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温室に残された足跡

青白い光は、再び現れなかった。


 ヴィオレッタは窓辺から離れ、手帳を閉じた。


「侯爵。温室の周囲を、もう一度調べさせていただけますか?」


「構わない。だが、今度は一人で行くことは許さん」


「ごもっともですわ」


「……素直だな」


「先ほどの反省を踏まえました。反省することと、同じことを繰り返さないことは、必ずしも一致しませんけれど」


「それは反省していない者の言い分ではないか?」


 レオポルトが眉をひそめた。


 ノアは小さく咳払いをした。


「侯爵、彼女の反省に期待するより、同行者を増やす方が確実です」


「あなたたち、私を何だと思っていますの?」


「好奇心に行動が追いついてしまう人」


 エミリアが控えめに答えた。


 ヴィオレッタは彼女を見つめた。


「エミリア。あなたまで?」


「す、すみません。でも、否定できなくて……」


 否定できないことを認める勇気は、時として残酷だった。


 結局、温室の再調査にはノアと侯爵家の護衛二人が同行することになった。エミリアも加わろうとしたが、ヴィオレッタは彼女に別の役目を頼んだ。


 屋敷の使用人たちから、庭師ハインツについて話を聞いてほしいのだ。


「私が聞いてもよろしいのですか?」


「ええ。あなたは相手に警戒されにくいでしょうから」


「それは、私が頼りなく見えるという意味でしょうか……?」


「話しかけやすいという意味です」


「本当ですか?」


「本当です」


 ヴィオレッタは少し考えた。


「ただし、頼りなく見えることが話しかけやすさにつながる場合もあります」


「ヴィオレッタ様!」


 エミリアの抗議を背に、ヴィオレッタたちは温室へ向かった。


 夜の庭園には、昼間とは違う静けさがあった。風が木々を揺らし、枝葉の擦れる音が暗闇の中でささやいている。


 温室の入口には護衛が一人立っていた。


「中に異常はありません。専門家が来るまでは、床の調査も控えるよう命じられています」


「床を踏まなければ、周囲を確認する程度は問題ないでしょうか?」


「侯爵閣下の許可があれば」


「では、周囲だけを確認します」


 ヴィオレッタは扉の外から内部を見渡した。


 崩れた棚。割れた鉢。石床に走る亀裂。


 昼間は青白く光っていた幾何学模様は、今ではただの古い刻線にしか見えない。


「ノア。あの光が消えた後、床に何か変化はありましたか?」


「目視できる範囲ではありません。少なくとも、石が発熱したり、煙が出たりはしていない」


「魔法の痕跡を調べる方法は?」


「専門家なら何か分かるかもしれません。ただ、古い術式であれば、現代の一般的な検査法が通用するとは限らない」


「便利なものではありませんのね、魔法というのは」


「何でも解決できるなら、王立記録院の職員は全員失業していますよ」


「それは困りますわね。記録院の方々が失業したら、古い資料の分類がさらに遅れますもの」


「そこを心配するのですか?」


「もちろんです。仕事がなくなれば、彼らは新しい仕事を探すでしょう?」


「ええ」


「そして、私の調査に協力する余裕がなくなるかもしれません」


「……あなたは本当に、どこまでも自分中心ですね」


「調査のためですわ」


 ノアは反論を諦めたようだった。


 ヴィオレッタは、温室の床ではなく、その外側に目を向けた。


 石壁の下に、細長い溝がある。雨水を逃がすためのものだろう。溝の中には落ち葉がたまり、ところどころに土が詰まっていた。


 その一角だけ、土が新しかった。


「護衛の方。ここを誰かが掘り返しましたか?」


「いいえ。少なくとも、私が警備を始めてからは誰も触れていません」


 ヴィオレッタはしゃがみ込んだ。


 溝の脇には、小さな足跡が残っている。泥が乾ききっていない。靴底の模様は不鮮明だが、先端が細く、踵の片側だけ深く沈んでいた。


「右足をかばっていた人物かもしれません」


 ノアが隣から覗き込む。


「断定はできません。足を痛めていなくても、地面の傾きで同じ跡はつく」


「分かっています。だから、可能性として記録します」


 ヴィオレッタは足跡の位置を手帳に描き写した。


 そのとき、溝の奥で何かが光った。


 彼女は護衛に許可を求め、長い金属製の棒で落ち葉を慎重にかき分けてもらった。


 出てきたのは、細い革紐だった。


 革紐の先には、小さな金属製の留め具がついている。表面には、枝と三つの星を組み合わせた刻印があった。


 温室で見つかった金属片の刻印と、よく似ている。


「また同じ紋章……」


 ヴィオレッタは手を伸ばしかけて、止めた。


「触れないでください。まずは侯爵に報告しましょう」


 ノアがわずかに目を見開いた。


「学習しましたね」


「あなたの嫌味を聞き続けた成果ですわ」


「それは光栄です」


 護衛が留め具を布で包み、保管用の小箱に収めた。


 ヴィオレッタは溝を見つめた。


 革紐は、誰かが落としたのか。それとも、意図的に隠したのか。


 さらに気になるのは、その場所だった。


 温室の扉からは死角になっている。中庭からも見えにくい。人目を避けて何かを出し入れするには都合がいい。


 だが、それだけでは何も証明できない。


 彼女が次の確認事項を書き留めていると、庭園の反対側から足音が聞こえてきた。


