肖像画に隠された三つの星
先代夫人の肖像画を前に、ヴィオレッタはしばらく動けずにいた。
淡い金色の髪。深い緑色の瞳。穏やかな微笑み。
そして、手に握られた小さな紋章。
枝の上に三つの星。中央の星だけが大きく、その下には小さな円が刻まれている。
温室で見つかった金属片にも、侯爵が保管していた古い図面にも、同じ特徴があった。
「ノア。肖像画の制作年代は分かりますか?」
「私に聞くより、侯爵に尋ねた方が早いでしょう。肖像画の裏に記録が残っているかもしれません」
「正論ですわね。あなたにも、たまには役に立つ意見があるのですね」
「今の発言を撤回していただければ、もっと協力的になれる気がします」
「善処いたします」
「その言い方は、しないという意味ですね」
二人のやり取りを聞いていたエミリアが、小さく笑った。
「お二人は、本当に仲がよろしいのですね」
「どこを見て、そう判断なさったのですか?」
ヴィオレッタは即座に尋ねた。
「えっ。ええと……」
エミリアは困ったように視線を泳がせた。
「お互いに遠慮なく意見を言い合えるところ、でしょうか」
「それは、仲がよいというより、相手に遠慮する必要性を感じていないだけでは?」
ノアが淡々と指摘する。
「なるほど。そういう関係もあるのですね」
「エミリア、納得しないでくださいませ」
ヴィオレッタは小さく息を吐いた。
この場で最も警戒すべきなのは、正体不明の紋章でも、古代の術式でもない。エミリアが何でも微笑ましい話にまとめようとすることかもしれなかった。
彼女たちは侯爵の書斎へ戻り、肖像画について尋ねた。
「母の肖像画か」
レオポルトは少し考えてから答えた。
「制作されたのは、母が亡くなる三年ほど前だったはずだ。画家の記録が残っていれば、正確な年代も分かるだろう」
「肖像画の裏側を確認してもよろしいでしょうか?」
「構わない。だが、額縁を外すなら慎重にな」
侯爵の許可を得て、使用人が肖像画を壁から取り外した。
裏面には木製の板が取り付けられ、その端に小さな金属札が打ちつけられていた。札には制作年と画家の署名が刻まれている。
ヴィオレッタは文字を確認した。
「制作は十三年前。画家は、王都で活動していた方のようですね」
「母が亡くなったのは十二年前だ。確かに、時期は合っている」
ノアは額縁の裏を注意深く観察した。
「こちらに紙が挟まっています」
金属札の近くに、薄い紙片が折り畳まれていた。長い年月を経て端が黄ばんでいるが、文字はまだ読めそうだった。
侯爵の許可を得て、使用人が慎重に紙を取り出した。
そこには、画家の覚え書きと思われる短い文章が記されていた。
『背景の建物については、奥様のご希望により、実在の建築物を参考にした。名称および所在地は記録せず』
「実在する建物……」
エミリアがつぶやいた。
ヴィオレッタは紙を見つめた。
「名称も所在地も記録しなかった理由が気になりますね」
「依頼主が望まなかったのでしょう。貴族の肖像画では、背景に個人的な思い出の場所を描くこともあります」
ノアは慎重に言った。
「ただ、わざわざ記録を残さないよう指定したのなら、単なる思い出以上の意味があった可能性もある」
「あるいは、家族に知られたくなかっただけかもしれませんわ」
ヴィオレッタは覚え書きを机に置いた。
「理由を確かめる前に、秘密があったと決めつけるべきではありません」
彼女は肖像画の背景をもう一度確認した。
円形の屋根と細長い塔。窓の周囲に刻まれた幾何学模様。
以前、断片的な記憶の中で見た建物に似ている。
しかし、記憶は証拠ではない。
そう自分に言い聞かせながら、ヴィオレッタは画家の署名を書き写した。
「この画家がまだ存命なら、話を聞けるかもしれませんね」
「十三年前の仕事だ。存命かどうかは調べてみなければ分からないが、工房の記録が残っている可能性はある」
レオポルトは使用人に命じ、王都の画家組合へ問い合わせる準備を始めた。
その間、ヴィオレッタは肖像画の細部を確認していた。
先代夫人の手元にある紋章は、衣服の装飾ではなかった。手のひらに収まる程度の大きさで、金属製の飾りか、印章のように見える。
そして、中央の星の下にある円。
そこには、極めて細い線が一本だけ引かれていた。
ヴィオレッタは思わず身を乗り出した。
「……これは」
「何か分かりましたか?」
ノアが隣に立つ。
「いえ。まだ、何も。ただ、この円の中に線が描かれていることが気になりました」
「温室の術式にも、似た形がありましたね」
「ええ。ただし、似ているというだけです」
ヴィオレッタは目を閉じ、記憶の断片をたぐろうとした。
暗い回廊。幾何学模様の床。円の中を走る細い線。
何かを思い出しかける。
けれど、輪郭が定まる前に、映像は崩れて消えてしまった。
代わりに、頭の奥に鈍い痛みが走る。
「ヴィオレッタ様?」
エミリアが心配そうに声をかけた。
「大丈夫です。少し考えすぎただけですわ」
