ノア・ヴァルケインの依頼
午後の授業が終わる頃には、私は一つの決断を下していた。
王太子アルベルトが話していた、公式記録に存在しない人物。
そして、自分の手帳に残されていた、覚えのない警告。
偶然だと片づけるには、気になることが多すぎる。
まずは、古い記録について調べる必要がある。
そう考えながら教科書を片づけていると、教室の入口から声がした。
「ヴァレンシュタイン嬢。少し時間をもらえるだろうか」
顔を上げると、一人の青年が立っていた。
灰色がかった濃い茶髪は、きちんと整えようとした形跡こそあるものの、前髪が少しだけ額にかかっている。銀色を帯びた灰色の瞳は落ち着いていて、相手の様子を静かに観察しているようだった。
背は高く、細身ながらも無駄のない体つきをしている。黒を基調とした学園の制服には銀色のボタンが並び、余計な装飾はほとんどない。
華やかな貴族の令息たちとは、どこか違う雰囲気を持つ青年だった。
ノア・ヴァルケイン。
家名こそ古いものの、近年は勢いを失いつつある貴族の出身で、歴史資料に関する知識が豊富だと聞いたことがある。
もっとも、私が知っているのは、その程度だった。
「私に何かご用でしょうか?」
「できれば、人の少ない場所で話したい」
「ずいぶん意味深なお誘いですわね」
「そう聞こえたなら謝る。君に誤解されるのは本意ではないから」
ノアは表情を変えずに答えた。
冗談が通じないのか、それとも通じたうえで無視しているのか。
判断に困るところだ。
私は小さく息をついた。
「わかりました。少しでしたら、お話を伺います」
私たちは教室を出て、図書館へ続く回廊に向かった。
そこは授業が終わったばかりの校舎とは違い、比較的静かだった。高い窓から午後の日差しが差し込み、白い壁に長方形の光を落としている。
中庭からは生徒たちの笑い声が聞こえたが、回廊の奥まで来ると、それも遠くなった。
ノアは周囲を確認してから、制服の内ポケットから一枚の紙を取り出した。
「これを見てほしい」
差し出されたのは、古い文書の写しだった。
紙は黄ばんでいるが、文字は比較的鮮明に残っている。上部には日付らしき数字が記され、その下には王国の行政記録で使われる形式に似た文章が並んでいた。
私は受け取り、目を通した。
「これは、何の記録ですか?」
「王立記録院に保管されている古い文書の一部だ。少なくとも、目録上ではそうなっている」
「目録上では?」
「その文書の原本は、数十年前に破棄されたことになっている。ところが、別の資料には、原本が保管庫へ移されたと記されているんだ」
私は紙を見直した。
「移された記録と、破棄された記録があるということですか?」
「そういうことだ」
「単なる記載ミスでは?」
「最初は私もそう考えた」
ノアは淡々と答えた。
「だが、同じ文書について記された記録を調べると、別の矛盾も見つかった。保管場所が一致しないものがある。日付が前後しているものもある。それに、ある人物の名前が、一方の記録にだけ残されている」
私は顔を上げた。
「人物の名前?」
「そうだ。もう一方の資料では、その人物が最初から存在しなかったかのように扱われている」
その言葉に、胸の奥がかすかにざわめいた。
アルベルトが話していた文書と関係があるのだろうか。
だが、今の段階で結びつけるのは早い。
「その人物について、何かわかっているのですか?」
「まだ何も。名前以外の情報も、記録によって食い違っている」
「それなら、本人が実在したかどうかもわからないのでは?」
「その通りだ」
ノアはあっさり認めた。
「だから調べている。最初から何かの陰謀だと決めつけているわけではない」
その言い方に、私は少しだけ興味を持った。
彼は、不可解なことを見つけたからといって、すぐに大きな結論へ飛びつく人物ではないらしい。
少なくとも、今のところは。
私は紙を返そうとしたが、その前に、もう一度日付を確認した。
見覚えがある。
いや、日付そのものというより、その数字を見たときに浮かんだ感覚に覚えがあった。
以前の人生のどこかで、似た数字を目にしたことがあるような気がする。
けれど、それがいつだったのか、何に関係していたのかは思い出せなかった。
「ヴァレンシュタイン嬢?」
ノアの声で我に返る。
「失礼しました。少し気になる点があったものですから」
