侯爵が隠していた記録
エーベルハルト侯爵に案内されたのは、閲覧会が開かれている広間から離れた、小さな応接室だった。
壁には歴代当主の肖像画が並び、窓際には古い地図を収めた額が飾られている。暖炉には火が入っていたが、部屋の空気はどこか張り詰めていた。
ヴィオレッタ・ヴァレンシュタインは、勧められた椅子に腰を下ろした。
侯爵は執事に退室を命じ、扉が閉じたことを確認してから口を開いた。
「先ほどの紙片について、どこまでご存じですかな?」
「ほとんど何も存じません。ただ、あの紋章には見覚えがあります」
「どこで?」
ヴィオレッタは一瞬、答えを考えた。
差出人不明の紙片が自宅に届いたことを、そのまま話すべきだろうか。
侯爵がどこまで事情を知っているのか、まだ分からない。
「古い建築史の研究書に掲載された図版です。現在の貴家の紋章と似ていますが、細部が異なっていました」
侯爵は彼女を見つめた。
「それだけですか?」
「今のところは」
嘘ではない。
ただし、すべてを話したわけでもなかった。
侯爵はしばらく黙っていたが、やがて小さく息をついた。
「……そうですか。ならば、まずは私から説明する必要がありそうですな」
彼は机の引き出しから鍵を取り出した。
そして、壁際に置かれた小さな書棚の下段を開け、一冊の薄い帳簿を取り出した。
表紙には題名がなく、背表紙にも分類番号は見当たらない。
侯爵は帳簿を机に置いたが、すぐには開かなかった。
「エーベルハルト家には、代々引き継がれてきた記録がございます。しかし、すべてが同じように扱われてきたわけではありません」
「公開されている記録と、そうでない記録があるということでしょうか」
「それだけではありません。ある記録は家門の歴史を証明するために保管され、ある記録は、歴史を確定できないことを示すために残されているのです」
ヴィオレッタは眉を寄せた。
「歴史を確定できないことを示す……?」
「古い記録には、相互に矛盾する記述が存在します。家系の起源についても、建国期の都市連合についても、後世にまとめられた系譜と一致しない部分があるのです」
侯爵は帳簿を開いた。
最初の数ページには、古い家系図の写しが収められていた。
そこには、エーベルハルト家の初期の当主たちの名前と、複数の都市との関係が記されている。
しかし、ある時期を境に、記録の形式が変わっていた。
それ以前は、人物の名前とともに、その人物が所属した都市や役割が記されている。
それ以後は、現在の貴族家系図に似た形式で、親子関係と爵位の継承が中心になっていた。
「記録の形式が違いますね」
ヴィオレッタが指摘すると、侯爵は頷いた。
「はい。後世の編纂者は、古い記録を現在の家系図へ組み込もうとしたのでしょう。しかし、すべての名前を無理なく対応させることはできなかったようです」
「それでも、現在の系譜には採用されたのですね」
「一部は。説明がつかない名前については、別の記録へ移されたものもあります」
ヴィオレッタは、紙片に記された言葉を思い出した。
家門の歴史を信じる前に、その歴史がいつ書かれたのかを確かめよ。
「この帳簿は、いつ作成されたものですか?」
侯爵は、わずかに目を細めた。
「そこが問題なのです」
帳簿の最初のページには、古い記録を写したという説明があった。
しかし、写しを作成した年月日は記されていない。
代わりに、後の時代のものと思われる筆跡で、短い注記が追加されていた。
『旧記との照合未了。系譜への採用を保留する』
「この注記が、いつ書かれたのかも分からないのですね」
「ええ。私が当主を継いだときには、すでにこの状態でした」
侯爵は帳簿を閉じた。
「私は、家門の歴史を疑いたいわけではありません。ですが、根拠の確認できない記録を、確かな歴史として公表することにも抵抗があるのです」
その言葉に、ヴィオレッタは静かに頷いた。
侯爵の態度が慎重だった理由は、少し理解できた。
彼は単純に秘密を守りたいのではない。
自家の系譜に説明できない部分があることを認識しながら、どこまで公にすべきか判断できずにいるのだ。
「それで、私を招待されたのですか?」
「あなたが王立記録院で古い資料を調べていると聞きました。記録の不一致を見つけても、すぐに不正や隠蔽と決めつけない人物だとも」
