壁の奥で眠る銀の欠片
銀色の光は、壁の奥でかすかに揺れていた。
エーベルハルト侯爵邸の庭に建つ古い見張り塔。その入口付近に刻まれた三つの星と一本の線。そして、線の始まりにある四角いくぼみ。
その奥に、何かがある。
「触らないでおきましょう」
私が告げると、エミリアが目を丸くした。
「えっ、取り出さないんですか?」
「取り出すために、まず何が埋め込まれているのかを確認する必要があるわ。昨日の石板の件を忘れたの?」
「うっ……地下から音がしたときのことですね」
「ええ。あのとき、私たちは紙片を回収できたけれど、石板の亀裂は広がった。幸運だったからといって、同じ方法を繰り返すのは愚か者のすることよ」
ノアが壁を観察しながら口を挟んだ。
「君が愚か者でなくてよかった」
「あなたが私の判断を褒めるなんて珍しいわね」
「褒めているというより、僕が巻き込まれる確率を考慮した結果だ」
「やっぱり褒めていないじゃない」
「期待させてしまったなら謝ろう」
「謝罪の気持ちが一欠片も感じられないわ」
そのやり取りを聞いていた侯爵が、苦笑を浮かべた。
「お二人は、いつもそのような調子なのですか?」
「いいえ、閣下。今日は比較的穏やかなほうです」
私が答えると、ノアがこちらを見た。
「それは僕の台詞では?」
「あなたに発言権を与えた覚えはないわ」
「なるほど。ここは君の王国だったか」
「少なくとも、この壁の前では私の判断に従っていただくわ」
「それなら安心だ。君の王国では、地図を広げるだけで朝食が冷めるらしいからな」
「……エミリア。今の発言を記録しておいて」
「えっ、何をですか?」
「この男が、いつか自分の発言で困る日が来るという予測よ」
「そんな予測、記録する必要があるんでしょうか……?」
「歴史とは、些細な記録の積み重ねよ」
エミリアは困った顔をしながらも、手帳を取り出した。
ノアは涼しい顔をしていた。
この男、いつか必ず後悔させてやる。
もっとも、今は壁の中にあるもののほうが重要だった。
◇
侯爵は邸内から管理人と、古い建築物の修繕を担当している職人を呼んだ。
職人の名はフランツ。白髪交じりの髪を後ろで束ねた、六十歳ほどの男性だった。
「この塔は、長いこと使われていません。壁の内側に空洞があること自体は、珍しくありませんが……」
彼は小さな灯りを掲げ、くぼみの周辺を調べた。
「この部分は、後から石を詰め直したように見えますな」
「後から、というのは?」
侯爵が尋ねる。
「周囲の石材と、目地の色が違います。少なくとも、一度は補修されているのでしょう。ただ、いつのことかまでは分かりません」
フランツは壁を軽く叩いた。
乾いた音が返ってくる。
少し横を叩くと、今度は低い音がした。
「こちらには空間があるようです。ですが、奥行きは不明です。壁全体を調べずに石を外すのは危険でしょう」
「では、壁を壊さずに確認する方法は?」
私が尋ねると、フランツは細い金属棒を取り出した。
「目地に沿って、わずかな隙間がないか確かめることはできます。ただし、無理に押し込めば中のものを傷つける恐れがあります」
「それで十分です。今は位置と構造を確認するだけにしましょう」
フランツは慎重に調査を始めた。
金属棒の先が、くぼみの縁に触れる。
彼は少し角度を変え、石の継ぎ目を探った。
そのとき、エミリアが何かに気づいた。
「ヴィオレッタ様。こちらにも印があります」
彼女が指したのは、くぼみの右下だった。
一見すると、石材の傷にしか見えない。
だが、斜めから光を当てると、小さな三角形が浮かび上がった。
その先端は、壁の中央ではなく、塔の内側を向いている。
「三角形……」
私は手帳に写した図形と見比べた。
昨日の金属片には、分岐する線と小さな輪が刻まれていた。
今日の壁には、三つの星と一本の線、四角いくぼみ、そして三角形。
共通しているのは、図形の組み合わせだけではない。
