北方観測施設への出発
北方観測施設へ向かう準備は、思いのほか順調に進んでいた。
もっとも、ヴィオレッタ・ヴァレンシュタインにとって、それは必ずしも喜ばしいことではなかった。
「護衛が四名、馬車が二台、携帯用の魔力測定器が三つ。それから食料と医療道具……」
机の上に並べられた出発準備の一覧を見て、ヴィオレッタは小さく息を吐いた。
「ずいぶん大掛かりになりましたわね」
「当然だろう。立ち入り制限区域なのだからな」
向かいに座るノア・ヴァルケインは、何事もないように答えた。
「それに、君は先日、古い術式が突然作動する現場に居合わせた。慎重になる理由は十分にある」
「私が慎重さを学んだことを、少しは評価していただきたいものですわ」
「評価していますよ。だからこそ、護衛を増やすことに反対しなかった」
「その評価、あまりうれしくありませんわね」
隣で荷物を確認していたエミリア・ローゼンが、そっと手を挙げた。
「あの……私からも一つ、お願いしてよろしいでしょうか?」
「何でしょう?」
「食料の中に、焼き菓子を入れてもいいですか?」
ヴィオレッタは一覧から顔を上げた。
「もちろんです。長旅になる可能性がありますから、食べ物は必要ですわ」
「よかった……!」
「ただし、荷物の半分を焼き菓子にするのはやめてくださいませ」
「そ、そんなことはしません!」
エミリアは慌てて、背後に置いた大きな籠を隠そうとした。
遅かった。
ノアが籠を見て、静かに告げる。
「エミリア。これは焼き菓子というより、パン屋を一軒持ち運ぶ量では?」
「違います! これは、その……みんなで食べる分です!」
「四人分ですか?」
「護衛の方々もいらっしゃいますから、六人分くらいです!」
「護衛は四人ですわよ」
「では、八人分で……」
「増えていますよ、エミリア」
ヴィオレッタは額に手を当てた。
どうやら今回の旅では、古代の魔法より先に、焼き菓子の配分という難題を解決しなければならないらしい。
結局、籠の中身は半分に減らされた。
エミリアは少し悲しそうだったが、護衛の一人が残った焼き菓子を見て嬉しそうにしていたため、最終的には納得した。
出発当日の朝、王都の門を抜けた馬車は、北東へ向かう街道を進んでいた。
秋の風が草原を渡り、遠くには低い丘陵が連なっている。
ヴィオレッタは窓から景色を眺めながら、手元の地図を確認した。
北方観測施設が記されていたのは、現在の地図では空白になっている区域だった。旧地図に残る街道をたどれば、昼過ぎには最寄りの村へ到着する予定である。
「ヴィオレッタ様」
向かいに座るエミリアが、声を潜めた。
「もし、本当に古代の施設が残っていたら、どうしましょう?」
「まずは建物の状態を確認します。崩落の危険があれば、無理に入らず、外側から調査するだけですわ」
「もし、何か秘密の部屋が見つかったら?」
「構造を記録して、専門家に相談します」
「もし、古代の魔法が突然作動したら?」
「全員で退避します」
「もし、そこに誰かが住んでいたら?」
ヴィオレッタは少し考えた。
「……挨拶をします」
エミリアは目を丸くした。
「挨拶、ですか?」
「相手が人間で、話し合いができるのなら、それが最初でしょう。いきなり敵だと決めつける理由はありませんもの」
ノアが窓の外から視線を戻した。
「ただし、相手がこちらに敵意を示した場合は別です。退路を確保して、護衛の指示に従うこと」
「分かっていますわ」
「本当に?」
「あなたは私の返答を疑うことが趣味なのですか?」
「趣味ではありません。必要な確認です」
「では、私からも確認いたします。ノア様は、これまでの人生で一度も無謀な行動をしたことがありませんの?」
「……質問を変えましょう」
「まあ。答えにくい質問だったようですわね」
エミリアは、二人の会話を聞きながら微笑んでいた。
そのとき、馬車が大きく揺れた。
「きゃっ!」
エミリアの膝から本が滑り落ち、床へ散らばった。
ヴィオレッタが拾おうとした瞬間、窓の外から御者の声が響いた。
「申し訳ありません! 道の一部が崩れております!」
馬車が止まった。
護衛たちが外へ出て状況を確認する間、ヴィオレッタは窓から前方を見た。
街道の先で、地面が斜めに沈み込んでいる。崩れた土の下からは、灰色の石がのぞいていた。
「自然の地滑りでしょうか?」
エミリアが不安そうに尋ねる。
「その可能性はあります。ただ……」
ヴィオレッタは目を細めた。
露出した石の表面には、細い線が刻まれていた。
幾何学模様。
その一部は、温室の床にあった古い術式によく似ている。
ノアも気づいたらしい。彼は馬車を降り、護衛とともに崩落箇所へ近づいた。
「足元に気をつけてください。石の周囲は不安定です」
護衛の注意を受け、ヴィオレッタたちは安全な距離から石を観察した。
露出した部分は大きな石板の端らしかった。表面には円と三本の線が刻まれている。
円の中央には、小さな星のような形があった。
ヴィオレッタの胸が、かすかにざわめいた。
