地中から響く扉の音
青白い光が消えてから、数分が経過した。
それでも、誰も崩落箇所へ近づこうとはしなかった。
護衛の一人が周囲を警戒し、もう一人が馬車の御者に安全な場所まで下がるよう指示している。残る二人は、地面に新たな亀裂が生じていないか、慎重に確認していた。
ヴィオレッタはその様子を眺めながら、手帳に記録した内容を読み返した。
低い音が二度。
青白い光。
紋章の刻まれた金属の輪。
そして、光が消えた後も、地面に目立った変化はなかった。
「……扉を叩くような音、ですか」
隣でノアがつぶやいた。
「あなたにも、そう聞こえましたの?」
「ええ。少なくとも、石が崩れる音とは違いました」
「地中に空洞がある可能性は?」
「あります。ただ、音だけでは判断できません。地下構造物が存在するなら、音が反響した可能性もある」
ヴィオレッタは地面に目を向けた。
「つまり、地下に何かがあるかもしれない。でも、それが入口なのか、部屋なのか、ただの空洞なのかも分からない」
「その通りです」
「……調査というのは、どうしてこうも面倒なのでしょう」
「簡単に答えが出るなら、あなたが調べる必要もないでしょう」
「今、少しだけあなたを嫌いになりましたわ」
「少しだけで済んでよかったです」
ノアは涼しい顔で答えた。
エミリアが二人の間に視線を往復させる。
「お二人とも、こんな状況でも本当に普段どおりですね……」
「普段どおりでいられるのは、よいことですわ」
ヴィオレッタはそう答えたものの、心の中では別のことを考えていた。
あの光を見た瞬間、頭の中に浮かんだ回廊。
そして、いつもの声。
まだ、足りない。
今回は、いつもよりも鮮明だった。床の幾何学模様だけでなく、壁に並んだ細長い灯りまで見えた気がする。
けれど、その記憶が本当に過去のものなのか、判断できない。
ヴィオレッタは意識して、視線を手帳へ戻した。
記憶と現実を混同してはならない。
それだけは、忘れないようにしなければならなかった。
やがて、護衛の報告がまとまった。
崩落箇所の周辺には新たな亀裂はなく、石板の一部も安定しているように見える。ただし、地中の状態は確認できておらず、近づくこと自体に危険がないとは断言できなかった。
「このまま進むのは難しいでしょう」
護衛の隊長が告げた。
「専門家の到着を待つべきです。地面の下に空洞があるなら、掘り進めることで崩落が広がる可能性があります」
「分かりました。では、ここで待機しましょう」
ヴィオレッタはすぐに同意した。
エミリアが少し驚いた顔をする。
「もっと調べたがると思っていました」
「私も、もう少し調べたいとは思っていますわ」
「では、どうして?」
「知りたいことがあるのと、今すぐ危険を冒す必要があるのとは、別の話ですもの」
エミリアはしばらく考え、それから微笑んだ。
「……私も、そう考えられるようになりたいです」
「そのためには、まず焼き菓子を適切な量だけ持っていくことから始めましょう」
「まだ、そのお話をなさるのですか!?」
「今回の旅で最初に解決した問題ですから、記録に残しておく価値がありますわ」
ノアが小さく笑った。
その直後、護衛の一人がこちらへ歩いてきた。
「お話し中、失礼いたします。崩落箇所の近くで、妙なものを見つけました」
「妙なもの?」
隊長が尋ねる。
「はい。石板の脇に、古い道標のようなものが埋まっています」
ヴィオレッタたちは、護衛の案内で安全な位置からその場所を確認した。
地面からわずかに突き出した石には、文字らしきものが刻まれていた。長年の風雨で摩耗しており、すべてを読むことはできない。
しかし、残された文字の一部は判別できた。
北。
旧道。
そして、数字らしき記号。
「この石は、街道の道標でしょうか?」
エミリアが尋ねた。
「その可能性はあります」
ノアは石の表面を観察した。
「ただし、現在の街道に使われているものとは形式が違います。かなり古いものかもしれません」
ヴィオレッタは、旧地図の写しを取り出した。
現在の街道は、崩落箇所の手前で緩やかに曲がっている。
だが、古い地図に描かれた道は、そのまま北東へ延びていた。
道標の示す方向も、ほぼ一致している。
「この旧道を進めば、観測施設に近づけるのかもしれませんね」
