旧道の先に待つもの
最寄りの村に到着した頃には、太陽が西へ傾き始めていた。
村の名はベルン村。北東地方の丘陵地帯に位置する、小さな集落だった。石造りの家々が緩やかな坂に沿って並び、村の中央には古い井戸と、旅人向けの宿が一軒ある。
馬車を降りたヴィオレッタは、まず村の入口に立つ古い道標を見上げた。
風雨に削られた石柱には、現在の地図には記載されていない道の名前が刻まれている。
「ここにも旧道の記録が残っているのですね」
「この辺りでは、昔から使われていた道を知っている人間がまだいるのだろう」
ノアは石柱の文字を確かめながら答えた。
「ただし、道を知っていることと、現在も通れることは別です」
「あなたは本当に、希望を持たせるのが苦手ですわね」
「希望だけで山道を歩くのは危険ですから」
「では、あなたには地図と食料を持たせておきましょう。希望はエミリアに担当していただきます」
「えっ、私ですか?」
「ええ。あなたなら、どんな状況でも前向きな解釈を見つけてくださいますもの」
「そ、それは褒められているのでしょうか……?」
「半分ほどは」
エミリアは少し考えた後、鞄から焼き菓子を一つ取り出した。
「では、希望を一つ配りますね。お腹が空いているときは、これを食べれば元気になります」
「残り半分の評価が変わりそうですわ」
ノアが小さく笑った。
宿の主人は、ヴィオレッタたちが旧観測施設について尋ねると、すぐに表情を曇らせた。
「北の丘にある、古い建物のことですかい?」
「ご存じなのですか?」
「建物を見たことはありません。ただ、昔からあの辺りには近づくなと言われています。地面が崩れやすい場所があるし、霧が出ると道が分からなくなる。そういう話ですな」
「いつ頃から、そのように言われているのでしょう?」
「さあ……私の祖父も、そのまた祖父から聞いたと言っていましたよ」
ヴィオレッタは手帳を開いた。
「その話に、何か特別な出来事は含まれていますか? 例えば、夜に光が見えるとか、地面から音がするとか」
主人はしばらく考えた。
「光なら、聞いたことがあります。青白い光が丘の方で見えた、と。ただ、いつの話だったかは分かりません。昔の人は、妙なものを見るとすぐに妖精やら古い神様やらのせいにしますからな」
「実際に見た人は?」
「私の父です。若い頃、北の丘で夜道を歩いていたとき、地面の下から鐘のような音が聞こえたそうです」
ヴィオレッタは顔を上げた。
「鐘の音……?」
「ええ。三度鳴った後、地面が光ったとか。父は驚いて逃げ帰ったそうです」
ノアの表情が変わった。
「それは、どのくらい前の話ですか?」
「五十年ほど前でしょうか。正確な年は覚えていません」
五十年前。
現在の街道が整備された時期と近い。
ヴィオレッタはそのことを書き留めた。
「その後、何か調査が行われたのでしょうか?」
「役人が何度か来たと聞いています。ただ、結局は地盤が悪いという話になって、立ち入りを禁じたらしいです」
「調査の記録は残っていますか?」
「村の役場に古い帳面があるはずです。ただ、全部が読めるとは限りませんよ」
「十分です。確認させていただけますか?」
主人は快く承諾した。
夕食を済ませた後、ヴィオレッタたちは村の小さな役場を訪れた。管理人の許可を得て、五十年前の土地調査に関する帳面を確認する。
紙は黄ばんでいたが、文字は比較的はっきり残っていた。
最初の記録には、旧道沿いの地盤沈下について記されていた。続く数ページには、地中に石造構造物が存在する可能性、周辺の地面で異常な振動が確認されたことなどが書かれている。
だが、調査は途中で打ち切られていた。
理由は、担当者の交代と、調査費用の不足。
「これだけで、何かを隠したとは言えませんね」
ヴィオレッタは帳面を閉じながら言った。
「ええ。地盤が不安定で、費用も足りなかったのなら、調査が中断されること自体は不自然ではありません」
ノアも同意した。
「ただし、最後の記録には気になることが書かれています」
彼は帳面の末尾を指さした。
そこには、調査担当者が交代する直前の短い記述があった。
『地下構造物の入口と思われる箇所を確認。詳細調査は翌日実施予定』
その下には、別の筆跡で一文が付け加えられていた。
