青白い光の残響
エーベルハルト侯爵家の温室は、立ち入りを禁じられた。
崩れた石床の周囲には使用人たちが集まり、魔法の専門家を呼ぶべきか、それとも王立学園の研究者に調査を依頼すべきかと、落ち着かない声が飛び交っている。
その一方で、ヴィオレッタ・ヴァレンシュタインは、応接室の長椅子に座らされていた。
「手を見せなさい」
エミリアが真剣な顔で言った。
「大した怪我ではありません」
「さっきから三回も同じことをおっしゃっています」
「三回も心配してくださったのですね。光栄ですわ」
「そういう問題ではありません!」
エミリアはヴィオレッタの手のひらを確かめた。石壁にぶつけた箇所は赤くなっていたが、幸い、深い傷はない。
彼女はほっと息を吐き、それからヴィオレッタの顔をじっと見つめた。
「本当に、怖くなかったのですか?」
「怖かったですよ」
ヴィオレッタはあっさり答えた。
「ただ、怖いからといって何もしなければ、もっと怖いことが起きるかもしれませんから」
エミリアは何か言いかけて、結局、口を閉じた。
その沈黙を破ったのは、扉の向こうから現れたノアだった。
「侯爵がお呼びです。温室で起きたことについて、確認したいそうです」
「あなたは?」
「私は、倒れた棚と床の術式について説明を求められました。もっとも、専門家ではないので、分からないことは分からないと答えました」
「珍しく正直ですね」
「普段から正直です。あなたが私の回答を疑っているだけでしょう」
「疑う理由には事欠きませんもの」
「お互い様ですね」
エミリアが二人を交互に見た。
「お二人は、こういうときでも普段どおりなのですね……」
「緊張を和らげるためですわ」
「私は違います。単に、この方と話すと疲れるだけです」
「まあ。意見が一致しましたわね」
エミリアは額を押さえた。
どうやら、この二人を同じ部屋に置くこと自体が、一種の危険な魔法実験らしい。
応接室を出る前に、ヴィオレッタは手帳を確認した。銀色の粉、黒い外套、床の術式、そして金属片に刻まれた紋章。
事実は少しずつ増えている。
だが、肝心の紙片は戻っていなかった。
侯爵の書斎では、レオポルトが窓辺に立っていた。机の上には、温室から回収された金属片が置かれている。
「まず、君たちに謝罪しなければならない」
侯爵は二人を見ると、深く頭を下げた。
「私の家で危険な事態を招いた。招待客を危険にさらし、君たちにも怪我をさせかけた。申し訳ない」
「侯爵が謝罪なさるべきことと、そうでないことは分けて考えるべきです」
ヴィオレッタは慎重に答えた。
「ただ、あの温室に何があったのかは、明らかにする必要があります」
「同意する。専門家にはすでに連絡した。だが、その前に君たちへ見せたいものがある」
侯爵は机の引き出しから、古びた紙を一枚取り出した。
それは家門の古い紋章を描いた図面だった。
枝の上に三つの星。見慣れた構図だが、星の位置は現在のエーベルハルト家の紋章とも、温室で見つかった金属片の刻印とも一致しない。
「この図は、私の祖父が残したものだ。由来は不明。家門の公式な記録にも載っていない」
「なぜ、今まで公表されなかったのですか?」
「説明できないものを、確かな歴史として公表するわけにはいかない。それに、祖父はこの図を誰にも渡すなと書き残していた」
侯爵は紙の裏側を見せた。
そこには、かすれた文字があった。
『三つの星は家門を示すものにあらず。記録の所在を示す目印なり』
ヴィオレッタは目を細めた。
「家門の紋章ではなく、何かの場所を示す印……?」
「その可能性があると考えている。だが、どこを指すのかは分からない」
ノアが図面に顔を近づけた。
「侯爵。この図を描いた年代は分かりますか?」
「紙質と筆跡から、少なくとも百年以上前のものだろう。ただし、正確な年代を示す記録はない」
「では、この紋章が現在のものより古いとは限らない」
ヴィオレッタが続けた。
