「あなたの存在が、調査の進行を妨げている可能性があるわ」
「では、僕が帰った後に何か見つかったら、僕の手柄ということで」
「どうしてそうなるのよ」
エミリアが、とうとう吹き出した。
「お二人って、本当に仲がいいですね」
「違うわ」
「違うな」
私とノアの声が重なった。
エミリアは、ますます楽しそうに笑った。
「ほら、息までぴったりです」
「エミリア。あなた、最近ノアの影響を受けていない?」
「えっ、そんなことは……」
「その反応も、少し似てきたな」
ノアが余計なことを言った。
私は手元の紙を丸めかけ、思いとどまった。
記録に使う紙を無駄にしてはいけない。
彼を叩くためだけに紙を消費するのは、あまりにも不経済だった。
「……あなた、運がいいわね」
「何の話だ?」
「私が今、節約を重視しているという話よ」
「なるほど。助かった」
彼は本当に安心したように頷いた。
いつか必ず、後悔させてやる。
そう決意したところで、私は話を本題へ戻した。
「十二年前の修繕記録だけでなく、王立記録院に残された外部研究協力者の記録も照合したいの。以前の調査番号を使えば、関連資料が見つかるかもしれない」
「ただし、肩書が似ているだけで同一人物と決めつけるな、ということだな」
「ええ。名前がないからこそ、慎重に扱う必要があるわ」
ノアは頷いた。
「それなら、調査する価値はある。だが、その前に侯爵家から塔の内部調査について許可を得ておいたほうがいい」
「もちろんよ。壁を壊すつもりはないわ。まずは、十二年前の修繕で何が変わったのかを確認する」
「それが分かれば、次の手掛かりにつながるかもしれない」
私は頷き、侯爵宛ての返書を書き始めた。
◇
その日の午後、私たちは再びエーベルハルト侯爵邸を訪れた。
レオポルト侯爵は、前回と同じ資料室で私たちを迎えた。
「十二年前の修繕について、もう少し詳しく調べたいとのことでしたね」
「はい。可能であれば、修繕記録と塔の平面図を照合させていただきたいのです。特に、北側内壁の補修前後で構造が変わっていないかを確認したいと思います」
「分かりました。建物の安全に関わることですから、フランツにも立ち会ってもらいましょう」
しばらくして、修繕担当のフランツが資料室へやって来た。
彼は古い平面図を机に広げ、十二年前の記録と見比べた。
「……妙ですな」
フランツが呟いた。
「何か分かりましたか?」
「この図面は、修繕後に作られたもののようですが、北側の壁の厚さが、修繕前の図面とほとんど変わっていません」
「壁の内側に空隙があるのに、ですか?」
「ええ。空隙が以前から存在していたのなら、問題はありません。しかし、修繕の際に新しく空間を作ったのなら、壁の厚さに変化が出るはずです」
私は二枚の図面を見比べた。
壁の厚さは同じ。
それなのに、修繕後の記録には「内側の空隙については現状維持」と書かれている。
「つまり、十二年前の修繕では、空隙を新しく作ったのではなく、すでに存在していた空隙を残した可能性が高いのですね」
「そのとおりです。ただ、図面だけでは断定できません」
フランツは別の紙を取り出した。
「こちらは、修繕の際に使われた石材の一覧です。北側の壁には、周囲とは異なる種類の石が使われています」
「異なる石材……」
私は一覧を受け取った。
石材の産地は記されていない。
ただし、備考欄には短い記述があった。
――旧施設由来の加工石材。再加工を避け、指定箇所に使用すること。
私は顔を上げた。
「旧施設由来、というのは?」
「それが分からないのです。石材を納入した業者の記録にも、詳しい産地はありません」
侯爵が眉を寄せた。
「そのような石材が、なぜ我が家の塔に?」
「修繕担当者が持ち込んだ可能性があります。ただし、納入経路が分からない以上、断定はできません」
私は一覧の文字を見つめた。
旧施設由来の加工石材。
北方旧施設調査協力者。
そして、塔の壁の奥にある銀色の欠片。
これらが同じ場所を指しているとしたら。
十二年前、塔の壁は何かを隠すために修繕されたのではないだろうか。
だが、その考えを口にする前に、私は自分を戒めた。
まだ証拠が足りない。
「閣下。石材の表面を調べる許可をいただけますか? 壁を壊すことはせず、見える範囲で材質と刻印の有無を確認したいのです」
「もちろんです。フランツ、頼めますか?」
「承知しました。ただし、壁の内部には触れません」
私たちは塔へ向かった。
◇
塔の北側の壁には、前回と同じ印が刻まれていた。
三つの星。
一本の線。
四角いくぼみ。
そして、その右下にある小さな三角形。
フランツは灯りを掲げ、石材の表面を慎重に調べた。
「……この石だけ、表面の仕上げが違いますね」
彼は四角いくぼみの周囲を指した。
