地図から消された道
翌朝、ヴィオレッタは夜明け前に目を覚ました。
窓の外はまだ薄暗く、ベルン村の家々には灯りもほとんどついていない。遠くの丘陵地帯には朝霧がかかり、昨夜、青白い光が見えた方角は白く霞んでいた。
彼女は身支度を整えると、机の上に地図と手帳を広げた。
五十年前の土地管理記録。
旧道の管理区画。
そして、記録されていない地下構造物の入口。
それらを照らし合わせても、具体的な位置はまだ特定できない。
「……本当に、意地の悪い謎ですわね」
誰に聞かせるでもなくつぶやいたところで、扉が三度叩かれた。
「ヴィオレッタ様、起きていらっしゃいますか?」
エミリアの声だった。
「ええ。どうぞ」
扉が開き、エミリアが顔を出した。
彼女はすでに外出用の服に着替えていた。肩には鞄を掛け、その中から紙の包みが少しだけはみ出している。
「おはようございます。朝食をいただく前に、確認したいことがありまして」
「その鞄の中身について、でしょうか?」
「どうして分かったんですか?」
「昨日、焼き菓子の量を減らされたことを、あなたはまだ納得していないようでしたから」
「今回は違います!」
エミリアは慌てて鞄を開けた。
中に入っていたのは、焼き菓子ではなく、小さなスケッチ帳だった。
「昨日、役場で見せていただいた古い地図を、少し描き直してみたんです。こちらが現在の街道で、こちらが五十年前の旧道。それから、さらに古い地図に描かれていた道を重ねると……」
彼女は机の上に紙を広げた。
そこには、三つの異なる年代の地図が重ねて描かれていた。
現在の街道は南側へ迂回している。五十年前の旧道は、そこから北へ延びていた。そして、さらに古い地図では、その道が丘陵地帯の途中で二つに分かれている。
一方は北方観測施設の推定位置へ。
もう一方は、地図の端に記された小さな集落跡へ続いていた。
「この集落跡、気になりませんか?」
エミリアが尋ねた。
「ええ。現在の地図にはありませんね」
「はい。古い地図には名前が書かれていたのですが、五十年前の地図では、すでに集落の記号が消えているんです」
ヴィオレッタは、地図の端に記された文字を読み取った。
文字はかすれていたが、どうにか判別できる。
『リュネ村跡地』
「この場所について、何か記録が残っているかもしれませんわね」
「そう思って、役場の管理人さんに尋ねてみたんです。そしたら、リュネ村は数百年前に廃村になったと伝えられているそうです」
「廃村になった理由は?」
「はっきりとは分からないそうです。疫病だったという話もあれば、住民が別の土地へ移住したという話もあるとか」
ヴィオレッタは地図を見つめた。
数百年前に廃村となった集落。
その近くを通る旧道。
そして、現在の地図から消えた観測施設。
それぞれの関係は不明だが、現地調査の範囲を考えるうえで重要な手掛かりになりそうだった。
「ありがとうございます。これなら、現地で無駄に歩き回る時間を減らせるかもしれません」
「よかったです!」
エミリアは嬉しそうに微笑んだ。
「それと、もう一つ。リュネ村について、管理人さんがこんなことをおっしゃっていました」
「何でしょう?」
「村の人々は、昔から『道を数えてはいけない』と言っていたそうです」
ヴィオレッタは顔を上げた。
「道を数えてはいけない?」
「はい。村へ続く道は、地図に描かれている数と、実際に見える数が違うことがある、と」
しばらく沈黙が流れた。
ヴィオレッタは、机の上の地図をもう一度確認した。
道は二つに分かれている。
だが、現在の地図には、その分岐点自体が描かれていない。
地形が変わった可能性はある。古い道が草木に埋もれ、判別できなくなっただけかもしれない。
それでも、言い伝えとしては妙に具体的だった。
「その話を、誰から聞いたのですか?」
「管理人さんのお祖母様です。さらに、そのお祖母様から聞いた話だそうです」
「なるほど。伝承として記録しておきましょう。事実と確認されたわけではありませんが、調査の参考にはなります」
そのとき、廊下から慌ただしい足音が聞こえてきた。
「お二人とも、こちらにいらっしゃいましたか」
ノアが扉の前に立っていた。片手には、折り畳まれた書類がある。
「地方管理官から返答がありました。旧観測区画への立ち入りについて、条件付きで許可が下りています」
「ずいぶん早いですね」
「昨日のうちに申請を出しておきました。返答が来るまで時間がかかると思っていたのですが、担当者が古い記録を確認してくれたようです」
「それで、条件とは?」
「地盤調査の専門家を同行させること。指定された範囲から外れないこと。そして、地下構造物が見つかっても、許可なく内部へ入らないことです」
「妥当な条件ですわね」
ヴィオレッタはすぐに同意した。
「では、まず観測施設の周囲を確認し、その後、リュネ村跡地へ向かいましょう」
ノアは少し考えた。
「順番を逆にするのはどうでしょう。村跡地について何か分かれば、観測施設へ向かう旧道を特定しやすくなるかもしれません」
「確かに。ですが、村跡地までの道が残っている保証はありません」
「だからこそ、地図を持っていく価値があるのでは?」
エミリアが二人の会話に加わった。
「昨日の地図を見る限り、旧道の分岐点は観測施設へ向かう道の途中にあります。先に分岐点を確認して、それから状況を見て判断するのはどうでしょうか?」
ヴィオレッタは少し考えた後、うなずいた。
「それがよさそうですわね。現地の状態を確認してから、次の行動を決めましょう」
ノアが書類を畳んだ。
「では、朝食を済ませたら出発です」
「その前に、一つだけ」
