招待客の知らない紋章
翌朝、ヴィオレッタ・ヴァレンシュタインは、机の上に並べた二枚の紙を見比べていた。
一枚は、エーベルハルト侯爵家から届いた招待状の写し。
もう一枚は、差出人不明の包みに入っていた古い紙片だった。
招待状の封蝋には、樹木と三つの星を組み合わせた紋章が刻まれている。一方、紙片に描かれた図形は、樹木の枝が不自然に折れ曲がり、星の一つが根元に置かれていた。
昨日、エミリアが見つけた古い建築史の図版にも、よく似た意匠があった。
三つの紋章は似ている。
しかし、完全には一致しない。
「三つとも同じ家門の紋章が変化したものなのか。それとも、別々の家が似た意匠を使っていたのか……」
ヴィオレッタは独り言を呟き、手帳を開いた。
断定するには情報が足りない。
そう書き留めようとしたところで、彼女はペンを止めた。
紙片に記されていた文章が、再び頭に浮かんだのだ。
『記録に残された名を追う者へ。家門の歴史を信じる前に、その歴史がいつ書かれたのかを確かめよ』
まるで、彼女が今取り組んでいる調査を知っているかのような言葉だった。
だが、送り主が彼女の調査内容を知っていたとしても、それだけで王立記録院の内部事情に詳しい人物だとは限らない。
閲覧記録を確認すれば、彼女がどの資料を調べていたのかを知る機会はある。
問題は、誰が、何のために紙片を送ったのかということだった。
ヴィオレッタは紙片を封筒に戻した。
「まずは、エーベルハルト家の歴史を調べることね」
招待状に記された閲覧会は、明後日に開催される予定だった。
それまでに確認できる情報を集めておきたい。
彼女は侍女を呼び、王立記録院へ向かう準備を整えた。
王立記録院に到着すると、受付の職員に古い建築史の図版について問い合わせた。
昨日、エミリアが持っていた研究書の題名と、該当するページ番号を伝える。
すると、職員は目録を確認しながら、少し意外そうな顔をした。
「その図版の出典については、以前にも照会があったようです」
「以前にも?」
「はい。ただし、原本そのものの所在を尋ねる照会ではありません。図版の作成年代と、掲載された紋章の由来についての問い合わせです」
ヴィオレッタは背筋を伸ばした。
「その照会記録を確認することはできますか?」
「照会者の個人情報に関わる部分を除けば、閲覧できる可能性はあります。関連する記録を確認いたしますので、少々お待ちください」
職員が奥へ下がると、ヴィオレッタは手帳を開いた。
図版の出典について、すでに誰かが調査していた。
それ自体は不思議ではない。
しかし、紋章の由来と作成年代を同時に問い合わせていたのなら、今回の調査と重なる部分がある。
しばらくして、職員が一枚の記録票を持って戻ってきた。
記録票には、照会が行われた年代と、問い合わせの内容が簡潔に記されている。
照会者の名前は伏せられていたが、所属欄には「王立記録院外部研究協力者」とあった。
そして、問い合わせの結果については、次のように記されていた。
『図版の原資料を確認できず。掲載時の説明文についても、原記録との照合は未完了』
ヴィオレッタは、記録票をじっと見つめた。
「この照会は、いつ行われたものですか?」
職員が日付を示した。
それは数年前だった。
現在の調査よりも前であり、彼女が王立記録院で本格的に資料を調べ始めるよりもずっと前のことだった。
「この後、追加の照会は行われていますか?」
「確認できる範囲では、同じ番号での追加照会は記録されていません。ただ、別の番号で処理された可能性までは否定できません」
「分かりました。ありがとうございます」
ヴィオレッタは記録票の内容を手帳に写した。
原資料の所在が分からない。
図版の説明文も、原記録と照合されていない。
そして、その問題は数年前から認識されていた。
紙片の送り主が、この照会を知っていたかどうかは分からない。
けれど、少なくとも、古い紋章の由来には、以前から未解決の問題があったらしい。
閲覧室へ向かう途中、ヴィオレッタは窓辺で足を止めた。
外の中庭では、数人の学生が談笑している。
そのうちの一人が、手に持った書類を落とした。
紙が風にあおられ、庭の反対側まで飛んでいく。
学生は慌てて追いかけたが、書類は噴水の縁に引っかかり、あと少しで水に落ちそうになった。
ヴィオレッタは思わず窓から身を乗り出した。
「そちら、もう少し右よ!」
学生は指示された方向へ走り、どうにか書類を拾い上げた。
安堵した顔で礼を述べる学生を見て、ヴィオレッタは小さく息をついた。
「……記録も、あれくらい簡単に拾えればいいのに」
「何を拾うんですか?」
背後から聞き慣れた声がした。
