地図から消えた第三の観測点
エーベルハルト侯爵からの書簡が届いた翌朝、私は屋敷の玄関で、ある問題に直面していた。
「ヴィオレッタ様。馬車が一台、出発できない状態です」
護衛の報告に、私は目を閉じた。
「……今度は何?」
「車輪の留め具が破損しております。修理に少々時間がかかるかと」
「そう。地下遺跡が崩れるよりは、ずっとましね」
「比較対象がおかしくありませんか?」
ノアが背後から言った。
「あなたは、車輪の破損と地下遺跡の崩落なら、どちらを選ぶの?」
「当然、車輪の破損だ」
「なら、問題ないわ」
「問題がないという結論に至るまでの道筋が、どうにも理解できないんだが」
「理解できなくても馬車は直るわ。理解できても車輪は直らないもの」
ノアは返事をせず、肩をすくめた。
エミリアはというと、壊れた車輪を心配そうに眺めていた。
「修理が終わるまで、私たちもお手伝いできませんか?」
「お気持ちはありがたいのですが、工具の扱いに慣れた者が行いますので」
護衛が丁寧に断る。
「そ、そうですよね……」
「エミリア、落ち込む必要はないわ。あなたが車輪を直せるようになったら、次は私たちの食事まで馬車に積み込んでしまいそうだもの」
「そんなことしません!」
「昨日、地図と一緒にパンを運ぼうとしていたでしょう?」
「それは……!」
エミリアは言葉に詰まった。
ノアが静かに付け加える。
「少なくとも、パンが地図に押しつぶされる未来は回避できたな」
「お二人とも、今日だけで私を何回からかうつもりですか!」
「今日の調査が終わるまで、数える余裕があるといいわね」
「ヴィオレッタ様!」
結局、私たちは予備の馬車に乗り換えることになった。
出発が遅れた分、エミリアが用意してくれた焼き菓子を食べる時間が増えたのは、唯一の利点だった。
ただし、彼女は最後まで、私が二つ目の菓子を手に取ったことを見逃してくれなかった。
◇
エーベルハルト侯爵邸に到着すると、レオポルト侯爵自らが私たちを迎えた。
「お待ちしておりました、ヴァレンシュタイン公爵令嬢。ヴァルケイン卿、ローゼン嬢も」
「お招きいただきありがとうございます、侯爵閣下」
私は礼をし、早速本題に入った。
「お手紙にあった、先代侯爵夫人の資料を拝見できますか?」
「もちろんです。ただ、その前に一つ、お伝えしておきたいことがあります」
侯爵は表情を引き締めた。
「今回見つかった紙片は、肖像画の裏に貼り付けられていたものです。しかし、紙片そのものが肖像画と同じ時期に作られたとは限りません」
「後から貼り付けられた可能性がある、ということですね」
「ええ。貼り付けた人物も、時期も分かりません。夫人が残したものだと断定することはできないのです」
私は頷いた。
慎重な説明だった。
先代侯爵夫人の肖像画に付随していたからといって、紙片の内容まで彼女の言葉だと決めつけるわけにはいかない。
「その点を踏まえたうえで、拝見させていただきます」
「助かります。あなたは、分からないものを分からないまま扱ってくださる」
「分かったふりをすると、後で訂正するのが大変ですから」
「……それは、貴族社会では非常に重要な技術ですな」
侯爵は苦笑した。
どうやら、彼も何度か苦労したらしい。
案内されたのは、邸内の小さな資料室だった。
中央の机には、古い紙片と数冊の帳面が並べられていた。紙片は保護用の透明な板に挟まれ、周囲には年代の異なる地図が置かれている。
「こちらが見つかった紙片です」
侯爵が示したものには、三つの小さな印が並んでいた。
私は昨日の写しを取り出し、二つを見比べた。
同じ図形ではない。
だが、共通点は明らかだった。
「三つの観測点を示している可能性があると、私は考えています」
「観測点……」
侯爵は一冊の帳面を開いた。
「実は、この資料を見つけた後、夫人が残した別の記録も調べました。そこに、興味深い記述があったのです」
彼が指したのは、短い覚え書きだった。