「古い図面に後世の紋章が描き加えられた可能性もあります。あるいは、別の図を写したものかもしれません」
侯爵はうなずいた。
「だからこそ、君に相談したかった。私の家に伝わる話を信じてほしいのではない。何が確かで、何が確かでないのかを知りたいのだ」
その言葉に、ヴィオレッタはわずかに表情を和らげた。
少なくとも、侯爵は都合のよい結論を求めているわけではないらしい。
彼女は図面を慎重に観察した。
三つの星のうち、中央の星だけが少し大きい。枝の根元には、目立たない小さな円が描かれている。装飾にしては不自然な位置だった。
「この円には、何か意味があるのでしょうか」
「分からない。祖父の手記にも説明はなかった」
ノアが紙の端を指さした。
「いや。ここに何か書かれていた跡があります」
光に透かすと、紙の端に薄い圧痕が浮かび上がった。文字のようにも見えるが、判読できるほど明瞭ではない。
ヴィオレッタは、温室の床に刻まれていた幾何学模様を思い出した。
あの線の交差点にも、同じような小さな円があった。
偶然かもしれない。
だからこそ、彼女はすぐに結びつけなかった。
「図面を詳しく調べてもよろしいでしょうか。もちろん、侯爵家の許可をいただいた範囲で」
「構わない。原本を持ち出すことはできないが、ここで調べる分には問題ない」
「ありがとうございます」
ヴィオレッタは図面をもう一度見た。
そこへ、書斎の扉を叩く音が響いた。
入ってきたのは、先ほどの若い客人、フェリクス・フォン・ラーデンだった。彼は落ち着かない様子で手袋を握りしめている。
「侯爵閣下。お話ししたいことがあります」
「何だね?」
フェリクスは一度ヴィオレッタとノアを見た後、意を決したように口を開いた。
「温室で逃げた人物についてです。私は、あの人物を見たことがあります」
室内の空気が変わった。
「どこで?」
侯爵の声が低くなる。
「今日の昼、屋敷の裏門付近です。黒い外套を着ていました。ただ、あのときは使用人の一人だと思って……」
「顔は見たのですか?」
ヴィオレッタが尋ねる。
「いいえ。帽子を深くかぶっていました。でも、歩き方が妙だったんです。右足をかばうように歩いていた」
ノアが腕を組んだ。
「温室から逃げた人物も、右足をかばっていたのですか?」
「はい。走っているときに、ほんの少しだけ」
ヴィオレッタは手帳を開いた。
自分が追いかけた影は、角を曲がる際に体勢を崩していた。確かに、片足をかばうような動きにも見えた。
だが、あの暗さでは断言できない。
「フェリクス様。その人物が何をしていたのか、ほかに覚えていることは?」
「裏門の近くで、庭師と話していました。会話の内容までは聞こえませんでしたが、何か小さな包みを渡していたように見えます」
「庭師の名前は分かりますか?」
「顔は知っています。屋敷に長く勤めている老人です」
侯爵はすぐに使用人を呼び、庭師の所在を確認するよう命じた。
しかし、戻ってきた使用人の報告は、予想外のものだった。
「庭師のハインツは、夕方から屋敷におりません。裏門から出たまま、まだ戻っていないとのことです」
「外出の理由は?」
「誰にも伝えていないそうです」
侯爵の表情が険しくなった。
ヴィオレッタは窓の外を見た。
庭園の向こうには、古い温室が暗く沈んでいる。
消えた紙片。
正体不明の人物。
古い術式と、行方の分からない庭師。
それぞれが同じ事件につながっているとは、まだ断言できない。
だが、少なくとも一つだけ確かなことがあった。
この屋敷の誰かは、彼女たちが紋章を調べることを望んでいない。
あるいは、調べさせたいものが別にある。
ヴィオレッタは手帳に最後の一行を書き加えた。
――ハインツの所在を確認する。彼が戻るまで、結論を出さない。
ペンを置いた瞬間、窓の外で小さな光が瞬いた。
青白い光。
ほんの一瞬だった。
ヴィオレッタが顔を上げたときには、もう消えていた。
温室の方角だった。