何かを指し示すような向きが、それぞれに与えられていることだった。
「この三角形は、後から刻まれたようには見えないな」
ノアが言った。
「ええ。少なくとも、くぼみを作った時期と近い可能性はあるわ」
「だとすると、壁の中に何かを隠した人物が、目印を残したのかもしれない」
「その可能性はある。でも、まだ断定はできないわ」
私は壁の表面を見つめた。
印を残した人物が誰なのか。
何を隠したのか。
そもそも、隠すための場所だったのか。
すべてが不明だった。
フランツが金属棒を引き抜いた。
「これ以上は、専門的な調査が必要です。少なくとも、今すぐ石を外すべきではありません」
「分かりました。ここまでの調査結果を記録してください」
私が告げると、侯爵が頷いた。
「塔の管理記録も調べましょう。修繕が行われた時期が分かれば、何か手掛かりになるかもしれません」
「ありがとうございます、閣下」
私は壁のくぼみを、もう一度だけ見た。
銀色の光は、まだ消えていなかった。
◇
塔の内部へ移動した私たちは、壁の構造を確かめるため、古い平面図を探すことにした。
管理人が持ってきた帳面によれば、塔は過去に二度、大規模な修繕を受けている。
一度目は三十七年前。
二度目は十二年前。
どちらも外壁と屋根の補修が中心だったが、十二年前の記録には、奇妙な項目があった。
――北側内壁の一部を補修。旧来の石材を保存し、内側の空隙については現状維持とする。
「空隙については、現状維持……?」
私は記録を読み返した。
「普通なら、空洞が見つかれば原因を調べるはずよ。どうして、そのままにしたのかしら」
「壁を壊すと塔の強度に影響するからでは?」
エミリアが言った。
「その可能性もあるわ。ただし、記録には構造上の危険について何も書かれていない」
ノアが別の頁をめくった。
「さらに妙なのは、この修繕の責任者だ。名前が書かれていない」
私は帳面を受け取った。
通常の記録には、担当者の署名がある。
ところが、十二年前の項目だけは、署名欄が空白だった。
「署名の記入漏れかしら」
「そうかもしれない。ただ、同じ日の別の修繕記録には、担当者の名前がきちんと残っている」
「つまり、この項目だけが例外ということね」
侯爵が眉を寄せた。
「十二年前……先代侯爵夫人が亡くなった年です」
その言葉に、私は顔を上げた。
「夫人の死と、塔の修繕に関係があるのでしょうか?」
「分かりません。夫人は晩年、この塔の近くをよく訪れていたそうです。ただ、理由を知る者はもうおりません」
私は帳面の文字を見つめた。
十二年前。
肖像画の記録は十三年前。
先代侯爵夫人の死は十二年前。
そして、塔の内壁が補修されたのも十二年前。
時期が近い。
しかし、時期が近いというだけで、因果関係があるとは限らない。
「閣下。十二年前の修繕を担当した職人や、当時の管理人について、記録は残っていますか?」
「探してみましょう。古い帳面が別の保管庫に移されている可能性もあります」
「お願いします。ただし、見つからなかったとしても、誰かが意図的に記録を消したと決めつけるべきではありません」
侯爵は静かに頷いた。
「分かっています。私自身、これまで家の歴史を信じすぎていたのかもしれません」
その声には、わずかな疲れが滲んでいた。
彼もまた、自分の家に残された謎と向き合っている。
私だけが、答えを求めているわけではないのだ。
◇
調査を終える前に、私はもう一度、塔の外壁を確認した。
銀色の光は、先ほどよりも弱くなっていた。
光源が何なのかは分からない。
金属片の反射なのか、何らかの魔力反応なのか。
判断するには、専門家による検査が必要だった。
だが、壁の印を写し取っていると、ふと気づいたことがあった。
「ノア。少し、これを見てくれる?」
私は手帳の図形と、古い地図の写しを並べた。
