記録されていない入口
その言葉が頭から離れなかった。
翌朝、ヴィオレッタ・ヴァレンシュタインは、机に広げた手帳を前に、長いことペンを動かせずにいた。
昨夜、馬車の中で見た文字は、ほんの一瞬の出来事だった。目を閉じて思い出そうとしても、文字の形は浮かんでこない。ただ、その意味だけが、妙にはっきりと残っている。
まるで、ずっと前から知っていた言葉を、ようやく思い出したかのように。
「……気味が悪いですわね」
独り言をこぼし、ヴィオレッタは手帳を閉じた。
記憶が不確かなときほど、確かなものに頼るべきだ。
彼女はそう考え、昨日エーベルハルト侯爵家で得た資料を机に並べた。肖像画の制作記録、先代夫人が残した紋章の写し、温室の術式図。そして、ハインツの証言。
それぞれを見比べても、まだ決定的な共通点は見つからない。
しかし、一つだけ気になることがあった。
肖像画に描かれた建物には、正面玄関らしきものが見当たらなかったのだ。
円形の屋根と塔。窓と幾何学模様。建物の外観は細かく描かれているのに、人が出入りするための入口が確認できない。
画家の技術が不足していたとは考えにくい。建物の一部が省略された可能性もあるが、先代夫人が背景の描写を指定したのなら、意図的に入口を描かなかった可能性も残る。
ヴィオレッタは紋章の横に、建物の輪郭を描き写した。
そのとき、扉を叩く音がした。
「ヴィオレッタ様、起きていらっしゃいますか?」
エミリアの声だった。
「ええ。どうぞ」
扉が開き、エミリアが一冊の大きな本を抱えて入ってきた。蜂蜜色の髪はいつもより少し乱れ、頬にはうっすらと赤みが差している。
「王立記録院から戻る途中で、気になる本を見つけたんです」
「その様子ですと、気になる本を見つけるまでに、何か事件があったようですね」
「どうして分かったんですか?」
「本を抱えたまま走ってきたのでしょう?」
「……はい。階段で転びそうになりました」
「本は無事ですか?」
「はい!」
「それは何よりです。エミリアが無事かどうかは、その次に確認いたしましょう」
「順番がおかしくありませんか?」
「本の角が折れていたら、あなたも私も悲しいでしょう?」
「私の心配は……?」
「もちろんしていますわ」
ヴィオレッタは微笑んだ。
エミリアは納得していない顔をしながらも、持ってきた本を机に置いた。
「これは、王都周辺の古い建築物をまとめた資料です。一般公開されているものなので、閲覧許可も必要ありませんでした」
「肖像画の建物に似たものが?」
「はい。円形の屋根と塔の組み合わせが、いくつか載っていました。ただ、その中に一つ、少し変わった記述があったんです」
エミリアは本を開き、しおりを挟んだページを示した。
そこには、王都の北東に位置する丘陵地帯の古い建造物について記されていた。
名称は、記録上では「北方観測施設」。
建設年代は不明。用途については天体観測に関係する施設と推測されているが、確かな記録は残っていない。
さらに、その建物は数十年前の地図には記載されていたものの、現在の公的な地図には存在していなかった。
「観測施設……」
ヴィオレッタの指先が、ページの上で止まった。
断片的な記憶に現れた建物。
肖像画の背景。
そして、名称も所在地も記録しないよう指定された画家の覚え書き。
すべてが同じ場所を指しているとは限らない。だが、無関係だと片づけるには、共通点が増えすぎていた。
「この施設が、今どうなっているのかは分かりますか?」
「本には、所有者不明の土地として扱われた後、周辺の土地と一緒に管理区画へ統合された、とあります。でも、建物そのものが残っているのかは分かりません」
「管理区画の番号は?」
「ここです」
エミリアが指した箇所には、古い管理番号が記されていた。
ヴィオレッタはその番号を手帳に書き写した。
「ありがとうございます。これで、現地の場所を調べる手掛かりができましたわ」
「でも、すぐに行くつもりではありませんよね?」
エミリアの声に、わずかな不安が混じった。
ヴィオレッタは顔を上げた。
「現地へ行く必要はあります。ただし、先に安全を確認します。侯爵家の温室で何が起きたのか、まだ分かっていませんから」
「よかった……」
「私が無計画に飛び出すと思っていたのですか?」
「少しだけ」
「少しだけ、ですか」
「かなり……いえ、申し訳ありません」
エミリアは本を抱きしめた。
ヴィオレッタはため息をつきながらも、その表情には少しだけ笑みが浮かんでいた。
そこへ、もう一度扉を叩く音がした。
「入りますよ」
返事を待つ前に、ノアが顔を出した。
「返事を待つという礼儀をご存じですか?」
「知っています。あなたがすぐに返事をしない可能性も考慮した結果です」
「それを礼儀とは呼びませんわ」
「では、効率と呼びましょう」
ノアは机の上の資料に目を落とした。
「なるほど。観測施設ですか」
「どうして、すぐに分かったのです?」
「エミリアが先ほど、王立記録院で私にも同じ本を見せてくれましたから」
エミリアが申し訳なさそうに手を挙げた。
「すみません。ノア様にも相談していたんです。私だけでは、どの資料が重要なのか判断できなくて……」
「謝る必要はありませんわ。むしろ、二人で調べてくださった方が助かります」
ヴィオレッタはノアに向き直った。
「この施設について、何か分かったことはありますか?」
「現在の地図から消えている理由について、少し気になる記録がありました」