ヴィオレッタはエミリアの鞄を見た。
「焼き菓子は?」
「……あります」
「やはり」
「今回は、人数分だけです!」
「人数分、という言葉の定義について、一度話し合う必要がありそうですわね」
ノアは書類で口元を隠した。
「私は、調査よりもそちらの議論の方が長引くと予想します」
「ノア様まで!」
エミリアの抗議が、朝の宿に響いた。
朝食を終えた一行は、地盤調査の専門家と合流し、旧道へ向かった。
専門家は王立学園の研究部門に所属する中年の女性で、名をマルタ・グライフェンという。地質と古い建造物の調査を専門としており、温室の術式を調べた研究者から今回の件を聞いていた。
「地面の下に何があるか分からない以上、急いで進むのは禁物です。石板を見つけても、勝手に掘り出さないこと。異常な音や光が現れた場合は、すぐに距離を取ってください」
マルタは一同に念を押した。
「もちろんです」
ヴィオレッタが答える。
「ただし、異常が起きる前から危険な兆候を見落とさないようにしたいのです。地面の沈み込みや、石の配置など、確認すべき点があれば教えてください」
「分かりました。あなたが記録を担当するのですね?」
「はい」
「なら、見たことと推測を分けて記録してください。調査では、それが何より重要です」
ヴィオレッタは、思わず微笑んだ。
「私も、同じ考えですわ」
旧道は、村の北側から緩やかな丘陵地帯へ続いていた。
道の大部分は草に覆われ、ところどころに古い石畳が残っている。両側には低木が生い茂り、進むにつれて人の手が入らなくなったことが分かった。
しばらく進んだところで、エミリアが立ち止まった。
「ここです」
彼女が示した先には、道が二つに分かれる場所があった。
片方は北東へ向かい、もう片方は北西へ曲がっている。
現在の地図には、分岐点そのものが描かれていない。
「古い地図と一致していますね」
ノアが地図を見比べた。
「ただ、どちらの道も、先は草木に覆われています」
マルタは周囲を調べ、地面の状態を確認した。
「北東側は、地盤が比較的安定しています。北西側は一部が沈み込んでいるので、近づかない方がよいでしょう」
「では、まず北東側を確認しますか?」
エミリアが尋ねる。
「ええ。ただし、ここで一度、位置を記録しましょう」
ヴィオレッタは地図に分岐点を描き加えた。
そのとき、道の脇に小さな石柱があることに気づいた。
半分ほど土に埋まり、表面には苔が広がっている。石柱の正面には、見覚えのある紋章が刻まれていた。
枝と三つの星。
その下には、小さな円と一本の線。
ヴィオレッタは息をのんだ。
「……ここにも」
ノアが隣に立つ。
「間違いなく、同じ意匠ですね」
マルタは石柱を慎重に調べた。
「石の風化具合からすると、かなり古いものです。ただし、正確な年代は分かりません」
「この石柱は、道標でしょうか?」
ヴィオレッタが尋ねると、マルタは首を傾げた。
「その可能性はあります。ただ、普通の道標なら、進む方向や距離を示す文字が刻まれていることが多い。これは、そうした情報がありません」
エミリアが石柱の側面を覗き込んだ。
「こちらに、小さな傷があります」
「触らずに、見える範囲で確認してください」
マルタに言われ、エミリアは少し離れた位置から目を凝らした。
側面には、三つの短い線が刻まれていた。
その下には、何もない。
「星の数と関係があるのでしょうか?」
エミリアがつぶやく。
「可能性はあります。ただ、同じ形があるというだけで、意味まで同じだとは限りません」
ヴィオレッタは石柱の位置を記録した。
そのとき、北西側の道から、かすかな物音が聞こえた。
枝が折れる音。
続いて、草を踏む音。
護衛たちが一斉にそちらを向いた。
「誰かいるのですか?」
ヴィオレッタが声をかける。
返事はなかった。
マルタが手を上げ、全員に動かないよう合図した。
数秒後、草むらから小さな動物が飛び出してきた。
茶色い毛並みの野ウサギだった。
エミリアがほっと息を吐く。
「よかった……」
「野生動物がいるということは、この周辺に人が立ち入っていないとは限らない、ということでもあります」
ノアが冷静に言った。
「今の音が人間だった可能性も、完全には否定できません」
「せっかく安心したのに、どうして不安を追加するのですか?」
「見落としを減らすためです」
「そのためなら、何でもおっしゃるのですね……」
エミリアは肩を落とした。
ヴィオレッタは笑いそうになったが、すぐに表情を引き締めた。
北西側の道には、確かに誰かが通ったような跡があった。
草が不自然に倒れ、土の一部が新しく崩れている。
野ウサギが通っただけの跡かもしれない。
しかし、その先には、地面に半分埋もれた石板が見えていた。
石板の表面には、三つの星と円の紋章。
そして、その中央には、扉のような形をした図形が刻まれていた。
ヴィオレッタは、手帳を握りしめた。
記録されていない入口。
それが、単なる記憶の断片ではなく、現実のどこかに存在する可能性が、また一つ高まった。
だが、今はまだ近づけない。
地盤の状態も、石板の意味も分からない。
「マルタ先生。北西側の地盤も、調べていただけますか?」
「もちろん。ただし、ここから先は慎重に進めましょう」
専門家が道具を取り出す。
ヴィオレッタは、石板から目を離さなかった。
そのとき、石板の奥から、かすかな音が聞こえた。
ゴン。
一度だけ。
今度は、誰も見間違えようのないほど近い場所からだった。
ヴィオレッタは息を止めた。
地面の下で、何かが動いている。
そして、石板に刻まれた扉の図形の中央に、ごく小さな青白い光が灯った。




