石の隙間に残されたもの
石板の中央から広がった青白い光は、数秒ほどで完全に消えた。
後に残ったのは、風の音と、足元の石が軋むかすかな音だけだった。
「全員、その場から動かないでください」
地質調査士のマルタ・グライフェンが、いつも以上に厳しい声で告げた。
「特に、光っていた石板には近づかないこと。亀裂が広がっています。地下に空洞がある可能性も高い。足場が崩れれば、怪我では済みません」
「……分かりました」
私は頷き、石板から十分な距離を取った。
石の隙間に挟まった白い紙片が、風に揺れている。
あれが何なのかは分からない。
しかし、先代エーベルハルト侯爵夫人の肖像画に描かれていた紋章と、よく似た印がある。
それだけは確かだった。
「ヴィオレッタ様」
エミリアが私の袖を引いた。
「もしかして、あの紙を取り出せば、何か分かるんでしょうか?」
「可能性はあるわね。ただし、紙を手に入れるために私たちが地下へ落ちたら、調査そのものが終わるわ」
「そ、それは困ります……!」
「ええ。私も、謎を解く前に自分が発掘対象になるのは避けたいもの」
ノアが小さく吹き出した。
「安心しろ。君は発掘されても、扱いにくい遺物として記録されるだけだ」
「あなた、私を何だと思っているの?」
「説明書の付属しない古代遺物」
「その説明書には、まずあなたの失礼な発言を記録しておく必要がありそうね」
「それは歴史的価値が高そうだ」
「お二人とも、今は冗談を言っている場合では……」
エミリアが困ったように私たちを見比べる。
その直後、彼女自身の足元で小石が転がった。
「ひゃっ!」
慌てて踏みとどまったエミリアを、近くにいた護衛が支える。
「……冗談を言っている場合ではない、というご指摘は正しいわね」
私は真顔で言った。
「エミリア、あなたは私たちの中で最も説得力のある実例を示してくれたわ」
「ヴィオレッタ様まで!」
緊張がほんの少しだけ緩んだ。
けれど、マルタは笑わなかった。
「作業を始めます。紙片の回収は、私が許可するまで禁止です」
彼女は護衛たちに安全な足場を確認させ、亀裂の位置と石板周辺の地面を調べ始めた。
細い測定棒を地面に差し込み、音の響き方を確かめる。石板から離れた位置には目印が置かれ、危険区域を示す縄が張られた。
私たちにも、それぞれ役割が割り振られた。
ノアは石板の図形を離れた位置から写し取り、エミリアは紙片の向きと周囲の状況を記録する。私は以前の地図と現場の地形を照らし合わせることになった。
思いのほか、時間がかかった。
そして、その時間は無駄ではなかった。
「……妙ですね」
地図を広げていた私は、思わず声を漏らした。
「どうした?」
ノアが近づいてくる。
「この石板の位置よ。古い地図では、道の分岐点から少し北にずれている。でも、現地の道筋を修正して重ねると、石板は分岐点そのものに重なるわ」
「地図の誤差では?」
「最初はそう考えたわ。でも、別の年代の地図でも同じずれ方をしている。道の位置が変わったのではなく、地図に描かれた分岐点のほうが、意図的にずらされているように見えるの」
ノアは地図を覗き込み、眉を寄せた。
「つまり、道を隠すために地図を歪めた可能性がある?」
「あるいは、特定の場所を分岐点として認識させないためかもしれない」
「どちらにしても、親切な地図とは言い難いな」
「古い地図に親切さを求めるのは間違いよ。現代の地図ですら、道に迷わせることがあるもの」
「君は地図に恨みでもあるのか?」
「先ほどから、私たちの行く先々で道が増えたり減ったりしているのよ。少しくらい文句を言っても罰は当たらないでしょう?」
ノアは肩をすくめた。
そのとき、マルタがこちらを呼んだ。
「回収の準備ができました。ただし、紙片を引き抜くのではありません。石の隙間を広げ、周囲の石が動かないことを確認しながら、薄い支持板ごと取り出します」
「紙が破れる可能性は?」
「あります。だから、できるだけ触れる面積を減らします。風が強くなったら中止です」
彼女は慎重に作業道具を並べた。
私は少し離れた位置から、その一挙一動を見守った。
紙片は古く、端が黄ばんでいる。だが、完全に崩れてはいないようだった。
細い器具が石の隙間へ差し込まれる。
マルタが周囲の石を固定し、補助員が支持板を滑り込ませた。
その瞬間だった。
石板の下から、低い音が響いた。
ごん。
まるで、地下で誰かが壁を叩いたような音だった。
全員の動きが止まる。
「手を離して!」
マルタの指示が飛んだ。
補助員が器具から手を離し、全員が決められた位置まで後退する。
石板の亀裂が、わずかに伸びていた。
青白い光は現れない。
ただ、地面の下から、もう一度だけ音がした。
ごん。
エミリアが私の腕をつかむ。
「ヴィオレッタ様……今の、聞こえましたよね?」
「ええ」
「地下に、何かいるんでしょうか」
「まだ何も分からないわ。音だけで生き物がいると判断するのは早計よ」
そう答えながら、私は自分の指先が冷たくなっていることに気づいた。
脳裏に、見覚えのない光景が浮かぶ。
暗い廊下。
幾何学模様の刻まれた床。
その先に立つ、大きな扉。
扉には、三つの星と、中央を貫く一本の線が刻まれていた。
そして、誰かの声。
――まだ、足りない。
私は目を閉じ、ゆっくり息を吐いた。
映像は消えた。
いつ、どこで見たものなのか。