ヴィオレッタは、思わず目を瞬かせた。
「どなたから、そのような話を?」
「それについては、今はお答えできません」
「……そうですか」
彼女は少しだけ口元を引き締めた。
招待の理由は分かった。
しかし、彼女の調査を知っていた人物が誰なのかという疑問は、依然として残っている。
侯爵は再び引き出しを開け、今度は小さな紙袋を取り出した。
中には、薄い紙片が数枚入っていた。
「これらは、数年前に家の書庫で見つかったものです。いずれも、古い記録の写しや、後世の研究者が残した注記だと考えられています」
ヴィオレッタは、一枚目を受け取った。
そこには、都市名と人物名が列挙されていた。
二枚目には、建物の配置らしき図が描かれている。
そして三枚目には、あの紋章に似た意匠があった。
「この紋章は……」
「家の古い記録に含まれていました。ただし、誰のものなのかは分かっていません」
ヴィオレッタは、三枚目の紙片を注意深く観察した。
枝の形は、現在のエーベルハルト家の紋章と異なる。
三つの星のうち一つが根元に配置されている点は、古い建築史の図版と一致していた。
しかし、星の一つには小さな円が描き加えられている。
その円の内側には、文字とも記号とも判断できない線があった。
「この部分を拡大して調べたことはありますか?」
「何度か。しかし、紙の劣化もあり、明確な解読には至っていません」
ヴィオレッタは、紙片の裏側を確認した。
そこには、薄い文字で一文が書かれていた。
『照合に用いた原本は、別途保管すること』
彼女の指先が止まった。
「原本……?」
侯爵が頷いた。
「その記載があるため、私も原本の所在を探してきました。しかし、保管先を示す記録が見つからないのです」
ヴィオレッタは、紙片を机の上に置いた。
これまで王立記録院で調べてきた記録の中にも、原資料との照合が未完了とされたものがあった。
今回の紙片が、それらと直接関係しているとは限らない。
しかし、原本と写しを区別し、照合のために別途保管するという考え方は、これまでの調査と共通していた。
「この紙片を、私に見せてくださった理由は何でしょうか」
侯爵は、すぐには答えなかった。
やがて、彼は机の上に両手を置いた。
「あなたに、原本の所在を調べていただきたいのです。王立記録院に残る記録と、我が家に伝わる記録を照合すれば、何か分かるかもしれません」
「正式な調査として、資料を閲覧する許可をいただけるのでしょうか?」
「可能な範囲で協力いたします。ただし、すべての記録を一度に公開することはできません。家門に関係する個人の記録も含まれていますので」
「それは当然のことです。公開できる資料と、閲覧に制限が必要な資料を分けていただければ、問題ありません」
侯爵は、ほっとしたように息をついた。
「ありがとうございます」
ヴィオレッタは、紙片をもう一度見つめた。
そのとき、応接室の扉がノックされた。
執事が入室し、侯爵に耳打ちする。
侯爵の表情が変わった。
「……何ですと?」
彼は立ち上がり、執事に確認するように言った。
「すぐに書庫を確認してください。ほかの者には知らせず、まずは保管記録と照合するのです」
執事は一礼し、足早に部屋を出ていった。
ヴィオレッタは、侯爵の様子を見つめた。
「何かございましたか?」
侯爵はしばらく沈黙していたが、やがて彼女に向き直った。
「先ほど、広間で回収した紙片のことです」
「はい」
「保管場所を確認しようとしたところ、包みが見当たらなくなったそうです」
ヴィオレッタは椅子から立ち上がりかけた。
「誰かが持ち出したのですか?」
「まだ分かりません。回収した使用人が別の場所へ移した可能性もあります。ですが、あの紙片は公開資料ではありません。勝手に移動させる理由はないはずです」
侯爵は応接室の扉へ視線を向けた。
「申し訳ありませんが、少々お待ちいただけますか」
「もちろんです。ただ、もしよろしければ、私も保管記録の確認に立ち会わせてください。どこで、いつ回収され、誰に引き渡されたのかを整理すれば、状況が分かるかもしれません」
侯爵は迷った後、頷いた。
「分かりました。ご協力をお願いします」
二人は応接室を出て、先ほど紙片が回収された広間へ向かった。
閲覧会はすでに終盤を迎えており、招待客の一部は帰り支度を始めていた。