「ヴィオレッタ様!」


 エミリアだった。


 息を切らして駆け寄ってきた彼女は、ヴィオレッタの姿を確認すると、ほっとしたように肩を落とした。


「使用人の方々から、いくつかお話を聞けました」


「ハインツについて?」


「はい。庭師のハインツさんは、ここ数週間、温室の周囲を気にしていたそうです。誰かに頼まれて、古い排水溝を掃除していたこともあるとか」


 ヴィオレッタは、足元の溝へ視線を戻した。


「誰に頼まれたのかは?」


「そこまでは分かりませんでした。ただ、頼んだのは屋敷の人ではないかもしれない、と一人の使用人が言っていました」


「どうしてそう思ったのでしょう?」


「ハインツさんが、『屋敷の者には話すなと言われた』と口にしていたのを聞いたそうです」


 ノアの表情が変わった。


「それは重要ですね。ハインツは誰かと秘密裏に接触していた可能性がある」


「でも、秘密にするよう頼まれただけで、悪いことをしていたとは限りません」


 エミリアはそう付け加えた。


 ヴィオレッタはうなずいた。


「その通りです。秘密には、隠さなければならない理由がある場合と、他人に知られたくないだけの場合があります」


「では、ハインツさんは……?」


「まだ分かりません。彼の話を聞くまでは」


 そのとき、護衛の一人が急いで近づいてきた。


「侯爵閣下から伝言です。ハインツが戻りました」


 三人は顔を見合わせた。


「どこにいるのですか?」


「屋敷の正門です。ただし、かなり慌てた様子で、侯爵閣下に直接会わせてほしいと申し出ているそうです」


 ヴィオレッタは手帳を閉じた。


 行方をくらませていた庭師が、自ら戻ってきた。


 偶然かもしれない。


 誰かに追われているのかもしれない。


 あるいは、彼女たちが温室を調べていると知って、先に口を開く必要が生じたのか。


「行きましょう」


 彼女たちは正門へ向かった。


 玄関ホールに入ると、泥のついた作業着を着た老人が、護衛二人に挟まれて立っていた。白髪交じりの髪は乱れ、呼吸も落ち着いていない。


 ハインツは侯爵の姿を見るなり、深く頭を下げた。


「旦那様……申し訳ございません」


「どこへ行っていた?」


「それをお話しする前に、どうかお聞きいただきたいことがございます」


 老人は震える手で、懐から小さな包みを取り出した。


 布を開くと、中には一枚の紙片が入っていた。


 ヴィオレッタは息をのんだ。


 紙の端は古び、表面には枝と三つの星の紋様が描かれている。


 侯爵が保管していた図面とも、準備室から消えた紙片とも、完全に同じとは言い切れない。


 だが、そこには確かに、同じ印があった。


「これはどこで手に入れたのですか?」


 ヴィオレッタが尋ねると、ハインツは彼女を見た。


 その目には、恐怖と迷いが混じっていた。


「温室の排水溝の奥で見つけました。何日も前のことです。誰にも知らせるなと頼まれておりましたが……」


「誰に頼まれたのです?」


 ハインツは答えようとして、唇を震わせた。


 そして、侯爵の方へ向き直った。


「旦那様。申し訳ございません。私に頼んだのは、亡くなられた先代の奥様でございます」


 書斎へ続く廊下から、誰かが息をのむ音がした。


 レオポルトの顔から、血の気が引いていく。


「……何を言っている?」


「先代の奥様は、亡くなられる少し前、私におっしゃいました。温室の排水溝に、誰にも見つからぬよう、あるものを隠しておくようにと」


 ハインツは紙片を両手で差し出した。


「そして、もしも枝に三つの星を描いた紋章を探す者が現れたら、その者に渡すように、と」


 ヴィオレッタは紙片を見つめた。


 匿名の警告。


 消えた記録。


 そして、亡くなった先代夫人が残したという指示。


 これらが一つの真実を示しているのか、別々の出来事が偶然重なっただけなのか。


 まだ、分からない。


 ただ一つ確かなのは、先代夫人が亡くなる前から、この紋章をめぐる何かが動いていたということだった。


 ヴィオレッタは静かに尋ねた。


「ハインツさん。その紙片を隠すよう頼まれたとき、先代夫人はほかに何かおっしゃいませんでしたか?」


 老人はしばらく黙っていた。


 やがて、ためらいがちに口を開く。


「はい。奥様は、こうおっしゃいました」


 ハインツは、ひどくかすれた声で続けた。


「『もし、あの子が戻ってきたら、今度こそ扉を開けてはならない』と」


 ヴィオレッタの指先が冷たくなった。


 あの子とは誰なのか。


 扉とは何を指しているのか。


 そして、なぜ先代夫人は、誰かが戻ってくることを知っていたのか。


 答えの代わりに、ヴィオレッタの脳裏へ暗い回廊がよぎった。


 幾何学模様の床。


 青白い光。


 そして、遠くから聞こえる声。


 まだ、足りない。


 彼女は目を閉じ、ゆっくりと息を吐いた。


 今は、記憶を信じるべきではない。


 まずは、この紙片に何が記されているのかを確かめる。


 それから、先代夫人が残した言葉の意味を追う。


 ヴィオレッタは目を開き、侯爵を見た。


「この紙片を、詳しく調べさせてください」


 レオポルトは、まだ動揺を隠せずにいた。


 それでも、やがて一度だけ、深くうなずいた。

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