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消えた紙片を追って

紙片が消えた部屋には、妙な静けさが残っていた。


準備室の中央には、薄い布を敷いた木箱が置かれている。その脇には、紙片を包んでいた布と、銀色の粉がわずかに付着した白紙が残されていた。


ヴィオレッタは、扉から木箱まで続く足跡をもう一度確かめた。


「この部屋に入った人間を、順番に確認しましょう。ただし、最初から誰かを犯人と決めつけないこと」


「分かっている。だが、あの紙片は家門の歴史に関わる重要な資料だ。軽々しく扱うわけにはいかない」


エーベルハルト侯爵レオポルトは険しい顔で答えた。


「ええ。ですから、軽々しく盗難と決めつけるのも避けたいのです」


ヴィオレッタの返答に、侯爵は一瞬だけ口を閉ざした。


彼女の言葉は、慰めにも挑発にも聞こえなかった。ただ、事実を確かめるまでは結論を出さない。それだけだった。


「まず、紙片を最後に確認した時刻を教えてください」


「客人たちに公開する前だ。私と記録係の二人で確認し、その後、この部屋へ移した」


「その後、部屋に入ったのは?」


「私の使用人が二人。記録係が一人。それから、先ほど箱を倒しかけた若い客人だ。もっとも、彼は紙片を直接触っていない」


「その方のお名前は?」


「フェリクス・フォン・ラーデン。子爵家の次男だ」


ヴィオレッタは手帳を開き、名前と時刻を書き留めた。


隣でエミリアが、部屋の隅に置かれた小さな銀製の盆を見つめている。


「ヴィオレッタ様。これ、少し気になりませんか?」


「盆が?」


「いえ、その上にあるものです」


盆には、細い銀色の糸が一本、くるりと巻かれていた。


エミリアが顔を近づけようとしたので、ヴィオレッタはそっと彼女の肩を押さえた。


「見るだけにしましょう。ここで不用意に何かを触れば、侯爵家の使用人全員に嫌われかねません」


「もう嫌われていたらどうしましょう……」


「その場合、これ以上悪化させない努力が必要ですね」


「励まされている気がしません!」


「安心してください。私も、あまり励ますのは得意ではありません」


緊張の中で、エミリアが小さく息を吐いた。


ヴィオレッタは銀の糸を観察した。通常の刺繍糸より細く、光を受けると鈍い銀色を返している。先端には、ごく小さな粒が付着していた。


あの白紙の端に残っていた銀色の粉と、よく似ている。


「侯爵。これは普段からここに置いてあるものですか?」


「いや。資料を扱う際に使う道具ではないな。誰が持ち込んだのか、確認させよう」


侯爵が使用人を呼ぼうとした、その時だった。


廊下の向こうで、何かが倒れる音がした。


続いて、短い悲鳴。


三人が顔を見合わせるより早く、ヴィオレッタは扉へ向かった。


「ヴィオレッタ様、お待ちください!」


エミリアの声を背に、彼女は廊下へ出た。


角を曲がった先に、一人の侍女が尻もちをついていた。床には銀の盆が転がり、その上にあったはずの糸はない。


そして、開け放たれた小窓のそばで、黒い影が動いた。


「止まりなさい!」


ヴィオレッタが叫ぶ。


影は振り返らず、窓枠を越えて外へ飛び出した。


ヴィオレッタは反射的に追いかけた。窓の向こうは中庭へ続く細い通路で、石畳の先には古い温室がある。


外へ出た瞬間、冷たい風が頬を打った。


黒い影は思いのほか速い。裾の長いドレスで全力疾走するという、貴族令嬢としては褒められない行為を続けながら、ヴィオレッタは距離を詰めようとした。


しかし、通路の角で影が急に身を翻した。


肩がぶつかり、ヴィオレッタの身体がよろめく。


「っ……!」


石壁に手をついて、どうにか転倒を免れた。手のひらに鈍い痛みが走る。


相手はその隙に温室の脇へ消えた。


追うべきか、助けを呼ぶべきか。


迷ったのは一瞬だった。


ヴィオレッタは走るのをやめ、足元を見た。


石畳には、細かな銀色の粒が点々と落ちている。


それは温室の裏口へ続いていた。


「……なるほど。逃げる人間というのは、意外と親切に道案内をしてくれるものなのですね」


自分の声が少し震えていることに、彼女は気づいていた。


恐怖ではない、と言い切る自信はなかった。


温室の扉は半開きだった。


中は薄暗く、枯れた蔓が天井から垂れ下がっている。かつて珍しい薬草を育てていたらしいが、今では一部の鉢が割れ、棚も傾いていた。


ヴィオレッタは扉の外から中を覗いた。


「誰かいますか?」


返事はない。


代わりに、奥の棚の向こうで金属が触れ合うような音がした。


彼女は近くに落ちていた枯れ枝を拾い、握りしめた。


武器と呼ぶには、あまりにも頼りない。


だが、何も持たずに踏み込むよりはましだ。


一歩、二歩。


棚の向こうに、人影があった。


黒い外套を着た人物が、床に片膝をつき、何かを拾おうとしている。


「それを置いてください」


相手の肩がぴくりと動いた。


「紙片を返していただければ、侯爵家の方々と話し合う余地はあります」


沈黙。


「……返答がないのは、肯定と受け取っても?」