『翌日の調査は中止。入口の位置は記録しないこと』
ヴィオレッタは、その一文をじっと見つめた。
「なぜ、入口の位置を記録しないようにしたのでしょう?」
「地盤の危険性を考慮した可能性はあります。ただ、それなら位置を記録したうえで立ち入りを禁じればいい」
ノアは慎重に言葉を選んだ。
「意図的に記録を残さなかったのか、それとも別の事情があったのか。書かれた文だけでは判断できません」
エミリアは帳面の余白を見つめていた。
「この筆跡、最初の記録を書いた方とは違うように見えます」
「確かに、文字の形が異なりますね」
ヴィオレッタはうなずいた。
「ただし、同じ人物が急いで書いた可能性もあります。筆跡だけで別人と決めつけるのは危険ですわ」
彼女は帳面のページ番号と記述の位置を記録した。
そのとき、管理人が奥から別の帳面を持ってきた。
「こちらも、同じ頃の土地管理記録です。何かの役に立つかもしれません」
ヴィオレッタは礼を言い、帳面を受け取った。
数ページめくったところで、彼女の指が止まった。
そこには、旧道の維持管理について記されていた。
五十年前、街道の一部が変更された際、北側の区間が管理対象から外されている。理由は地盤の不安定化。だが、その区間の新しい管理番号は記載されていなかった。
代わりに、欄外に小さな記号が描かれていた。
枝と三つの星。
その下には、円と一本の線。
ヴィオレッタは思わず息を止めた。
ノアが横から覗き込む。
「……同じ紋章ですね」
「ええ。少なくとも、これまで見てきたものと非常によく似ています」
エミリアは二冊の帳面を見比べた。
「でも、どうして土地の管理記録に、エーベルハルト家の紋章に似た印があるのでしょう?」
「それが本当に家門の紋章なのか、まだ分からないからですわ」
ヴィオレッタは記号を写し取った。
「先代夫人が残した言葉を思い出してください。三つの星は、家門を示すものではなく、記録の所在を示す目印だと書かれていました」
「つまり、この印が示しているのは、家門ではなく、何かの記録が保管されている場所かもしれない……?」
「その可能性があります。ただし、確かめるまでは仮説です」
彼女は帳面を閉じた。
五十年前の調査で、地下構造物の入口と思われる箇所が見つかっていた。
その翌日、調査は中止され、入口の位置は記録しないよう指示された。
そして、同じ頃の土地管理記録には、三つの星の紋章に似た記号が残されている。
偶然の一致ではない可能性が、少しずつ高まっていた。
役場を出ると、夜の冷たい空気が頬を撫でた。
エミリアは肩をすくめ、外套の襟を引き上げた。
「明日、現地へ向かうのですよね?」
「専門家の判断を待ってからですわ。今夜は、これ以上の調査はしません」
「よかった……」
「あなたは、行きたくないのですか?」
「行きたいです。でも、少し怖いです」
エミリアは正直に答えた。
「何があるのか分からない場所ですから。でも、怖いからといって、何も知らないままでいるのも嫌なんです」
ヴィオレッタは彼女を見つめた。
「それで十分ですわ。恐怖を感じないことが勇気なのではありません。怖いと分かったうえで、どう行動するかを選ぶことが大切なのですから」
エミリアは、ゆっくりとうなずいた。
宿へ戻る道の途中、ノアがふと足を止めた。
「どうしましたの?」
ヴィオレッタが尋ねると、彼は村の北側に目を向けた。
遠くの丘陵地帯に、かすかな光が見えた。
青白い光だった。
一度、瞬く。
そして、消える。
三人は、しばらくその方向を見つめていた。
「……あれは、何でしょう?」
エミリアが小さくつぶやいた。
「まだ分かりません」
ヴィオレッタは答えた。
「ですが、明日の調査を急ぐ理由が一つ増えましたわ」
その瞬間、丘の向こうから、低い音が響いた。
ゴン。
遠すぎて、はっきりとは聞こえなかった。
それでも、ヴィオレッタには分かった。
あの場所で、再び何かが動いたのだ。
彼女は手帳を取り出し、時刻と光の見えた方角を書き留めた。
記録されていない入口。
その位置を、五十年前の人々は意図的に残さなかったのかもしれない。
だが、入口そのものが消えたわけではなかった。
地面の下で、何かが今も動き続けている。
そして、その音は、確かに彼女たちのいる場所まで届いていた。




