星を結ぶ線の始まり
リュネ村跡地へ向かうと決めた翌朝、私は三枚の地図を机に広げていた。
正確には、三枚の地図と、二枚の古い写しと、ノアが昨夜書き足した図形の模写である。
そして、そのすべてが私の朝食を食べる場所を奪っていた。
「ヴィオレッタ様。パンが冷めてしまいます」
エミリアが、皿を持ったまま困った顔をしている。
「あと少しだけ待って。ここの道筋がどうしても合わないの」
「先ほどから、ずっと同じところを見ていますけれど……」
「だからこそ、何か見落としている可能性があるのよ」
「それなら、パンを食べながら考えてもいいのでは?」
「地図に油がついたら困るでしょう?」
「では、地図を片づけてから食べればいいのでは?」
私は顔を上げた。
エミリアは、至極もっともなことを言っていた。
「……あなた、時々とても恐ろしいことを言うわね」
「えっ? わ、私、何か間違えましたか?」
「いいえ。正論というものは、時として人を深く傷つけるのよ」
向かい側で紅茶を飲んでいたノアが、カップを置いた。
「その理屈が通るなら、君は今後、一切の助言を受け入れなくて済むな」
「それは困るわ。あなたの助言は、反面教師として役に立つもの」
「光栄だよ」
「褒めていないわ」
「知っている」
エミリアが小さく笑った。
私はため息をつき、ようやく地図を一枚だけ脇へずらした。
パンはすっかり冷めていた。
調査を始める前から、私たちは最初の難題に直面していたのである。
朝食をいつ食べるべきか、という問題に。
◇
「さて、改めて確認しましょう」
食事を終えた私は、机の上を整理してから話を切り出した。
「昨日回収した紙片には、リュネという名前があった。さらに、『星を結ぶ線の、始まりを探せ』という文言。金属片には、分岐する一本の線と、小さな輪が刻まれていた」
「そして、石板の下から二度の音がした」
ノアが付け加える。
「ただし、音の原因は不明。地下に空洞がある可能性は高いが、誰かがいた証拠にはならない」
「そのとおり。あの場所を掘り返すのは、地質調査士の判断が出てからよ」
私は地図の一枚を指した。
「まず、リュネ村跡地について調べる。次に、三つの星を結ぶ線が、何を示しているのかを考える。順番を逆にしてはいけないわ」
「なぜです?」
エミリアが首を傾げた。
「先に図形の意味を決めてしまうと、都合のよい場所ばかりを探してしまうからよ。私たちが見つけたいものと、実際に存在するものは、必ずしも同じではないわ」
「……なるほど」
彼女は真剣に頷いた。
その直後、ノアが古い地図を裏返した。
「ところで、これを見てくれ」
地図の裏面には、薄い褐色の染みが広がっていた。その隅に、小さな文字が残っている。
「地図の裏に何か書いてあったの?」
「正確には、別の紙を重ねて書いた跡らしい。光の角度を変えると、筆圧の痕跡が見える」
ノアは窓際へ地図を運び、傾けた。
斜めから差し込む光の下で、凹凸が浮かび上がる。
文字は断片的だった。
読めるのは、いくつかの単語だけ。
北方。
旧道。
そして――三つの観測点。
「観測点……?」
私はその言葉を繰り返した。
「この地図、単なる道路地図ではなかったのかもしれないな」
ノアが言った。
「土地の境界や道筋だけでなく、何かを観測するための位置も記録していた可能性がある」
「星の観測施設と関係があるのでしょうか?」
エミリアが尋ねる。
「まだ分からないわ。ただ、北方観測施設という名称が古い建築史の本にあったことを考えると、調べる価値はある」
私は地図の端に残る三つの小さな点を見つめた。
点は不規則に並んでいるように見えた。
しかし、紙片の紋章を隣に置いた瞬間、違和感の正体が分かった。
「待って。これ、三つの星と同じ並び方をしているわ」
ノアが地図を覗き込む。
「確かに。だが、三つの点を結ぶ線は描かれていない」
「ええ。それどころか、点の一つには小さな輪が重ねられている」
私は昨日の金属片を取り出し、図形を見比べた。
分岐した線。
小さな輪。
地図の点。
まだ一致したとは言えない。けれど、偶然として片づけるには、共通点が増えすぎていた。
「三つの観測点を結ぶと、何かの形になるのかもしれない」
「地図上で線を引けばいいのでは?」
エミリアが言った。
「そうね。ただし、元の地図には書き込まないこと。写しを作って、その上で試しましょう」
彼女はすぐに紙と定規を用意した。
その手際のよさに、私は少し感心した。
……もっとも、定規を上下逆さまに持っていることに気づくまで、数秒かかったのだが。
「エミリア、その定規では線を引けないわ」
「えっ?」
彼女は手元を見て、真っ赤になった。
「こ、これは確認です! 定規の目盛りがどちらから始まっているかを……!」
