創始の家門から届いた招待状
王立記録院での調査から三日後。
ヴィオレッタ・ヴァレンシュタインのもとに、一通の招待状が届いた。
封筒は深い緑色で、封蝋には古い樹木と三つの星を組み合わせた紋章が刻まれている。差出人の名前を見た瞬間、ヴィオレッタは手にしていたペンを止めた。
「……エーベルハルト侯爵家?」
王国の建国期から続く、由緒ある貴族の一つだった。
王立記録院で調べていた古い資料にも、その家名は何度か登場している。ただし、現在の侯爵家と千年以上前の記録にある家系が、どこまで直接つながっているのかは確認できていなかった。
ヴィオレッタは封筒を裏返した。
封蝋に割れはなく、差出人の署名も正式なものだった。
「お嬢様、そちらは何のお手紙ですか?」
侍女が尋ねた。
「招待状よ。建国以来の歴史を誇る侯爵家からね」
「まあ! それは素晴らしいことではありませんか」
「ええ。招待状を送る理由が、素晴らしいものであればいいのだけれど」
ヴィオレッタは封を切り、丁寧に文面を読み進めた。
エーベルハルト侯爵家では、近日中に一族が保管してきた古文書の一部を公開する、小規模な閲覧会を開催するらしい。
名目は、王国の歴史研究に対する貴族社会からの協力。
招待客には王立記録院の関係者や、歴史研究に携わる貴族の子弟も含まれていた。
そして、ヴィオレッタの名が招待者の一覧に記されている。
「……私を、わざわざ?」
彼女は眉を寄せた。
エーベルハルト侯爵家とヴァレンシュタイン公爵家の関係は悪くない。しかし、最近のヴィオレッタは公の場で目立つような活動をしていなかった。
王立記録院での調査も、正式な手続きを踏んでいるとはいえ、個人的な研究の範囲にすぎない。
なぜ今になって招待されたのか。
それが気になった。
招待状の末尾には、手書きの一文が添えられていた。
『古い記録の解釈について、ぜひ一度ご意見を伺いたく存じます』
ヴィオレッタは、その文章を二度読み返した。
「……偶然とは考えにくいわね」
その日の午後、彼女は王立学園でノア・ヴァルケインに招待状の写しを見せた。
ノアは文面を読み、しばらく考え込んだ。
「エーベルハルト家か。確かに、古い記録を多く保管している家だ」
「あなたは、この家について何か知っている?」
「公的な歴史なら。建国期に複数の都市との交渉を仲介し、王国成立後も記録管理に関わっていたとされている。ただし、初期の系譜には不明な部分が多い」
「王立記録院で調べている資料にも、名前があったわ」
「それなら、今回の招待は調査と関係している可能性があるな」
「あるいは、私が調査していることを誰かが知っているか」
ヴィオレッタの言葉に、ノアは視線を上げた。
「閲覧記録は残る。正式な手続きで資料を調べている以上、関係者が君の名前を知ること自体は不自然ではない」
「ええ。でも、知っていることと、招待する理由があることは別でしょう?」
ノアは招待状を返した。
「参加するなら、先に確認しておいたほうがいいことがある」
「何かしら?」
「公開される古文書の一覧だ。閲覧会というからには、少なくとも公開対象が決まっているはずだろう」
ヴィオレッタは頷いた。
「招待状には、その一覧について何も書かれていなかったわ」
「なら、問い合わせてみるといい。どの資料を公開する予定なのか、事前に確認するだけなら不自然ではない」
「あなたも一緒に来てくれる?」
ノアは一瞬だけ黙った。
「僕も招待されているなら、喜んで」
「残念だけれど、あなたの名前はないわ」
「それは残念だ」
声には、残念そうな響きがまるでなかった。
ヴィオレッタは目を細めた。
「……本当に残念だと思っている?」
「招待されていない場所へ勝手についていくわけにはいかないからな」
「つまり、招待されていたら行くつもりだったのね」
「古文書が公開されるなら、研究者として興味はある」
「正直で結構だわ」
ヴィオレッタは招待状を封筒へ戻した。
そのとき、背後から明るい声がした。
「ヴィオレッタ様!」
振り返ると、エミリア・ローゼンが小走りで近づいてきた。両手には何冊かの本を抱えている。
彼女はヴィオレッタの隣で足を止めたが、抱えていた本の一冊が傾き、慌てて押さえ直した。
「ご、ごめんなさい。今、何か大切なお話を?」
「少しね。エーベルハルト侯爵家から招待状が届いたの」
「エーベルハルト家……。あの、古い建物や記録をたくさん保管しているお屋敷の?」
「詳しいのね」
