侯爵家の晩餐会
エーベルハルト侯爵家の閲覧会が開かれる当日、ヴィオレッタ・ヴァレンシュタインは、鏡の前で最後の確認をしていた。
灰銀色の長い髪は、後ろの一部だけを銀細工の髪飾りで留め、残りは背中へ流している。濃紺のドレスには控えめな銀糸の刺繍が施され、胸元には小さな青紫色の宝石が光っていた。
華美すぎず、地味すぎない。
侯爵家の招待客として、問題のない装いだった。
「お嬢様、とてもお似合いです」
侍女が満足そうに微笑んだ。
「ありがとう。ところで、このドレスで走ることはできるかしら?」
侍女の笑顔が止まった。
「……走るのでございますか?」
「念のためよ」
「念のため、ドレスで走るご予定があるのですか?」
「予定はないわ。予定はね」
ヴィオレッタは鏡の中の自分を見つめた。
前世の記憶には、予想もしなかった出来事がいくつもあった。今世で同じことが起きるとは限らない。だからといって、何も起きないと決めつけるつもりもなかった。
侍女は何か言いたげだったが、結局、ドレスの裾を整えることに専念した。
「もし走ることになったら、裾を踏まないようお気をつけくださいませ」
「ええ。あなたの忠告を無駄にしないよう努力するわ」
「走らない努力もお願いいたします」
ヴィオレッタは、ほんの少し笑った。
屋敷の玄関には、すでに馬車が用意されていた。
エーベルハルト侯爵家の屋敷は王都の北東部、古い貴族の邸宅が並ぶ地区にある。建物の歴史は古く、増築を重ねたため、外観には異なる時代の建築様式が混在しているという。
今回の閲覧会では、侯爵家が保管する古文書の一部が公開される。
招待状に記されていたのはそれだけだった。
ヴィオレッタは、昨夜まとめた質問事項を確認した。
古い紋章の由来。
建築史の図版の出典。
過去に行われた原資料の照会。
そして、回答の写しを別途保管したという記録。
どれも、実際に資料を確認するまでは結論を出せない。
馬車が動き出してしばらくすると、王都の中心部を離れた車窓に、石造りの塀と古い街路樹が現れた。
やがて、鉄製の門の向こうに大きな屋敷が見えてくる。
正面玄関の両側には、樹木と三つの星を組み合わせた紋章が掲げられていた。
ヴィオレッタは、その意匠を注意深く観察した。
招待状の封蝋と同じだ。
ただし、正面の紋章には、枝の形や星の位置に、わずかな違いがあるようにも見えた。
彼女は馬車を降りると、門の装飾をもう一度確かめた。
「お嬢様、何かございましたか?」
同行した侍女が尋ねた。
「いいえ。少し、家の紋章を見ていただけよ」
「とても立派な紋章でございますね」
「ええ。立派な紋章ほど、細部まで確認したくなるものね」
侍女には意味が分からなかったようだが、ヴィオレッタはそれ以上説明しなかった。
玄関では、侯爵家の執事が彼女を迎えた。
「ヴァレンシュタイン公爵家のご令嬢、ヴィオレッタ様でいらっしゃいますね。ようこそお越しくださいました」
「お招きいただき、ありがとうございます。本日は貴重な機会をいただけて光栄です」
「侯爵も、お会いできることを楽しみにしておられます。どうぞこちらへ」
案内された広間には、すでに何人もの貴族や研究者が集まっていた。
壁には歴代当主の肖像画が並び、窓際には古い地図や写本が展示されている。
中央の長机には、閲覧用の手袋と資料の目録が用意されていた。
ヴィオレッタは目録を受け取った。
公開資料は全部で十二点。
古い都市図、建築記録、家門の系譜、そして王国成立期の行政文書などが並んでいる。
その中に、彼女が探していた紋章の図版は見当たらなかった。
「公開資料には含まれていないのね……」
小さく呟いたところで、背後から落ち着いた声がした。
「何か、お探しのものがございましたか?」
振り返ると、五十歳前後の男性が立っていた。
整えられた髪に、深緑色の礼服。胸元には、エーベルハルト家の紋章をあしらった銀の飾りがある。
「失礼いたしました。私はエーベルハルト侯爵家当主、レオポルト・エーベルハルトです」
「ヴィオレッタ・ヴァレンシュタインでございます。本日はお招きいただき、ありがとうございます」
ヴィオレッタは礼を取った。
侯爵は穏やかな笑みを浮かべたが、その視線は彼女の手元にある目録へ向けられていた。
「公開資料に、何かご期待されていたものがありましたかな?」
「古い紋章の図版について、少し確認したいことがございました。ただ、今回の公開資料には含まれていないようです」
「紋章ですか」
侯爵は一瞬だけ言葉を止めた。
ほんのわずかな間だった。
しかし、ヴィオレッタはその反応を見逃さなかった。
「どのような紋章にご興味がおありで?」
「建国期の都市連合に関係すると説明されている、樹木と三つの星の意匠です。現在の貴家の紋章に似ているのですが、星の位置などが異なっております」
侯爵の笑みが、わずかに薄くなった。
「なるほど。古い図版には、そのようなものもございます」