「壁の三角形は、塔の内側を向いている。地図に描かれた三つの点を結んだ線は、第三の地点から北西へ伸びていた。そして、昨日の金属片の線も、輪を基準にすると北西を指す」
「三つとも、同じ方向を示しているということか」
「正確には、基準を合わせた場合にね」
ノアは図形を見比べた。
「だが、壁の印だけは、方向を示しているのかどうかも分からない」
「ええ。だから、まだ仮説よ」
私は壁の印を見つめた。
もし、三つの星が観測点を表しているなら、一本の線は何を意味するのか。
観測点を結ぶ経路か。
観測対象の方向か。
それとも、別の何かを示すものか。
そして、なぜ線の始まりだけが、輪や四角いくぼみとして表現されているのか。
考えれば考えるほど、疑問が増えていく。
「ヴィオレッタ様」
エミリアが、そっと私の袖を引いた。
「そろそろ、お屋敷へ戻りませんか? 日が暮れ始めています」
窓の外を見ると、庭の木々が夕日に染まっていた。
「そうね。今日の調査はここまでにしましょう」
私は手帳を閉じた。
その瞬間だった。
壁の奥で、かすかな音がした。
かちり。
金属が噛み合うような、小さな音。
私たちは一斉に振り返った。
四角いくぼみの奥から、銀色の光が一度だけ強く漏れた。
そして、すぐに消えた。
「……今のは?」
エミリアが息を呑む。
ノアは壁に近づかず、じっとくぼみを観察していた。
「何かが動いたように聞こえた」
「ええ。でも、何が動いたのかは分からないわ」
私はそう答えた。
壁の中から聞こえた音は、一度きりだった。
床にも、壁にも、目に見える変化はない。
フランツが再び呼ばれ、慎重に周囲を調べたが、石材が動いた痕跡は確認できなかった。
結局、その日のうちに分かったことは限られていた。
塔の壁には、後から補修された形跡がある。
十二年前の修繕記録には、署名のない項目が残されている。
壁の内側には空隙があり、その奥には銀色の何かが存在する。
そして、私たちが調査を終えようとした瞬間、内部で小さな機械音がした。
それ以上のことは、何も分からない。
侯爵邸を後にする直前、レオポルト侯爵が私たちに告げた。
「十二年前の修繕記録について、何か見つかればすぐにお知らせします」
「ありがとうございます。こちらも、地図と紙片の照合を続けます」
私は一礼した。
馬車に乗り込むと、ノアが窓の外を眺めながら言った。
「君は、あの塔の中に何があると思う?」
「分からないわ」
「仮説もないのか?」
「あるわ。でも、今は口にしない」
「なぜ?」
「あなたに話したら、明日には三つくらい余計な仮説が増えていそうだから」
「それはひどい誤解だな。四つは増やす」
「……やっぱり話さなくて正解だったわ」
エミリアが笑いをこらえている。
私は窓の外へ視線を戻した。
夕闇の中で、古い塔の輪郭が少しずつ遠ざかっていく。
壁の奥にある銀色の欠片。
十二年前の修繕記録。
そして、三つの星と一本の線。
それらが同じ謎につながっているのかどうか、まだ確証はない。
ただ、私は一つのことに気づいていた。
これまで見つけた手掛かりは、どれも何かを直接説明するものではなかった。
むしろ、何かを示しながら、その意味だけを隠しているように見える。
まるで、答えを与えるのではなく、正しい問いを探させるために残されたもののように。
私は手帳を開き、最後の一文を書き加えた。
――塔の壁の内部にあるものは、何を隠しているのか。
書き終えた直後、頭の奥に、あの暗い廊下の光景が浮かんだ。
扉の中央に刻まれた四角いくぼみ。
その奥で、一瞬だけ光る銀色の欠片。
私は息を止めた。
だが、次の瞬間には、その光景は消えていた。
私は目を閉じ、ゆっくりと息を吐く。
記憶なのか、想像なのか。
今の私には、まだ区別できない。
だからこそ、次に確かめるべきことは一つだった。
十二年前、あの塔の壁に何が起きたのか。
その記録が見つかれば、銀色の欠片の正体にも、一歩近づけるかもしれない。