「お嬢様、交渉の仕方を間違えていませんか」


背後から、聞き慣れた声がした。


ヴィオレッタは振り返った。


ノアが入口に立っていた。息は乱れていない。どうやら彼は、彼女よりもずっと落ち着いてここまで来たらしい。


「あなた、なぜここに?」


「侯爵家の使用人が、窓から逃げた人影を見たと騒いでいたので。あなたが追いかけたと聞いて、嫌な予感がしました」


「それはご親切に」


「礼には及びません。あなたが怪我をすると、調査が余計に面倒になりますから」


「次からは、心温まる理由を用意しておいてください」


「検討しておきます」


二人の会話の間にも、黒い外套の人物は動かなかった。


ノアの視線が、床に落ちた銀色の粒へ移る。


「……その粉、さっきの資料に付いていたものですか?」


「同じものかは分かりません。ただ、準備室からここまで続いていました」


「ということは、逃げた人物が紙片を持っているとは限らない」


ヴィオレッタは目を細めた。


「どういう意味です?」


「囮かもしれません。あるいは、誰かに追わせるための道筋です」


その瞬間、棚の向こうで黒い影が立ち上がった。


ノアが一歩前へ出る。


「待ってください。こちらは二人です。無理に逃げれば、あなたが不利になります」


影は答えなかった。


代わりに、床へ小さな金属片を投げつけた。


乾いた音が響く。


次の瞬間、温室の床に刻まれていた古い線が、かすかに青白く光った。


「下がって!」


ノアがヴィオレッタの腕を引いた。


棚の脚が突然きしみ、頭上から鉢が落ちてくる。ヴィオレッタは身をひねって避けたが、破片が足元に散った。


光は床の線を走り、温室の奥へと伸びていく。


黒い外套の人物も予想していなかったのか、動きを止めた。


「何をしたのです!」


ヴィオレッタの問いに、相手は初めて顔を上げた。


布で半分隠された顔。その目だけが、ひどく驚いていた。


「違う……こんなはずじゃ……」


声は若かった。


床の光が一段と強くなる。


ノアはヴィオレッタを庇うように立ち、近くの棚を押して倒れかけた鉢を遮った。


「説明は後です。出口へ!」


「あなたが先に逃げてください!」


「議論している時間はありません!」


ヴィオレッタは歯を食いしばり、入口へ走った。ノアも続く。背後で何かが崩れ落ち、温室全体が大きく揺れた。


外へ飛び出した直後、轟音が響いた。


温室の奥の棚が倒れ、古い石床の一部が崩れていた。


数秒間、誰も口を開かなかった。


やがて、ヴィオレッタは息を整えながらノアを見た。


「……先ほどの光、あなたには何に見えましたか?」


「古い術式のように見えました。ただし、現代の魔法陣とは構造が違う」


「作動させるつもりだったのでしょうか」


「分かりません。少なくとも、あの人物は驚いていた」


ヴィオレッタは温室の暗い入口を見つめた。


黒い外套の人物は、混乱に乗じて姿を消していた。


残されたのは、崩れた棚と、床に走る青白い光の残滓。そして、石畳に落ちた銀色の粒だった。


やがて侯爵と使用人たちが駆けつけ、温室は立ち入り禁止になった。


負傷者はいなかった。少なくとも、今のところは。


その後の確認で、準備室から消えた紙片は見つからなかった。黒い外套の人物の正体も不明のままだった。


ただし、温室の床から回収された金属片には、奇妙な刻印があった。


木の枝に似た一本の線。その上に、三つの小さな星。


エーベルハルト家の紋章に似ている。だが、星の配置は違っていた。


ヴィオレッタは刻印を描き写し、手帳を閉じた。


「家門の歴史を信じる前に、その歴史がいつ書かれたのかを確かめよ……」


匿名の紙片に記されていた言葉が、脳裏によみがえる。


あの警告を書いた人物は、この出来事を予測していたのだろうか。


それとも、彼女たちがここまで調べること自体、誰かの望んだ結果なのだろうか。


答えはない。


ただ、崩れた石床を見つめた瞬間、ヴィオレッタの脳裏に再び暗い回廊がよぎった。


幾何学模様の床。


遠くで響く、鈴のような音。


そして、聞き覚えのある声。


まだ、足りない。


彼女は思わず手を握りしめた。


「ヴィオレッタ?」


ノアが呼ぶ。


「……大丈夫です」


答えながら、彼女は自分の記憶を疑っていた。


今の光景は、本当に過去のものだったのか。


それとも、崩れた温室を見たことで、記憶が勝手に形を作っただけなのか。


判断できない。


だからこそ、記録する。


見たものと、聞いたもの。確かめられた事実と、確かめられない記憶を分けて。


ヴィオレッタは手帳の最後に、短く書き加えた。


黒い外套の人物は、紙片を持っているとは限らない。


そして、温室の術式は、予期しない形で作動した可能性がある。


その下に、もう一文を記した。


――誰かが、私たちに追わせたいものがある。


書き終えた彼女の指先には、いつの間にか銀色の粉が付着していた。

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