侯爵は執事を呼び、紙片の回収から保管までの経緯を確認させた。
回収した使用人の証言によれば、紙片は布に包まれた後、広間の隣にある小さな準備室へ運ばれたという。
しかし、準備室の保管箱には、その包みが見当たらなかった。
「準備室の出入口は?」
ヴィオレッタが尋ねた。
「廊下側の扉が一つございます。隣の広間へ通じる扉もありますが、現在は内側から鍵をかけております」
「窓は?」
「ございます。ただし、外側には鉄格子があり、人が通れるほどの隙間はありません」
ヴィオレッタは室内を見回した。
準備室には、展示用の布や木箱が置かれている。
床には、細かな紙片がいくつか落ちていた。
彼女はしゃがみ込み、そのうちの一つを拾い上げた。
紙片は白く、文字も紋章も記されていない。
ただし、端には、細い銀色の粉のようなものが付着していた。
「これは……」
彼女は紙片を光にかざした。
銀色の粉は、灯りを反射して微かに輝いた。
その瞬間、彼女の頭の奥で、断片的な光景がよぎった。
暗い廊下。
石の床に刻まれた幾何学模様。
そして、誰かの声。
『まだ、足りない』
ヴィオレッタは息を呑んだ。
以前、創始者たちの天文台で聞いた声と同じだった。
だが、今の光景が本当に過去の出来事なのか、それとも別の記憶なのかは分からない。
彼女は壁に手をつき、ゆっくりと呼吸を整えた。
「ヴァレンシュタイン嬢?」
侯爵の声が聞こえた。
「大丈夫ですか?」
「……ええ。少し、立ちくらみがしただけです」
ヴィオレッタは紙片を握りしめないよう、慎重に持ち直した。
今は、目の前の出来事を確かめることが先だ。
彼女は床を見渡し、準備室の隅に置かれた木箱に目を留めた。
箱の蓋には、細い傷が一本走っていた。
その傷は、先ほど広間で回収された紙片を包んでいた布の留め具と、よく似た形をしている。
「侯爵。こちらの箱は、いつからここに置かれているのでしょうか?」
侯爵は箱を見て、首を傾げた。
「展示品の梱包材を入れておくためのものです。今日も使用人が使っていたはずですが……」
ヴィオレッタは、箱の脇にある床を指した。
そこには、薄い埃の上に、新しい靴跡が残っていた。
靴跡は準備室の扉から箱の前まで続き、そこから再び扉へ戻っている。
ただし、足跡の主が誰なのかまでは分からない。
「少なくとも、ここを誰かが通ったようです」
侯爵の表情が険しくなった。
「使用人たちを呼び、出入りを確認します」
「はい。ただ、まだ誰かが紙片を持ち出したと決めつけるべきではありません。別の場所へ移された可能性もあります」
ヴィオレッタは、自分の言葉を確かめるように続けた。
「まずは、保管の手順と、最後に包みを確認した人物を調べましょう」
侯爵は頷き、執事に指示を出した。
その間、ヴィオレッタは手帳を取り出し、時刻と確認できた事実を書き留めた。
紙片が回収された時刻。
準備室へ運ばれたこと。
保管箱から見つからなかったこと。
そして、床に残された銀色の粉と靴跡。
それ以上のことは、まだ何も分からない。
彼女は手帳を閉じ、準備室の窓を見た。
鉄格子の向こうには、夕暮れの庭が広がっている。
窓からの出入りは難しそうだった。
ならば、紙片はどこへ行ったのか。
誰かが持ち出したのか。
それとも、最初から別の場所に保管されていたのか。
ヴィオレッタは、侯爵に向き直った。
「紙片の回収から保管までの記録を、すべて確認させてください。小さな行き違いでも、順番に整理すれば、何が起きたのか分かるかもしれません」
侯爵は、静かに頷いた。
「お願いします、ヴァレンシュタイン嬢」
閲覧会は、予定していた時間を過ぎても終わらなかった。
ヴィオレッタは、今夜のうちに紙片が見つかるかどうか分からないと理解していた。
しかし、あの紋章が描かれた紙片は、単なる古い資料ではないのかもしれない。
少なくとも、誰かがその保管状況を気にしている。
そして、彼女自身の記憶も、あの紙片を見た瞬間に反応した。
それらが同じ原因によるものなのかは、まだ分からない。
だからこそ、彼女は目の前の事実を一つずつ確認するつもりだった。
謎を解くために必要なのは、最初から正しい答えを知っていることではない。
何が起きたのかを、間違えずに見極めることなのだから。