「本当に?」
「ええ。今のところ、倒れる予定はありません」
「予定に入っていることがあるのですか?」
「ありません。できれば、今後も入れたくありませんね」
エミリアは安堵したように笑った。
そのとき、書斎の扉が開いた。
入ってきたのは、温室の調査を担当していた専門家だった。年配の男性で、濃紺の外套に王立学園の研究部門を示す銀色の徽章をつけている。
「侯爵閣下。温室の床について、初期調査の結果が出ました」
「何が分かった?」
「床に刻まれていた線は、単なる装飾ではありません。魔力の流れを導くために設計された可能性があります」
ヴィオレッタは顔を上げた。
「可能性、ということは、まだ確定していないのですね?」
「その通りです。現代の術式とは構造が異なります。長期間使用されていなかったようですが、何らかの条件が重なったことで、部分的に作動したのかもしれません」
「条件とは?」
「床に埋め込まれた金属片や、周囲に残された魔力の痕跡が関係している可能性があります。ただ、再現実験は危険です。現段階では勧められません」
ノアが尋ねた。
「作動させた人物に、意図があったと思いますか?」
「それは判断できません。意図的に術式を起動しようとした可能性もありますし、誤って条件を満たした可能性もあります」
専門家は一度言葉を切った。
「ただ、一つだけ気になることがあります」
「何でしょう?」
ヴィオレッタが尋ねると、男性は机の上に紙を広げた。
そこには、温室の床に刻まれていた線の写しが描かれていた。
「この術式は、何かを破壊するためのものとは限りません。むしろ、特定の位置を示す、あるいは何らかの対象を識別するための構造にも見えます」
部屋が静まり返った。
ヴィオレッタは図面に目を落とした。
中央に円。その周囲を囲む複数の線。そして、枝のように分岐した三本の刻線。
肖像画の紋章に描かれた三つの星と、中央の円。
形は違う。
しかし、構造には共通点があるように見えた。
「先生。この術式が、建物の場所を示すために使われた可能性はありますか?」
「否定はできません。ただ、場所を示す術式と断定するには、比較できる資料が不足しています」
「分かりました。ありがとうございます」
専門家が退室した後も、ヴィオレッタは図面を見つめていた。
温室の床。
先代夫人の肖像画。
そして、名称も所在地も記録されなかった建物。
もし、これらが関係しているなら、先代夫人は何かの場所を知っていたのかもしれない。
だが、それが観測所なのか、別の建物なのか、あるいはまったく違うものなのかは分からない。
彼女は手帳に、三つの項目を書き留めた。
肖像画の背景に描かれた建物の特定。
画家の記録の調査。
温室の術式と紋章の比較。
その下に、さらに一行を加えた。
――先代夫人は、何を隠そうとしていたのか。
書き終えたとき、侯爵が静かに口を開いた。
「ヴァレンシュタイン嬢。母が何をしていたのか、私は知りたい。だが、君たちを危険にさらしたいわけではない」
「承知しております」
「調査を続けるなら、今後は私にも報告してほしい。君たちが何かを見つけたとき、それを一人で抱え込まないでくれ」
ヴィオレッタは一瞬だけ考えた。
すべてを共有することが、必ずしも安全につながるとは限らない。
それでも、侯爵は現時点で調査に協力している。彼自身も、先代夫人が残した謎の当事者なのだ。
「分かりました。ただし、確認できた事実と、私たちの推測は区別してお伝えします」
「それで構わない」
侯爵は安堵したようにうなずいた。
その後、ヴィオレッタたちは肖像画の記録を写し、温室の調査結果とともに整理した。
屋敷を辞する頃には、夜も深まっていた。
馬車に乗り込む直前、エミリアがふと振り返った。
「先代夫人は、何を見つけてしまったのでしょうね」
「まだ分かりません」
ヴィオレッタは答えた。
「ただ、何かを恐れていた可能性はあります。そして、その何かは、彼女が亡くなった後も完全には消えていない」
「それが、あの建物と関係しているのでしょうか?」
「確かめるまでは、分かりませんわ」
馬車の扉が閉じる。
揺れる車内で、ヴィオレッタは手帳を開き、肖像画の紋章を描いた。
三つの星。
中央の円。
円を横切る一本の線。
その線を描き終えた瞬間、彼女の脳裏に、見覚えのない文字が浮かんだ。
読めないはずの文字だった。
それなのに、意味だけが、はっきりと伝わってくる。
――入口は、記録されていない。
ヴィオレッタは息を止めた。
文字はすぐに消えた。
残ったのは、手帳に描かれた紋章と、自分の指先の震えだけだった。
彼女はペンを置いた。
今の言葉を、どこで知ったのか。
誰が、その意味を教えたのか。
そして、入口とは何の入口なのか。
答えはまだない。
ただ、ヴィオレッタは新たな疑問を手帳に書き加えた。
――記録されていない入口とは、何を指しているのか。