「こちらの石は、表面が滑らかです。しかし、周囲の石は少しざらついている。後から加工されたというより、最初から別の用途を持つ石材だった可能性があります」
「別の用途……」
私は壁を見上げた。
もし、この石材が旧施設から運ばれたものなら、もともとは別の建物の一部だったのかもしれない。
観測施設。
地下構造物。
あるいは、まだ知られていない何か。
「ヴィオレッタ様」
エミリアが、壁の下部を指さした。
「ここにも、小さな傷があります」
それは、三角形の印から少し離れた場所にあった。
傷のように見えるが、よく見ると、細い線が二本交差している。
その交点には、針で突いたような穴があった。
私は息を止めた。
金属片の中心にあった穴と、よく似ている。
「ノア、こちらを見て」
彼は私の隣に立ち、壁の印を観察した。
「……確かに似ている。ただ、同じものとは限らない」
「ええ。でも、比較する価値はあるわ」
私は手帳を開き、線の角度と穴の位置を記録した。
そのとき、フランツが壁の一部を軽く叩いた。
乾いた音が返ってくる。
少し横を叩くと、低い音。
前回と同じだった。
だが、今回はそれだけでは終わらなかった。
フランツが石材の表面を布で拭いたとき、くぼみの縁に、ごく細い銀色の線が浮かび上がったのだ。
「これは……」
彼は手を止めた。
銀色の線は、四角いくぼみの内側から伸びていた。
線は壁の表面を走るのではなく、石材の継ぎ目に沿って、わずかに下へと続いている。
その先は、周囲の石に隠れて見えなくなっていた。
「以前から、こんな線があったのでしょうか?」
侯爵が尋ねた。
「分かりません。表面に付着した金属なのか、石材そのものに埋め込まれているのかも判断できません」
フランツは道具を片づけた。
「これ以上は、専門家の検査が必要です。無理に削れば、何かを壊す恐れがあります」
「そうですね。今日はここまでにしましょう」
私は壁から一歩下がった。
銀色の線は、三角形の印を通り過ぎ、壁の下へ向かっている。
まるで、塔の内部にある何かへ続いているようだった。
けれど、それはあくまで見た目の印象にすぎない。
私は手帳に、そのまま記録した。
銀色の線を確認。材質および用途は不明。壁内部との接続は未確認。
その下に、もう一文を書き加えた。
――十二年前の修繕記録との関連を要調査。
◇
帰り際、侯爵は私たちを玄関まで見送った。
「今日の調査で、少しずつ状況が分かってきましたね」
「はい。ただ、まだ確かなことは多くありません」
「それでも構いません。私は、家の歴史を都合よく解釈するより、分からないことを分からないまま残すほうがよいと思い始めました」
私は侯爵を見た。
その言葉には、以前よりも強い実感がこもっていた。
「その姿勢は、きっと役に立つと思います」
「あなたにそう言っていただけると、心強い」
侯爵は穏やかに微笑んだ。
馬車に乗り込むと、エミリアが小さく息を吐いた。
「古い塔に、あんな仕掛けがあるなんて思いませんでした」
「仕掛けと決まったわけではないわ」
「そ、そうでしたね……」
「ただ、旧施設由来の石材が使われていることは確認できた。これは大きな手掛かりよ」
ノアが窓の外を見ながら言った。
「北方旧施設調査協力者という肩書も気になる。王立記録院の記録と照合すれば、何か見つかるかもしれない」
「ええ。次は、十二年前の修繕記録と、外部研究協力者の記録を比較するわ」
「そして、リュネ村跡地の第三の観測点も調べる必要がある」
「そうね。けれど、順番を間違えないようにしましょう」
私は手帳を閉じた。
塔の壁に埋め込まれた銀色の線。
旧施設から運ばれた加工石材。
十二年前の、名前のない修繕担当者。
それらは、古い建物の中に何かが隠されている可能性を示していた。
しかし、何が隠されているのかは分からない。
そして、なぜ先代侯爵夫人がその存在を知っていたのかも。
馬車が街道へ出たとき、私はふと窓の外を振り返った。
遠ざかる侯爵邸の塔は、夕暮れの光に包まれていた。
その壁の奥で、銀色の線がまだ続いている。
そう考えた瞬間、脳裏に、あの暗い廊下が浮かんだ。
扉の中央に刻まれた四角いくぼみ。
その下へ伸びる、細い銀色の線。
そして、誰かの声。
――開ける前に、確かめなさい。
私は思わず目を見開いた。
今の言葉は、これまでの記憶にはなかった。
誰の声なのかも分からない。
だが、その言葉だけは、妙にはっきりと残っていた。
私は手帳を開いた。
そして、今聞こえた言葉を、記憶の断片として記録した。
事実ではない。
証拠でもない。
それでも、無視してよいものではない気がした。
私は最後に、短く書き添えた。
――何かを開く前に、何を確かめる必要があるのか。
その答えを知るために、私たちはもう一度、過去の記録へ戻らなければならない。