「いえ、詳しいというほどではないのですが……。以前、建国期の建築様式について調べたときに、名前を見かけたことがあって」
エミリアは少し考え込み、抱えていた本を一冊取り出した。
「そういえば、この本にも載っていた気がします」
彼女が差し出したのは、王国の古い建築と都市の成立についてまとめた研究書だった。
ヴィオレッタは該当するページを開いた。
そこには、エーベルハルト家の紋章とよく似た意匠が描かれていた。
ただし、完全に同じではない。
現在の紋章では三つの星が樹木の上に配置されているのに対し、古い図版では星の一つが樹木の根元に描かれていた。
「……位置が違うわね」
ヴィオレッタが呟くと、エミリアもページをのぞき込んだ。
「あ、本当です。私、同じ紋章だと思っていました」
「同じ家の紋章が変化した可能性もあるし、似た意匠を別の家が使っていた可能性もある。これだけでは判断できないわ」
「でも、どうして位置が違うのでしょう?」
「それを調べるのが、歴史研究というものよ」
ヴィオレッタは本の題名とページを手帳に記録した。
その瞬間だった。
図版に描かれた紋章を見つめていたエミリアの表情が、ふいに変わった。
緑色の瞳が大きく開かれ、指先がページの端をつかむ。
「……この模様」
「エミリア?」
彼女は返事をしなかった。
ほんの一瞬、何かを思い出しかけたように見えた。
「この星の配置……どこかで……」
声は小さく、最後まで続かなかった。
ヴィオレッタは、彼女の手から本を取り上げることも、急かすこともしなかった。
「無理に思い出そうとしなくていいわ。何か気づいたら、そのときに教えて」
エミリアは数回瞬きをし、やがてゆっくりと息を吐いた。
「はい……。でも、変ですね。初めて見るはずなのに、前にも見たような気がするんです」
ヴィオレッタは、その言葉を手帳に書き留めた。
彼女自身の記憶も、いつもそうだった。
確かに見たはずなのに、いつのことなのか分からない。
知っているはずなのに、なぜ知っているのか説明できない。
だからこそ、今のエミリアの反応を、単なる偶然だと決めつけることもできなかった。
同時に、それが過去の記憶に関係していると断定することもできない。
「この図版の出典も確認しましょう。原本がどこにあるのか、いつ描かれたものなのかが分かれば、少しは手がかりになるかもしれないわ」
「私もお手伝いします」
エミリアは、今度こそ本を落とさないよう、両腕でしっかり抱え直した。
ノアは二人を交互に見た。
「エーベルハルト家の閲覧会に、紋章の図版。偶然にしては、調べることが増えたな」
「あなたが来られないのが、ますます残念になってきたわね」
「僕もそう思う」
「今のは本当に残念そうだったわ」
「古文書が絡んでいるからな」
ヴィオレッタは小さく笑った。
しかし、その笑みは長く続かなかった。
その日の夕方、ヴァレンシュタイン公爵家に一人の使者が訪れた。
使者は公爵家の紋章を確認した後、ヴィオレッタ宛ての小さな包みを差し出した。
包みには差出人の名がない。
中に入っていたのは、一枚の古い紙片だった。
紙は黄ばんでいるが、文字はかろうじて読める。
そこには、エーベルハルト家の紋章に似た図形と、短い文章が記されていた。
『記録に残された名を追う者へ。家門の歴史を信じる前に、その歴史がいつ書かれたのかを確かめよ』
ヴィオレッタは、紙片を持つ手に力を込めた。
その言葉は、以前から彼女が手帳に記してきた注意と、どこか似ていた。
記録を読む前に、書いた者が何を残そうとしたのかを考えること。
そして、目録から失われたものを、失われたと決めつけないこと。
誰かが、自分と同じような考え方をしている。
それだけなら、偶然かもしれない。
だが、なぜ今、この紙片が届いたのか。
なぜエーベルハルト家の招待状と、ほとんど同じ時期なのか。
ヴィオレッタは窓の外を見た。
夕暮れの庭には、いつもと変わらない静けさが広がっている。
それでも、彼女は感じていた。
王立記録院で追いかけてきた古い記録の問題が、単なる事務上の不備だけでは終わらない可能性があることを。
彼女は紙片を封筒に戻し、手帳を開いた。
まずは、確認できる事実を記録する。
差出人不明。
古い紙片。
エーベルハルト家に似た紋章。
そして、家門の歴史を疑うよう促す文章。
それ以上のことは、まだ何も分からない。
ヴィオレッタはペンを置き、静かに呟いた。
「……さて。今度は、誰が私の調査を見ているのかしら」
その問いに答える者は、まだいなかった。




