石板の向こうから
青白い光は、石板に刻まれた扉の図形の中央で、かすかに揺れていた。
誰も動かなかった。
風に揺れる草の音さえ、今だけは遠く感じられる。
「全員、その場から下がってください」
地盤調査を担当するマルタ・グライフェンが、静かな声で告げた。
「石板には触れないこと。周囲の地面にも近づかないでください。何が起きているのか分かりません」
護衛たちはヴィオレッタたちを後方へ誘導した。
ノアは石板から目を離さず、地面の傾きや亀裂の有無を確かめている。エミリアはヴィオレッタの袖をつかんだまま、息をひそめていた。
「ヴィオレッタ様……あれは、温室で見た光と同じでしょうか?」
「色と明るさは似ていますわ。ただ、同じ現象だと断定するには、まだ情報が足りません」
「こんなときまで、冷静なのですね」
「冷静というより、怖がっている暇がないだけです」
ヴィオレッタは答えた。
正直に言えば、怖かった。
地中から響く音。突然現れる光。そして、自分の意思とは無関係に脳裏へ浮かぶ、見覚えのない回廊。
それらが何を意味しているのか、彼女には分からない。
分からないものに近づくのは、勇気がいる。
だが、分からないからといって、目を背け続けることもできなかった。
石板の光が、わずかに強くなった。
中央の円から細い線が伸び、扉の輪郭をなぞるように広がっていく。
「……形が変わっています」
エミリアがつぶやいた。
ヴィオレッタも気づいていた。
最初は扉の図形の中央だけだった光が、今ではその周囲に刻まれた三本の線へと移動している。
一本目。
二本目。
三本目。
すべての線が光を帯びた瞬間、石板の奥から低い振動が伝わってきた。
足元の土が、かすかに揺れる。
「後退してください!」
マルタが声を上げた。
全員がさらに距離を取る。
次の瞬間、石板の表面から乾いた音が響いた。
カチリ。
何かが噛み合うような、小さな音だった。
そして、光が消えた。
数秒間、誰も口を開かなかった。
「……終わったのでしょうか?」
エミリアが恐る恐る尋ねる。
「分かりません」
マルタは慎重に答えた。
「少なくとも、今のところ地盤の大きな変化は確認できません。しかし、光が消えたからといって、安全になったとは限りません」
ノアが石板を見つめたまま言った。
「今の音は、温室で聞いたものとは違いましたね」
「ええ。あちらでは低い音が続きましたが、今回は最後に何かが噛み合うような音がした」
ヴィオレッタは手帳を開いた。
「それに、光が現れた順序も記録しておきましょう。扉の中央から始まり、三本の線へ広がり、最後に消えた。そして、光が消える直前に音がした」
彼女は見たものを一つずつ書き留めた。
その間、マルタは護衛の一人と相談し、石板の周囲に簡易的な立ち入り禁止区域を設けた。
「ここから先は、専門家による調査が必要です。石板の周囲を掘り返すことはできません。まずは地盤の状態を確認し、必要なら別の方法を考えましょう」
「分かりました」
ヴィオレッタはうなずいた。
しかし、その視線は石板から離れなかった。
扉の図形。
三本の線。
そして、中央に描かれた円。
それらは、先代夫人の肖像画にあった紋章とよく似ていた。
もし、この石板が何らかの入口に関係しているのなら、先代夫人はこの場所について知っていたのかもしれない。
あるいは、彼女が知っていたのは、この場所そのものではなく、ここへつながる別の何かだったのかもしれない。
「ヴィオレッタ様」
エミリアが小さく声をかけた。
「少し、顔色が悪いです」
「そうですか?」
「はい。先ほどから、ずっと石板を見つめていらっしゃいます」
ヴィオレッタは、自分の手が冷たくなっていることに気づいた。
「少し考え事をしていただけですわ」
「本当に、それだけですか?」
エミリアの声は、いつもより真剣だった。
ヴィオレッタはすぐには答えなかった。
記憶のことを話すべきだろうか。
温室で見た光のときも、石板が作動したときも、彼女の脳裏には同じ回廊が浮かんでいた。
しかし、それを説明したところで、何が分かるというのだろう。
自分でも確かめられないものを、他人にどう伝えればいいのか。
「……少し、気になることがあるのです」
ヴィオレッタは慎重に言った。
「でも、まだ確かなことではありません。今は、話すべきではないと思っています」
エミリアは一瞬だけ寂しそうな顔をしたが、すぐにうなずいた。
「分かりました。話したくなったら、いつでも聞きますから」
「ありがとうございます」