そもそも、私自身の記憶なのか。
答えはない。
「ヴィオレッタ」
ノアの声がした。
彼は私の顔を見ていたが、問い詰めようとはしなかった。
「少し休むか?」
「いいえ。大丈夫よ」
「その返事は、君が大丈夫ではないときにも聞いたことがある気がする」
「私の観察記録でもつけているの?」
「君が分かりやすい人間なら、記録する必要もないんだが」
「残念ね。あなたの記録能力を鍛える機会を提供してあげているのよ」
「感謝しておこう」
彼はそれ以上、何も聞かなかった。
その距離感が、今はありがたかった。
マルタは石板の状態を再確認し、作業を再開できると判断した。ただし、支持板を入れた状態で石の動きを監視し、少しでも変化があれば中止するという条件付きだった。
今度は、音はしなかった。
器具がゆっくりと動き、紙片を挟んでいた石の隙間が、ほんのわずかに広がる。
支持板が滑り込む。
マルタが息を詰め、慎重に引き寄せた。
そして。
「……取れました」
白い紙片が、ついに石の隙間から姿を現した。
破れた端を除けば、想像していたよりも状態はよかった。
マルタは紙片を保護用の板に固定し、風を避けられる場所まで運んだ。私たちは彼女の許可を得て、順番にその表面を確認した。
そこには、三つの星と中央の円を組み合わせた紋章が描かれていた。
ただし、円の下には短い線が一本あり、右側には小さな三角形が添えられている。
エーベルハルト家の紋章とは違う。
肖像画に描かれていたものとも、完全には一致しない。
だが、私は紙片の下部に書かれた文字を見て、息を止めた。
「……これは」
かすれた文字は古い筆記体で書かれていた。
ノアが横から読み取る。
「『道を開く鍵は、三つの星の下にはない』……?」
「その下にも文字があるわ」
私は紙片を傷つけないよう、視線だけで続きを追った。
「『星を結ぶ線の、始まりを探せ』」
エミリアが小さく呟いた。
「鍵がある場所を示しているのでしょうか……?」
「そうかもしれない。でも、断定はできないわ」
私は紙片の紋章を観察した。
三つの星。
中央の円。
そこから伸びる一本の線。
これまで見つけた図形にも、似た構成があった。しかし、線の始まりがどこなのかは、絵だけでは分からない。
ノアが紙片の端を指した。
「ここを見ろ。裏側に、もう一つ何か書かれている」
紙の裏には、文字ではなく、短い数字のような記号が三つ並んでいた。
そのうち二つはかすれて読めない。
最後の一つだけが、はっきりと残っていた。
北を示す古い方位記号。
その横に、小さな文字が添えられている。
――リュネ。
私はエミリアと顔を見合わせた。
リュネ村跡地。
以前の地図で、古い道の先に記されていた場所だ。
「偶然、とは考えにくいわね」
「同感だ。ただし、これがリュネ村跡地を指しているのか、それとも別の何かなのかは、確かめる必要がある」
ノアは慎重だった。
彼の視線が、紙片の紋章へ戻る。
「それに、最初の文だ。『道を開く鍵は、三つの星の下にはない』。わざわざ否定しているということは、誰かが星の下を探すと考えていたのかもしれない」
「あるいは、そう思わせること自体が目的だったのかも」
私はそう答え、手帳を開いた。
確認できた事実。
紋章の形。
文字の内容。
リュネという地名。
それらを一つずつ記録する。
記憶に浮かんだ廊下のことは、別の欄に書いた。
事実と推測を混ぜてはいけない。
それが、今の私にできる数少ない自衛手段だった。
そのとき、紙片を固定していた支持板の端から、何かが落ちた。
小さな銀色の欠片だった。
地面に落ちたそれを、護衛が拾い上げる。
「マルタ殿、こちらも石の隙間から出てきたようです」
金属片は爪の先ほどの大きさしかない。
表面には、細い線が刻まれていた。
マルタが確認すると、それは石板の亀裂に挟まっていたものらしかった。
ノアが金属片を覗き込む。
「……この線、紙片の紋章と似ているな」
私は頷いた。
だが、金属片には星も円もなかった。
ただ一本の線が、途中で二つに分かれ、片方が小さな輪を描いている。
まるで、どこかへ続く道を示すように。
そして、その輪の中心には、針で突いたような小さな穴があった。
私はそれを見た瞬間、またあの暗い廊下を思い出した。
扉の中央。
三つの星。
一本の線。
その線が始まる場所にあった、小さな穴。
「ヴィオレッタ様?」
エミリアの声で我に返った。
「どうかしましたか?」
「……いいえ。まだ、何も分からないわ」
そう答えたものの、胸の奥に残る違和感は消えなかった。
紙片はリュネという名を示している。
金属片は、扉に刻まれた図形と似ている。
そして地下から響いた、二度の音。
この場所には、まだ私たちが知らない何かがある。
だが、それが何なのかを知るためには、焦ってはいけない。
私は手帳を閉じ、石板を振り返った。
亀裂の奥は暗く、何も見えない。
それでも、その暗闇の向こうに、扉の輪郭があるような気がした。
もちろん、証拠はない。
だから私は、その考えを手帳には書かなかった。
代わりに、紙片に記された最後の言葉を、もう一度だけ読み返した。
――星を結ぶ線の、始まりを探せ。
次に調べるべき場所は、リュネ村跡地。
そして、三つの星を結ぶ線の始まり。
その二つが同じ場所を指しているのかどうか。
それを確かめることから、次の調査は始まる。