「なるほど。学術的な確認ね」
ノアが真顔で頷く。
「君も、今の説明を信じたふりをする必要はないわよ」
「信じてはいない。記録する価値があると思っただけだ」
「何を記録するつもり?」
「地図の研究には、定規の向きも重要だという教訓を」
「その記録は今すぐ破棄しなさい」
エミリアが、とうとう声を立てて笑った。
◇
写しの上で三つの点を結ぶと、奇妙な形が浮かび上がった。
単純な三角形ではなかった。
一辺が長く伸び、その途中で小さな枝が分かれている。さらに、三角形の内側には、点と点を結ぶ短い線が一本だけ残されていた。
「……これは、昨日の金属片に似ているわ」
私は金属片を写しの上に置いた。
図形の分岐する部分と、驚くほどよく似ていた。
ただし、向きが違う。
金属片の輪を地図上の小さな輪に合わせると、線の始まりは北西を指した。
リュネ村跡地の方向だった。
「これで行き先が決まった、ということか?」
ノアが尋ねた。
「いいえ。行き先の候補が一つ増えただけよ」
「慎重だな」
「慎重でなければ、私たちは昨日の時点で石板を掘り返していたかもしれないわ」
「それは避けたい」
「私もよ」
私は三つの点を見つめた。
地図の点が本当に観測点なら、そこには何かを観測するための設備があったのだろうか。
星か。
土地か。
魔力の流れか。
それとも、私たちがまだ知らない何かか。
考え始めると、いくらでも仮説が浮かんでくる。
だからこそ、今は一つに決めない。
そのとき、扉がノックされた。
入ってきたのは、昨日の調査に同行した護衛の一人だった。
「ヴィオレッタ様。エーベルハルト家から使者が参りました」
「エーベルハルト家?」
私は顔を上げた。
「はい。レオポルト侯爵からの書簡です。先日の調査について、至急お伝えしたいことがあるとのこと」
使者から受け取った封筒には、侯爵家の紋章が押されていた。
封蝋を割り、便箋を開く。
文章は短かった。
――先代侯爵夫人が残した資料を再確認したところ、肖像画の裏に貼り付けられていた古い紙片が見つかった。
――その紙片には、三つの観測点に関する記述がある。
――ただし、そこに記された第三の地点は、現在の地図には存在しない。
私は便箋を持つ手に力を込めた。
「……現在の地図には、存在しない?」
ノアが私の表情を見て、書簡を受け取った。
彼の目が文章を追う。
「第三の地点の名前は?」
「書かれていないわ。侯爵は、原本を直接見せたいそうよ」
「なるほど。向こうも何かを見つけたわけか」
エミリアが不安そうに尋ねた。
「それって、リュネ村跡地に行く前に、エーベルハルト家へ戻ったほうがいいのでしょうか?」
「両方を調べる必要があるわね」
私は書簡を折りたたんだ。
「侯爵夫人の資料と、地図の三つの観測点。別々の資料から同じ手掛かりが出てきたのなら、照合する価値があるわ」
「ただし、急ぐ必要はない」
ノアが言った。
「第三の地点が地図にない理由も、まだ分かっていない。記載漏れなのか、名前が変わったのか、それとも別の理由なのか」
「ええ。だから、侯爵の原本を確認してから、リュネ村跡地へ向かいましょう」
私はそう決めた。
調査の順序が少し変わっただけだ。
謎が解けたわけではない。
むしろ、分からないことが増えている。
それでも、進むべき方向は見え始めていた。
◇
書簡を机に置き、私はもう一度、地図の三つの点を見つめた。
そのうち二つは、現在の地形と照合できる。
一つは、昨日の石板が見つかった分岐点。
もう一つは、古い観測施設の候補地に近い。
そして、三つ目。
地図上には確かに点があるのに、その場所を示す地名だけがない。
私は手帳を開き、新しい項目を作った。
第三の観測点。
位置の特定は未了。
名称不明。
エーベルハルト家所蔵資料との照合待ち。
そこまで書いたところで、手が止まった。
ふと、脳裏にあの暗い廊下が浮かんだ。
幾何学模様の床。
大きな扉。
そして、扉の前に並ぶ三つの光。
その一つだけが、ほかの二つよりも遠く離れていた。
私は目を閉じた。
記憶の断片は、すぐに消えてしまった。
だが、今度は不思議と恐怖だけが残ることはなかった。
代わりに、一つの疑問が胸に浮かんだ。
もし、あの扉が本当に存在するのなら。
なぜ私は、その前に立ったことがあるように感じるのだろう。
答えは、まだどこにもない。
私はその疑問を推測として手帳に記し、最後に一文を書き添えた。
――第三の地点が見つかるまで、星の意味を決めつけないこと。
窓の外では、午後の光がゆっくりと傾いていた。
エーベルハルト家の原本。
リュネ村跡地。
そして、地図から消えた第三の観測点。
三つの手掛かりが、ようやく一本の線で結ばれようとしていた。




