先代夫人が残した警告
先代夫人の言葉が、応接室に重く沈んでいた。
『もし、あの子が戻ってきたら、今度こそ扉を開けてはならない』
誰も、すぐには口を開かなかった。
レオポルトは机の上の紙片を見つめたまま、動こうとしない。ハインツは深く頭を垂れ、エミリアは不安そうにヴィオレッタの横顔を窺っていた。
最初に沈黙を破ったのは、ノアだった。
「侯爵。先代夫人が亡くなられたのは、いつ頃ですか?」
「十二年前だ」
「その言葉を直接聞いたのは?」
「私も聞いていない。母は晩年、温室へ足を運ぶことが多かった。だが、何をしていたのか、詳しくは知らされていなかった」
レオポルトは一度、言葉を切った。
「母は私に、家門の古い記録を調べすぎるなと言っていた。理由を尋ねても、いつも話を変えられた」
「それは、紋章について調べるなという意味だったのでしょうか?」
ヴィオレッタが尋ねる。
「分からない。ただ、今になって考えれば、何かを恐れていたようにも思える」
「恐れていた相手がいたのか。それとも、何かが起きることを恐れていたのか。その二つも区別する必要がありますね」
ノアの指摘に、ヴィオレッタはうなずいた。
恐怖を抱いていたというだけでは、何が脅威だったのかまでは分からない。
先代夫人は誰かから脅されていたのかもしれない。あるいは、自分が知ってしまった事実が、家門に災いをもたらすと考えていたのかもしれない。
どちらも、今の段階では推測にすぎなかった。
「ハインツさん」
ヴィオレッタは老人に向き直った。
「先代夫人から紙片を預かったのは、十二年前なのですか?」
「いいえ。奥様が亡くなられる数か月前でございます。私が紙片を見つけたのは、そのさらに後です」
「では、奥様は紙片の隠し場所を教えてくださったのですか?」
「はい。温室の排水溝の奥に、小さな石の蓋がございます。その下に、紙片を入れるための隙間がありました」
「それを見つけたのは、いつですか?」
「十日ほど前です。排水溝が詰まり、掃除をしていたところ、石の蓋がずれていることに気づきました」
ヴィオレッタは手帳を開いた。
「十日前に見つけた紙片を、なぜ今まで保管していたのですか?」
ハインツは視線を落とした。
「奥様との約束があったからでございます。紋章を探す者が現れるまでは、誰にも渡すなと」
「では、私たちが紋章を調べ始めたことを、どうやって知ったのです?」
「屋敷の者から聞きました。ヴァレンシュタイン公爵令嬢が、古い紋章について調べておられると」
その言葉に、ノアが眉を上げた。
「誰から聞いたのですか?」
「それは……」
ハインツは口ごもった。
ヴィオレッタは急かさず、老人の返答を待った。
「庭師仲間の一人でございます。屋敷の裏門付近で、黒い外套の人物を見たことがあるとも話しておりました」
「その人物と、紙片を隠すよう頼んだ人物は同じだと思いますか?」
「分かりません。ただ、その者は私に、紙片を見つけても決して中身を確かめるなと申しました」
ヴィオレッタの視線が、机の上へ戻る。
「その人物は、紙片の存在を知っていたのですね」
「はい」
「そして、ハインツさんが見つけることも予想していた可能性がある」
「……そうなりますな」
ノアは腕を組んだ。
「妙ですね。先代夫人が隠したものを、後になって別の人物が見つけさせようとした。しかも、紋章を調べる人間が現れるまで、保管するように指示している」
「その人物は、先代夫人の指示を知っていたのでしょうか。それとも、別の目的で紙片を探していたのでしょうか」
ヴィオレッタは静かに続けた。
「どちらにしても、紙片が見つかったことだけで、すべてがつながったと考えるのは早計ですわ」
エミリアが、そっと手を挙げた。
「一つ、質問してもよろしいでしょうか?」
「どうぞ」
「ハインツさんは、紙片を見つけたとき、誰かに見られたのですか?」
老人は驚いたように彼女を見た。
「いいえ。誰もいなかったはずです」
「はず、ということは?」
「排水溝の周囲には人影がありませんでした。ただ……」
ハインツは思い出すように目を細めた。
「温室の窓が開いていたのです。普段、あの窓は内側から留めてあります。風で開くようなものではございません」
ヴィオレッタとノアが顔を見合わせた。
温室の窓。
黒い外套の人物が逃げ出した窓と同じ側だった。
「その窓を閉めましたか?」
「はい。ですが、そのときには、床に妙な線が見えました。古い傷だと思い、気に留めませんでした」
「青白く光ったりは?」
「いいえ。光など、一度も見ておりません」
ヴィオレッタは、彼の表情を注意深く見た。
嘘をついているようには見えない。だが、記憶違いという可能性もある。
彼女は手帳に書き加えた。
十日前、排水溝の石蓋がずれていた。温室の窓が開いていた。床には古い線が見えていた。
そして、紙片を探す人物がいた可能性がある。
「ハインツさん。あなたが紙片を見つけたことを、ほかの誰かに話しましたか?」
「いいえ。誰にも」
「では、どうして黒い外套の人物は、温室の周囲を調べていたのでしょう」