筆跡は古く、文字の一部はかすれている。
それでも、文章の大半は読めた。
――北方の三点を結ぶ際、第三点を現在の境界に合わせてはならない。
――土地の名ではなく、古い基準点を用いること。
私は思わず身を乗り出した。
「現在の境界に合わせてはならない……?」
「ええ。どうやら、当時の土地境界と、観測に用いられた基準点は別だったようです」
ノアが帳面を受け取らず、記述を目で追った。
「つまり、第三の観測点は、現在の地図から消えたのではなく、土地の区分が変わったことで位置を特定できなくなった可能性がある」
「その可能性はあります」
私は答えた。
「ただし、基準点が移されたのか、地名が失われたのか、あるいは記録上の位置だけが変わったのかは、まだ分かりません」
侯爵は別の地図を広げた。
そこには、現在の地図には存在しない境界線が描かれていた。
リュネ村跡地の周辺を横切り、北方観測施設の候補地をかすめる線だ。
そして、その線の途中に、小さな円が一つ記されている。
「この円が、第三の観測点でしょうか?」
エミリアが尋ねた。
「私もそう考えました。しかし、円の位置は古い境界線の交点からずれています」
侯爵は首を横に振った。
「これだけでは判断できません」
私は地図を机に固定し、昨日の写しと重ねた。
線の位置を合わせる。
村の位置を合わせる。
古い道の分岐点を合わせる。
何度か調整を繰り返した末、ようやく三つの地図の位置関係が近づいた。
その瞬間、エミリアが小さく声を上げた。
「待ってください。円の位置が、さっきと違います」
「地図を動かしたからよ」
「いえ、そうではなくて……」
彼女は紙の端を指さした。
「この地図、北を示す印が、ほかの地図と少し違います」
私は手を止めた。
確かに、方位を示す印があった。
だが、針の先端が指しているのは、真北ではない。
古い地図では、現在の方位と異なる基準が使われていたのかもしれない。
「よく気づいたわ、エミリア」
「えっ、あ、ありがとうございます!」
褒められた彼女は嬉しそうに微笑んだ。
その横で、ノアが静かに言った。
「これで、昨日の地図をそのまま重ねても位置が合わなかった理由が分かったな」
「ええ。私たちは、異なる基準で描かれた地図を、同じ基準で比較していたのよ」
「古い地図の研究は、なかなか意地が悪いな」
「地図に性格があるなら、相当ひねくれているわね」
「君がそう言うなら、相当なものだ」
「……それは、私への皮肉かしら?」
「さて、どうだろう」
私は彼を睨んだ。
ノアは涼しい顔で地図へ視線を戻した。
この男は、謎解きよりも私の反応を楽しんでいるのではないだろうか。
今後の調査項目に、彼の性格の悪さを加えるべきかもしれない。
◇
地図の方位を補正すると、三つの観測点の位置関係が、ようやく一つの図形として浮かび上がった。
第一の点は、昨日の石板が見つかった分岐点。
第二の点は、北方観測施設の候補地。
そして第三の点は、リュネ村跡地の北東。
現在の地図では、そこに道も建物も記されていない。
「……ここね」
私は指で示した。
侯爵が地図を覗き込む。
「この場所には、古い記録でも名前が残っていません。ただし、土地の管理記録を調べたところ、ある時期から境界の記載方法が変わっていることが分かりました」
「具体的には?」
「以前は、道や建物を基準に境界を記していた。ところが、後の記録では、境界そのものを示す番号が使われるようになったのです」
「その番号と、古い基準点の対応関係が失われた?」
「その可能性があります。対応表らしきものがあった形跡はありますが、現物は見つかっていません」
私は地図上の第三の点を見つめた。
記録が失われた理由は分からない。
ただ、位置を示す手掛かりは残っていた。
「この地点を調べるには、まず現在の地形と照合する必要があります。地図だけを頼りに現地へ向かうのは危険です」