「原資料の所在や、図版の作成年代については、まだ確認できておりません。もし貴家に関連する資料がございましたら、ぜひ拝見したいと考えております」
「残念ながら、本日公開しているものがすべてではありません。家門に伝わる記録には、研究上の価値が高いものもあれば、内容の確認に時間を要するものもございます」
丁寧な説明だった。
公開できない理由としても、不自然ではない。
ヴィオレッタは無理に追及せず、頭を下げた。
「承知いたしました。まずは、公開されている資料から勉強させていただきます」
「ご理解いただき、感謝いたします」
侯爵が別の招待客に呼ばれ、広間の奥へ向かった後、ヴィオレッタは目録を閉じた。
彼は、紋章の話題に驚いていたように見えた。
しかし、それだけで何かを隠していると判断するのは早い。
古い家門にとって、自家の歴史を慎重に扱うことは珍しくないのだから。
ヴィオレッタは公開資料の閲覧を始めた。
最初に手に取ったのは、王国成立期の都市間協定を写した文書だった。
本文には、複数の都市の代表者が協力し、交易路と物資の輸送を確保したことが記されている。
末尾には、協定に立ち会った者たちの署名と、いくつかの印章が描かれていた。
その中に、樹木と三つの星を組み合わせた意匠があった。
ヴィオレッタは、思わず身を乗り出した。
現在のエーベルハルト家の紋章に似ている。
しかし、印章の中央には樹木ではなく、枝を広げた別の植物が描かれていた。
三つの星のうち一つは、やはり根元に配置されている。
「……また違う形ね」
彼女は文書の題名と年代を記録した。
この印章がエーベルハルト家のものだとは書かれていない。
署名欄に記された名前も、現在の侯爵家の系譜と直接結びつけることはできなかった。
ただし、都市連合の時代に、似た意匠が使われていたことは確認できる。
ヴィオレッタが次の資料へ手を伸ばしたとき、広間の反対側で、何かが落ちる大きな音がした。
振り返ると、若い男性が展示用の台にぶつかり、積まれていた木箱を倒していた。
箱から古い巻物が転がり出す。
「申し訳ありません! すぐに片づけます!」
男性は慌ててしゃがみ込んだ。
近くにいた使用人たちも駆け寄り、巻物を拾い上げようとする。
その瞬間、ヴィオレッタは気づいた。
倒れた木箱の下から、一枚の薄い紙が滑り出していた。
展示資料の目録には記載されていない。
紙の端には、見覚えのある紋章が描かれていた。
枝の形が折れ曲がり、三つの星の一つが根元にある。
昨夜、差出人不明の紙片に描かれていたものと、よく似ていた。
ヴィオレッタは周囲を確認した。
使用人たちは、倒れた巻物の回収に気を取られている。
紙片は、誰にも拾われないまま床に残されていた。
彼女は一歩踏み出しかけた。
だが、その直前。
「そちらの紙には、お手を触れないでください」
背後から、鋭い声が響いた。
振り返ると、先ほどの侯爵が立っていた。
その表情からは、先ほどまでの穏やかな笑みが消えている。
広間にいた人々が、何事かとこちらを見た。
ヴィオレッタは、床の紙片に視線を戻した。
「失礼いたしました。こちらは展示資料の一部でしょうか?」
侯爵はすぐには答えなかった。
やがて、近くの使用人に向かって命じた。
「それを回収しなさい。ほかの資料と混同しないように」
使用人が紙片を拾い上げ、布に包んだ。
その動きは、単に貴重な文書を保護するためのものにも見える。
しかし、ヴィオレッタは、侯爵が紙片を目にした瞬間の表情を忘れなかった。
彼は、その紋章を知っている。
少なくとも、見覚えがある。
「ヴァレンシュタイン嬢」
侯爵が彼女に向き直った。
「先ほど、古い紋章についてお話しされましたね」
「はい」
「閲覧会が終わりましたら、少しお時間をいただけますかな。公開資料とは別に、お話ししておきたいことがございます」
ヴィオレッタは、侯爵の目を見つめた。
「もちろんです。私でお役に立てることがあれば」
侯爵は短く頷き、使用人に紙片を運ばせた。
広間のざわめきが、少しずつ元に戻っていく。
ヴィオレッタは、再び都市間協定の文書へ目を向けた。
そこに描かれた印章と、先ほど床に落ちていた紙片の紋章。
両者は似ているが、同じではない。
そして、エーベルハルト侯爵は、その紙片を見た途端に態度を変えた。
偶然かもしれない。
家門に伝わる秘密に関係しているのかもしれない。
あるいは、ヴィオレッタがまだ知らない、別の事情があるのかもしれない。
彼女は手帳を開き、確認できた事実だけを書き留めた。
そのとき、広間の奥から、侯爵家の執事が近づいてきた。
「ヴィオレッタ様。侯爵がお待ちです。こちらへどうぞ」
ヴィオレッタはペンを置いた。
いよいよ、公開資料には含まれていない話を聞けるのかもしれない。
しかし、彼女は期待だけで動くつもりはなかった。
侯爵が何を語るのか。
何を語らないのか。
そして、あの紙片がなぜ公開資料の外にあったのか。
それを確かめるのは、これからだった。