「ただ、道が残っているとは限りません。現在の地図から消えている以上、途中で通行できなくなっている可能性もあります」
ノアの言葉に、ヴィオレッタはうなずいた。
彼女は道標の形と位置を記録し、石板の紋章との関係についても、現時点では不明と書き添えた。
そのときだった。
地面の下から、再び音が響いた。
ゴン。
三人は同時に顔を上げた。
先ほどと同じ音だった。
しかし、今回は一度だけでは終わらなかった。
ゴン、ゴン。
三度目の音が響いた直後、石板の隙間から青白い光が漏れた。
「全員、下がってください!」
隊長が叫んだ。
護衛たちはヴィオレッタたちを後方へ誘導する。エミリアは驚いて足をもつれさせたが、ノアが腕を支え、転倒を防いだ。
「ありがとうございます、ノア様!」
「礼は後で。今は走ってください」
光は石板の表面を走り、金属の輪へと集まっていった。
輪の中央に、小さな円が浮かび上がる。
そして、その円の内側に一本の線が現れた。
ヴィオレッタは息をのんだ。
先代夫人の肖像画に描かれていた紋章と同じ形だった。
次の瞬間、地面の奥から、低く長い音が響いた。
まるで巨大な石の扉が、遠い場所で動いたかのような音だった。
光が消える。
静寂が戻る。
誰も動かなかった。
やがて、隊長が慎重に崩落箇所を確認した。
「……地面に変化はありません。少なくとも、目視できる範囲では」
「音の原因は分かりますか?」
「いいえ。今のところは」
ヴィオレッタは手帳を開いた。
今回は、光が現れる前に三度の音があった。
そして、金属の輪に光が集まり、円の内側に線が現れた。
順序に意味があるのかもしれない。
だが、まだ一度の現象だけでは判断できない。
「ノア。今の光は、温室で見たものと同じに見えましたか?」
「色と、線に沿って移動する様子は似ていました。ただ、今回は金属の輪に光が集まっていた。作動の仕方が違う可能性があります」
「同じ術式ではないかもしれない、ということですね」
「ええ」
エミリアが不安そうに、地面を見つめた。
「もし、この下に本当に扉があるのなら……」
「開ける方法が分からない以上、今は何もできませんわ」
ヴィオレッタは答えた。
「それに、開けるべき扉なのかどうかも、まだ分かりません」
その言葉に、エミリアは静かにうなずいた。
やがて、護衛隊長が決断を下した。
この場所を一時的に封鎖し、専門家が到着するまで一切の掘削を行わない。ヴィオレッタたちは旧道を進まず、街道の安全が確認された区間を通って最寄りの村へ向かうことになった。
予定よりも大幅に遅れることになるが、やむを得なかった。
馬車へ戻る前、ヴィオレッタはもう一度だけ地面を振り返った。
地中に何かがある。
その可能性は、さらに高まった。
しかし、音が何を意味するのかは分からない。
誰かが内側から扉を叩いていたのか。
それとも、古い仕組みが、何らかの条件に反応しただけなのか。
彼女は手帳に記した。
『音は三回。光は金属の輪に集まり、円の内部に線が現れた。その後、地下から長い振動音が発生。周辺の地形に明らかな変化は確認できず』
最後に、もう一行だけ加えた。
『現象は、こちらの意思とは無関係に再発した』
書き終えたところで、ノアが声をかけた。
「何か分かりましたか?」
「いいえ。分かったことが増えただけですわ」
「それは、前進と呼べるのでしょうか」
「少なくとも、何も分からないまま帰るよりはましです」
ヴィオレッタは手帳を閉じた。
馬車がゆっくりと動き始める。
窓の外では、崩落箇所が少しずつ遠ざかっていった。
だが、彼女の頭の中では、あの音が何度も繰り返されていた。
ゴン。
ゴン。
ゴン。
そして、最後に聞こえた、長く低い響き。
その音を聞いた瞬間、彼女の脳裏には、暗い回廊の先に立つ扉が浮かんでいた。
扉の向こう側は、見えない。
ただ、扉の表面には、三つの星が刻まれていた。
ヴィオレッタは目を閉じた。
今の光景が本当の記憶なのか、それとも想像が作り出したものなのか、彼女には判断できなかった。
それでも、一つだけ、はっきりしていることがあった。
彼女が近づくたび、記録されていない何かが、少しずつその存在を示し始めている。
そして、その何かは、まだ扉を開くことを許していないのかもしれなかった。