マルタが同行できるかどうかも確認しなければならない。
昨日の石板の周辺は、まだ安全が確認されていないのだ。
「ええ。地質調査士の判断を待ち、必要なら土地管理局にも確認を取りましょう」
侯爵は満足そうに頷いた。
「あなたにお願いしてよかった。以前の調査では、地図に存在しない地点など、単なる記載漏れとして片づけられていましたから」
「記載漏れの可能性もあります。だからこそ、最初から結論を決めずに調べるべきです」
「そのとおりですな」
侯爵は、別の紙片を取り出した。
「もう一つ、気になるものがあります」
それは、先代侯爵夫人の覚え書きとは別の紙だった。
そこには、短い一文だけが記されていた。
――三つの点が揃っても、入口を示すとは限らない。
私は目を細めた。
「これは、どなたの筆跡ですか?」
「分かりません。夫人の筆跡とは異なります。いつ、誰が書いたのかも不明です」
「では、夫人の資料と一緒に保管されていた、ということだけが分かっているのですね」
「ええ」
私はその文章を何度も読み返した。
三つの観測点。
地図から消えた第三の地点。
そして、入口を示すとは限らないという注意書き。
これらが同じ目的で記されたのかどうかも、まだ分からない。
けれど、一つだけ確かなことがあった。
私たちは、図形の意味を知る前に、図形がどこに使われていたのかを調べなければならない。
「侯爵閣下。この紙片と地図の写しを、調査のために参照させていただけますか?」
「もちろんです。ただし、原本は邸内で保管します。持ち出しは認められません」
「承知しました。写しを作り、照合結果を記録します」
侯爵は頷いた。
そのとき、窓の外で鳥が羽ばたいた。
私は何気なく顔を上げた。
庭の向こうに、古い石造りの塔が見える。
侯爵邸の敷地内にある、使われなくなった小さな見張り塔だという。
その塔の上部には、三つの細い窓が並んでいた。
私は、昨日の金属片に刻まれていた線を思い出した。
三つの星。
一本の線。
そして、小さな輪。
胸の奥が、かすかにざわめいた。
塔と観測点に関係があるのか。
それとも、私が勝手に結びつけているだけなのか。
私は答えを急がなかった。
代わりに、侯爵へ尋ねた。
「閣下。あの塔は、いつ頃建てられたものですか?」
侯爵は窓の外を見た。
「正確な年代は分かりません。少なくとも、私が生まれる前からありました。先代侯爵夫人も、あの塔については詳しく語りませんでしたね」
「立ち入りは可能でしょうか?」
「危険な場所ではありませんが、現在は使われていません。ご覧になりますか?」
「ぜひ」
私は立ち上がった。
地図から消えた第三の観測点は、まだ見つかっていない。
入口の場所も分からない。
それでも、古い地図と紙片が示す方向は、少しずつ明確になってきた。
そして、侯爵邸の古い塔にも、まだ確認していない何かがあるかもしれない。
その可能性を確かめるため、私たちは資料室を後にした。
塔へ続く小道は、庭の奥で木々に覆われていた。
その入口に立ったとき、私は石造りの壁に刻まれた小さな印を見つけた。
三つの星。
その下に、一本の線。
昨日の紙片と、同じ構成だった。
ただし、線の始まりには、小さな輪ではなく、四角いくぼみがあった。
私は思わず足を止めた。
背後から、ノアの声が聞こえた。
「どうした?」
「……見て」
彼が壁の印を確かめる。
そして、いつもの冷静な表情が、ほんのわずかに変わった。
「これは、偶然ではなさそうだな」
私もそう思った。
だが、塔が観測点なのか、単なる目印なのかは分からない。
そして、なぜこの印が、エーベルハルト侯爵邸の古い塔に刻まれているのかも。
私は手帳を取り出し、印の形を写し取った。
今度こそ、三つの星を結ぶ線の始まりに近づいたのかもしれない。
しかし、壁のくぼみを覗き込んだ瞬間、私は気づいた。
その奥に、何かが残されている。
薄暗い隙間の向こうで、銀色の小さなものが、かすかに光っていた。