ヴィオレッタは、心からそう答えた。
そのとき、護衛の一人が声を上げた。
「マルタ先生、こちらを!」
彼が指さしたのは、石板から少し離れた場所だった。
地面の表面に、細い亀裂が一本走っている。
先ほどまでは、そこに亀裂はなかったはずだ。
マルタはすぐに近づこうとしたが、護衛が腕を伸ばして制止した。
「先生、危険です!」
「分かっています。近づきすぎるつもりはありません」
彼女は安全な距離から、亀裂の形を確認した。
亀裂は石板の方へ向かって伸びている。長さはそれほどではないが、地表の土がわずかに沈み込んでいた。
「……地中に空洞がある可能性が高くなりましたね」
マルタは表情を引き締めた。
「これ以上の調査は中断します。全員、ここから離れてください」
今度は誰も反対しなかった。
護衛たちは道具をまとめ、馬車へ戻る準備を始めた。
そのとき、ヴィオレッタは石板の近くに、小さなものが落ちていることに気づいた。
白い紙片だった。
風に飛ばされないよう、石の陰に挟まっている。
「待ってください」
ヴィオレッタは声を上げた。
「紙のようなものが見えます」
マルタが振り返った。
「近づいてはいけません。周囲の地面が不安定です」
「分かっています。触れるつもりはありません」
ヴィオレッタは、その場から目を凝らした。
紙片には、文字らしきものが記されているようだった。
しかし、距離があり、すべてを読み取ることはできない。
ただ、一つだけ判別できる文字があった。
中央に、細い線が一本。
その下に、小さな円。
先代夫人の肖像画に描かれていた紋章と、同じ構造だった。
「……あれは、いつからあったのでしょう?」
ノアが尋ねた。
「分かりません。少なくとも、先ほど光が消える前には気づきませんでした」
「風で運ばれてきた可能性もあります。ただ、石の陰に挟まっているのが気になりますね」
ヴィオレッタは紙片を見つめた。
新しく置かれたものなのか。
以前からそこにあったのか。
あるいは、光が消えたことで、土の隙間から現れたのか。
どれも可能性にすぎない。
「現場を記録して、専門家の管理下で回収できるか検討しましょう」
マルタがそう告げた。
ヴィオレッタはうなずいた。
今は、触れないことが最善だった。
彼女たちは石板から十分な距離を取り、周囲の状態を記録した後、村へ戻ることになった。
馬車へ乗り込む直前、ヴィオレッタは一度だけ振り返った。
石板は、再びただの古い石に戻っていた。
青白い光も、低い音もない。
それなのに、あの場所が静かになったとは思えなかった。
地面の下に、何かがある。
そして、その何かは、彼女たちが近づいたことに反応したように見えた。
もちろん、それは推測にすぎない。
ヴィオレッタは、そのことも手帳に書き留めた。
帰りの馬車では、エミリアもノアも、いつもより口数が少なかった。
しばらくして、ノアが静かに口を開いた。
「一つ、気づいたことがあります」
「何でしょう?」
「石板の光が現れたとき、あなたは何かを思い出したような顔をしていました」
ヴィオレッタの指先が、手帳の上で止まった。
「……そう見えましたか?」
「ええ。ただし、何を思い出したのかまでは分かりません」
ノアは窓の外を見ながら続けた。
「話したくないなら、今は聞きません。ただ、もし調査に影響することなら、いつか教えてください」
ヴィオレッタは彼の横顔を見た。
いつもの皮肉も、からかうような笑みもなかった。
「考えておきます」
彼女はそう答えた。
ノアは、それ以上何も尋ねなかった。
馬車が村へ近づいた頃、ヴィオレッタは手帳を開いた。
石板の図形を描き写したページ。
そこには、三本の線と中央の円が記されている。
彼女は、その下に新しい一文を書き加えた。
『石板の光は、特定の順序で現れた。作動条件は不明。近くに紙片が存在していたが、現時点では石板との関係は確認できない』
そして、少し迷った後、さらに一行を加えた。
『光が現れた瞬間、私は再び、あの回廊を思い出した』
ペンを置いたヴィオレッタは、窓の外を見つめた。
あの回廊は、どこにあるのだろう。
観測施設の中なのか。
地下に広がる構造物の中なのか。
それとも、彼女の記憶の中にしか存在しない場所なのか。
答えはまだない。
ただ、紙片に刻まれていた印と、石板に描かれた図形は、確かに似ていた。
次に調べるべきことは、もう決まっている。
あの紙片を、安全に回収し、内容を確かめること。
そして、記録されていない入口が、本当に存在するのかを確かめることだった。