老人は答えられなかった。
そのとき、レオポルトが机に手をついた。
「待ってくれ。母が残したものが、誰かに狙われていたというのか?」
「その可能性はあります。ただ、狙いが紙片だったのか、排水溝の奥にある何かだったのかは分かりません」
「奥に、ほかにも何かあるのか?」
「確認する必要がありますわ」
ヴィオレッタは即答した。
「ただし、温室の床が不安定になっています。専門家の調査が終わるまでは、無理に石蓋を動かすべきではありません」
侯爵は不満そうに口を結んだが、やがてうなずいた。
「分かった。専門家が来るまでは、温室を封鎖しておこう」
話が一段落すると、ハインツは疲れたように椅子へ腰を下ろした。
その姿を見て、エミリアが水を差し出す。
「どうぞ。お話しするのも、お疲れになったでしょうから」
「ありがとうございます、お嬢様」
ハインツは水を受け取り、ゆっくりと口にした。
エミリアは少し迷った後、穏やかに尋ねた。
「先代夫人は、どんな方だったのですか?」
レオポルトが顔を上げた。
ハインツはしばらく考えてから、懐かしそうに微笑んだ。
「お優しい方でございました。使用人の名前をよく覚えておられましたし、庭の花が咲けば、必ず見に来てくださった。ですが、晩年は……少し変わられました」
「変わった、というのは?」
「温室で過ごす時間が増えました。それから、時々、誰もいない場所に向かって話しかけておられたのです」
部屋の空気が再び張り詰めた。
「誰もいない場所に?」
ヴィオレッタが聞き返す。
「はい。私が近づくと、すぐに口を閉ざされました。ある日、思い切って何をなさっているのか尋ねたところ、奥様はこうおっしゃいました」
ハインツは水の入った杯を見つめた。
「『忘れた者に、忘れたことを教えているのよ』と」
ヴィオレッタの呼吸が、一瞬止まった。
忘れた者に、忘れたことを教える。
その言葉は、彼女自身の記憶に深く突き刺さった。
断片的な過去。自分のものかどうかさえ分からない記憶。思い出したはずなのに、何を思い出したのか説明できない感覚。
けれど、先代夫人が同じ現象を経験していたとは限らない。
単なる比喩だった可能性もある。
ヴィオレッタは、指先に力が入るのを感じながら、ゆっくりと息を吐いた。
「その言葉を、記録に残したことはありますか?」
「ございません。あのときは、奥様が何をおっしゃっているのか分かりませんでしたから」
「では、ほかに似たようなことをおっしゃったことは?」
「一度だけ。奥様は温室の床を見つめながら、『同じ場所へ戻っても、同じ人間が戻るとは限らない』と」
ヴィオレッタは顔を上げた。
ノアもまた、笑みを消していた。
その言葉は、偶然にしては不穏だった。
しかし、意味を推測するには情報が足りない。
ヴィオレッタは手帳を開き、ハインツの証言をそのまま記した。余計な解釈は加えなかった。
同じ場所へ戻っても、同じ人間が戻るとは限らない。
書き終えたところで、書斎の外から使用人の声がした。
「侯爵閣下。温室の専門家が到着いたしました」
レオポルトは立ち上がった。
「すぐに案内してくれ」
ヴィオレッタたちも続こうとしたが、ノアが彼女の手帳を指さした。
「その言葉について、何か心当たりが?」
「ありません」
「本当に?」
「ええ。心当たりがあったとしても、確かめるまでは口にしませんわ」
「あなたにしては慎重ですね」
「あなたにしては、しつこいですわね」
ノアは肩をすくめた。
「では、ひとまず信じておきましょう」
「その判断は、後悔しない方がよろしいですわ」
彼女たちは書斎を出た。
温室へ向かう途中、ヴィオレッタはふと足を止めた。
廊下の壁には、歴代のエーベルハルト家当主とその家族の肖像画が並んでいる。
その中に、先代夫人の肖像画があった。
穏やかな顔立ちの女性だった。髪は淡い金色で、瞳は深い緑色。片手には、見覚えのある枝と三つの星を描いた小さな飾りが握られている。
だが、ヴィオレッタが目を奪われたのは、そこではなかった。
肖像画の背景。
夫人の背後に描かれた窓の向こうに、奇妙な建物が見えた。
円形の屋根。細長い塔。窓の周囲を取り囲む、幾何学模様の装飾。
それは、ヴィオレッタが以前、断片的な記憶の中で見た建物によく似ていた。
放棄された観測所。
そう呼ばれていた場所と。
「ヴィオレッタ?」
ノアの声で、彼女は我に返った。
「どうしました?」
「……いえ。少し、気になるものを見つけただけです」
ヴィオレッタは肖像画から目を離した。
まだ、何も確かめられていない。
あの建物が本当に観測所なのかも、先代夫人がそこを訪れたことがあるのかも分からない。
ただ、これまで別々に存在していたはずの記録が、少しずつ同じ方向を指し始めていた。
彼女はもう一度だけ肖像画を振り返った。
夫人の手に握られた、小さな紋章。
その三つの星は、中央の星だけがわずかに大きく描かれていた。
そして、その下には、ほとんど見えないほど小さな円が刻まれていた。