「これは、人工物ですわね」
「ええ。少なくとも、自然にできた模様ではなさそうです」
ノアは周囲を見回した。
「問題は、なぜ街道の下に埋まっていたのか、ということです」
護衛の一人が、崩れた土の向こう側を指さした。
「閣下、あちらにも石が見えます」
土に隠れていた石板は、一枚ではなかった。
地中へ向かって連続しているように見える。まるで、地面の下に何かの構造物が埋まっているかのようだった。
ヴィオレッタは地図を取り出し、現在位置を確認した。
旧地図に記された北方観測施設までは、まだ距離がある。
だが、この場所は、古い街道が現在の道から外れ始める地点に近かった。
「この街道は、いつ整備されたものですか?」
彼女が尋ねると、護衛の一人が答えた。
「現在の道は約五十年前に整備されたと聞いています。それ以前は、もう少し北側を通っていたそうです」
「その古い街道の記録は残っていますか?」
「地方管理官に問い合わせれば、何か分かるかもしれません」
ヴィオレッタはノアを見た。
「観測施設と関係している可能性は?」
「あります。ただし、今の時点では、古い構造物がここにあるという事実しかありません」
「ええ。まずは、この場所を記録しましょう」
彼女は手帳を取り出し、石板の形と位置を描き写した。
その間、護衛たちは崩落した地面に近づかないよう、周囲に目印を立てた。専門家の調査を受けるまでは、石板を掘り出さないことになった。
作業を終えた頃、エミリアが小さな声を上げた。
「あの……ヴィオレッタ様」
「どうしました?」
「石板の向こうに、何かありませんか?」
彼女が指さした先には、崩れた土の隙間があった。
そこから、細い金属の輪が突き出している。
ヴィオレッタは目を凝らした。
金属の輪には、枝と三つの星の紋章が刻まれていた。
その下には、小さな円と一本の線。
先代夫人の肖像画に描かれていたものと、よく似た意匠だった。
誰も、すぐには口を開かなかった。
やがてノアが、慎重に言った。
「……この街道の下に、何かがあるようですね」
ヴィオレッタは、地中に埋もれた金属の輪を見つめた。
記録されていない入口。
昨夜、彼女の記憶に浮かんだ言葉がよみがえる。
だが、これはまだ入口だと決まったわけではない。何かを固定するための金具かもしれないし、別の構造物の一部かもしれない。
それでも、無視することはできなかった。
「ここから先へ進む前に、現在地と石板の状態を記録します。専門家にも連絡を取りましょう」
ヴィオレッタはそう告げた。
その瞬間だった。
地中から、ごく低い音が響いた。
ゴン、と。
遠くで扉を叩いたような音だった。
護衛たちが一斉に身構える。
エミリアはヴィオレッタの袖をつかみ、ノアは崩落箇所から距離を取るよう手で合図した。
もう一度、音が響いた。
ゴン。
石板の隙間から、青白い光が細く漏れ出している。
ヴィオレッタの頭の奥に、鋭い痛みが走った。
暗い回廊。
幾何学模様の床。
そして、誰かの声。
まだ、足りない。
彼女はよろめきかけたが、すぐに手帳を握りしめた。
「全員、下がってください!」
ノアの声が響いた。
護衛たちはヴィオレッタたちを後方へ誘導した。地面に亀裂が走ることはなかったが、青白い光は数秒間、石板の線に沿って流れ続けた。
そして、突然消えた。
後には、風の音だけが残った。
誰も、すぐには動けなかった。
やがてノアが、ヴィオレッタの顔を覗き込んだ。
「大丈夫ですか?」
「ええ……少し、頭が痛むだけです」
「少し、という顔には見えませんが」
「あなたは、人の顔色を評価することまで趣味に加えたのですか?」
「必要な確認です」
「その言葉、便利ですわね」
いつもの調子で返したものの、ヴィオレッタの指先は冷たかった。
今の光景は、過去の記憶を呼び起こしたのか。
それとも、目の前で起きた現象が、彼女の脳裏にある何かを刺激しただけなのか。
まだ分からない。
だからこそ、彼女は見たものを記録した。
地中に埋まった石板。紋章のある金属の輪。二度響いた低い音。青白い光。そして、光が消えた後も変化しなかった周囲の地面。
書き終えたヴィオレッタは、地図を見下ろした。
この場所は、旧観測施設へ向かう古い街道の近くにある。
そして、地中の構造物には、エーベルハルト家の紋章に似た印が刻まれていた。
偶然である可能性は残っている。
だが、調べるべき理由は十分にあった。
「予定を変更しましょう」
ヴィオレッタは護衛たちを見た。
「この場所の記録と安全確保を優先します。施設へ向かうのは、その後です」
ノアがうなずいた。
「賛成です。焦って進む理由はありません」
エミリアも、まだ不安そうな表情ながら、しっかりとうなずいた。
馬車へ戻る前に、ヴィオレッタはもう一度だけ石板を振り返った。
地面の下に、何かがある。
それは確かだった。
だが、その何かが、彼女たちを待っているのか。
それとも、近づく者を拒んでいるのか。
まだ、誰にも分からなかった。