振り返ると、エミリアが立っていた。
「古い資料の行方よ」
「落ちているんですか?」
「そうだったら、どれほど楽かしらね」
エミリアは少し考えた後、真剣な顔で答えた。
「でも、落ちているものなら、誰かが拾って保管しているかもしれません」
ヴィオレッタは、彼女を見つめた。
「……そうね。誰かが拾った可能性もあるわ」
「え?」
「いいえ。今の話は忘れてちょうだい。忘れてほしくないことが増えすぎているのだから」
エミリアは首を傾げたが、深く追及はしなかった。
二人は閲覧室へ入り、昨日確認した建築史の研究書を改めて調べることにした。
図版の説明文には、紋章が「王国成立以前の都市連合に関係する意匠」と記されていた。
しかし、その根拠となる資料名は明記されていない。
さらに、研究書の巻末にある参考資料一覧にも、該当する原記録の名称は見当たらなかった。
「この説明が、どの資料に基づいているのか分からないのね」
エミリアが言った。
「ええ。だから、紋章がどの家門に属していたのかも、まだ確定できない」
ヴィオレッタは、紙片に描かれた図形を思い出した。
送り主は、家門の歴史を信じる前に、その歴史がいつ書かれたのかを確かめるよう促していた。
その言葉は、単に古い紋章の由来を疑えという意味なのだろうか。
それとも、現在のエーベルハルト侯爵家が公表している系譜そのものに、何か問題があるというのだろうか。
「ヴィオレッタ様」
エミリアが、研究書の別のページを指した。
「こちらの説明には、図版が最初に掲載された年代が書かれています」
ヴィオレッタは、すぐにその箇所を確認した。
図版が掲載されたのは、現在の王朝が成立してから数百年後のことだった。
つまり、図版そのものが古代文明の時代に作られたとは限らない。
古い意匠を後世の研究者が写し取った可能性もあれば、別の資料をもとに描き直した可能性もある。
「まずは、この研究書の初版と、その後の改訂版を比較しましょう」
ヴィオレッタが言うと、エミリアは頷いた。
「説明が変わっているかもしれないんですね」
「そう。もし説明が変わっているなら、いつ、何を根拠に変更されたのかを確認する必要があるわ」
二人は書誌目録を調べ、初版と改訂版の所在を確認した。
初版は王立記録院に所蔵されていたが、改訂版は別の閲覧区画に保管されていた。
そのため、両方を同時に比較することはできなかった。
ヴィオレッタは申請書を書きながら、思わず溜息をついた。
「本を二冊並べるだけなのに、どうしてこんなに手続きが必要なのかしら」
エミリアは、申し訳なさそうに微笑んだ。
「でも、手続きをすれば、ちゃんと読めるんですよね?」
「ええ。手続きをしても読めない場合よりは、ずっとましね」
申請を終えた二人が閲覧室を出ようとしたとき、入口の職員がヴィオレッタを呼び止めた。
「ヴァレンシュタイン様。先ほどの照会記録について、補足が見つかりました」
ヴィオレッタは足を止めた。
職員が差し出したのは、先ほどの記録票に添付されていた別紙だった。
そこには、数年前の照会を処理した担当者の短い注記が残されていた。
『照会者より、回答の写しを別途保管する旨の申し出あり』
ヴィオレッタは、ゆっくりと顔を上げた。
「回答の写しを、別に保管した?」
「はい。ただし、その保管先は、この記録票には記載されていません」
エミリアが不安そうに彼女を見た。
「それって、どういうことでしょう?」
「まだ分からないわ。ただ、原資料が見つからなかったという回答を、誰かが別の場所に保管した可能性がある」
ヴィオレッタは、別紙の文面を手帳に写した。
その記録は、紙片の送り主が誰なのかを明らかにするものではなかった。
しかし、古い紋章の由来を調べていた人物が、数年前に存在していたことは確かだった。
そして、その人物は、原資料が確認できなかったという回答を、別の場所に残そうとしていた。
ヴィオレッタは、窓の外に目を向けた。
明後日の閲覧会まで、あと一日。
エーベルハルト侯爵家が保管している古文書の中に、失われた原資料や、その写しが含まれている可能性はある。
だが、それを確かめるまでは、何も断定できない。
彼女は招待状を封筒から取り出し、もう一度、末尾の一文を読んだ。
『古い記録の解釈について、ぜひ一度ご意見を伺いたく存じます』
ヴィオレッタは、静かに招待状を閉じた。
「……ええ。私も、ぜひ伺いたいことができたわ」
その声には、昨日までとは違う決意がこもっていた。
今度の調査では、記録の空白を追うだけでは足りない。
誰がその記録を調べ、何を知ろうとし、なぜ回答の写しを別に保管しようとしたのか。
その人物の足跡も、追いかける必要があった。