ノアは一枚の紙を机に置いた。
「数十年前、この地域の土地管理を変更した際、旧施設に関する記述が一度だけ登場しています。ただし、その記録には建物の名称ではなく、別の呼び方が使われていました」
「別の呼び方?」
「『地下構造物を含む旧観測区画』です」
ヴィオレッタは眉をひそめた。
「地下構造物……」
「建物の下に何かがある可能性はあります。ただ、記録には詳細がありません。地下室なのか、通路なのか、それとも別の構造なのかも不明です」
エミリアが不安そうに尋ねた。
「まさか、温室の床にあった術式と関係があるのでしょうか?」
「可能性はあります。しかし、今の段階で結びつけるのは早いでしょう」
ヴィオレッタはそう答えながら、地図の写しを手に取った。
観測施設の位置は、王都から馬車で半日ほどの場所だった。周囲には小さな村が点在し、古い街道が丘陵地帯を横切っている。
だが、地図上の施設の位置には、不自然な空白があった。
道はそこを避けるように曲がり、周囲の地形だけが簡略化されている。
「この地図を作成した人は、施設の存在を知っていたのでしょうか?」
「そう考えるのが自然です。ただ、なぜ現在の地図から消えたのかは分かりません」
ノアは地図の端を指さした。
「もう一つ。旧観測区画の管理番号は、エーベルハルト家から見せてもらった資料にあった番号と、形式がよく似ています」
「同じ管理制度が使われていた可能性がある、ということですか?」
「ええ。ただし、同じ制度だからといって、同じ組織が管理していたとは限りません」
ヴィオレッタはしばらく考えた。
現地を確認する価値はある。
だが、これまでの調査で、古い術式が予期せず作動する危険性も分かっている。三人だけで不用意に足を踏み入れるべきではない。
「まずは、土地の現在の管理者を調べましょう。それから、現地へ向かうための許可と、必要な護衛を確保します」
「賛成です」とノア。
「私も行きます」
エミリアがすぐに言った。
ヴィオレッタは彼女を見つめた。
「危険があるかもしれません。それでも?」
「はい。私が見つけた資料ですし、建物について、まだ気になることがあるんです」
「どんなことですか?」
エミリアは本のページを開いた。
「ここに描かれた建物の図です。窓の形は違うのに、屋根の下にある装飾だけ、先代夫人の肖像画にそっくりなんです」
ヴィオレッタは図を見た。
確かに、円形の屋根の下に、三つの星を思わせる小さな装飾が描かれていた。
しかし、図面の作者はそれを単なる建築装飾として説明している。
「この図は、いつ描かれたものですか?」
「記録によると、約百年前です」
「肖像画よりも古い……」
ノアが低くつぶやいた。
もし、この建物が実在し、百年以上前から同じ特徴を持っていたのなら、先代夫人が肖像画の背景に描かせた可能性は十分にある。
だが、建物の正確な場所も、現在の状態も分からない。
ヴィオレッタは資料を閉じた。
「では、現地調査の準備を始めましょう。ただし、何が見つかっても、すぐに触れたり、作動させたりしないこと。特に、床や壁に刻まれた線には注意してください」
「分かりました」
エミリアがうなずく。
「もちろんです」
ノアも答えた。
「あなたは、特に慎重にお願いしますわ」
「なぜ私だけ?」
「温室で、あなたも十分に危険な目に遭いましたから」
「それは、あなたを助けようとした結果です」
「ええ。感謝しています」
ヴィオレッタが素直に答えると、ノアは一瞬、言葉を失った。
エミリアは目を丸くした。
「ヴィオレッタ様が、すぐにお礼を……」
「何か問題でも?」
「い、いえ! とてもよいことだと思います!」
「それなら、なぜ驚くのです?」
「普段は、もう少し……」
「エミリア?」
「何でもありません!」
エミリアは慌てて本を閉じた。
ノアは小さく笑い、ヴィオレッタは聞かなかったことにした。
その日の午後、王立記録院から返答が届いた。
旧観測区画の現在の管理者は、王都の土地管理局ではなく、北東地方の地方管理官だった。
しかも、その区画は数年前、立ち入り制限区域に指定されていたという。
理由は、地盤の不安定化。
公式記録には、それ以上の説明はなかった。
ヴィオレッタは文書を読み終え、窓の外へ視線を向けた。
地盤が不安定だから立ち入りを禁じたのか。
それとも、別の理由があったために、地盤の問題が理由として記録されたのか。
どちらも、今は断定できない。
ただ、現地へ向かう前に確認すべきことが、また一つ増えた。
その夜、ヴィオレッタは手帳の新しいページに、旧観測区画の位置を描き写した。
地図上の空白。
地下構造物の記録。
そして、記録されていない入口。
彼女が最後の文字を書き終えたとき、窓の外で風が吹いた。
机の上に置かれていた肖像画の写しが、かすかに揺れる。
ヴィオレッタはそれを押さえようとして、手を止めた。
紋章の中央に描かれた小さな円。
その円を横切る一本の線。
それが、先ほどまでとは違って見えた。
円の内側に、もう一本、極めて薄い線がある。
写しを作ったときには気づかなかった線だった。
ヴィオレッタは灯りを近づけ、紙の角度を変えた。
そこに浮かび上がったのは、扉のような形をした小さな図形だった。
入口は、記録されていない。
その言葉が、再び脳裏によみがえる。
ヴィオレッタは手帳を開き、震えそうになる指を押さえながら、その図形を描き写した。
今度は、記憶ではない。
確かに、紙の上に残されたものだった。