「何か気づいたことが?」
私は一瞬だけ迷った。
自分の曖昧な記憶を、初対面に近い相手へ話すべきだろうか。
答えは否だった。
「まだ確かなことは何もありません。ただ、文書の形式が気になりました。こちらの写しは、いつ作られたものですか?」
「正確な年代はわからない。ただ、紙とインクの特徴から、少なくとも原本より後の時代に作られた可能性が高いと考えている」
「では、写しを作った人が、すでに間違った情報を記録していた可能性もありますわね」
「その可能性もある」
ノアはうなずいた。
「だからこそ、原本を探したいんだ」
「それで、私に声をかけた理由は?」
彼は少しだけ沈黙した。
「君は、細かな違いを見落とさないと聞いている。それに、ヴァレンシュタイン家なら、王立記録院の資料を閲覧するための手続きについても詳しいのではないかと思った」
「私の評判は、ずいぶん都合よく伝わっているようですわね」
「間違った評価だっただろうか?」
「いいえ。少なくとも、観察力については否定しません」
「それなら助かる」
あまりにも平然と言われたので、私は思わず彼の顔を見た。
少しくらい遠慮するものではないだろうか。
もっとも、ここで気を遣われても困るのだが。
「ただし、誤解しないでほしい」
ノアは続けた。
「君に家の権力を使って無理に資料を開示してほしいわけではない。正式な手続きで閲覧できる範囲から始めたいんだ」
「それは当然ですわ。勝手に資料を持ち出すような真似をすれば、調査どころではなくなりますもの」
「話が早くて助かる」
私は紙を彼に返した。
「一つ、確認させてください。あなたは、なぜそこまでこの文書にこだわるのですか?」
ノアの指が、紙の端で止まった。
ほんのわずかな変化だった。
けれど、彼が即座に答えなかったことは確かだった。
「個人的な理由がある」
「それを聞いても?」
「今は、まだ話せない」
私は彼を見つめた。
ノアは視線をそらさなかった。
嘘をついているのかどうかは、わからない。
ただ、彼が何かを隠していることだけは確かだった。
「そうですか。それなら、私もすべてをお話しする必要はありませんわね」
「もちろんだ」
ノアは、わずかに口元を緩めた。
「君が私を信用していないことは理解している」
「初対面の相手を簡単に信用するほど、私は無防備ではありませんので」
「それは賢明だと思う」
「あなたも、私を信用していないのでしょう?」
「その通りだ」
即答だった。
私は思わず瞬きをした。
「……もう少し、取り繕う努力をなさってはいかが?」
「必要があるのか?」
「社交というものは、そういうものですわ」
「なるほど。勉強になった」
声の調子は真面目だった。
本当に勉強になったと思っているのか、それとも私をからかっているのか。
やはり判断できない。
私は小さくため息をついた。
「わかりました。資料の目録を調べる程度なら、お手伝いできるかもしれません。ただし、原本が見つかる保証はありませんし、閲覧が許可されるとも限りません」
「それで十分だ」
「それから、調査の結果、単なる記載ミスだったとしても、私を責めないでくださいね」
「その場合は、私の調査不足ということになるだろう」
思いのほか、誠実な答えだった。
私は少しだけ警戒を緩めた。
彼の目的はまだわからない。
けれど、少なくとも、私を利用することだけが目的だとは断定できなくなった。
「では、必要な資料の目録をまとめておいてください。私も、閲覧できる範囲を確認してみます」
「ありがとう、ヴァレンシュタイン嬢」
ノアは礼を述べ、紙を内ポケットへ戻した。
そして、立ち去る直前に振り返った。
「一つだけ、忠告しておく」
「何でしょう?」
「古い記録を調べるときは、書かれている内容だけでなく、書かれていない部分にも注意した方がいい」
私は彼の言葉を反芻した。
「……どういう意味ですか?」
「記録は、何かを残すために作られる。だが、何を残すかを決めるのも人間だ。書かれていないからといって、存在しなかったとは限らない」
それだけ言うと、ノアは回廊の向こうへ歩いていった。
私は、しばらくその場に立ち尽くしていた。
書かれていないもの。
存在しないことにされた人物。
互いに矛盾する記録。
そして、私自身の記憶に残る、いくつもの異なる人生。
偶然にしては、気になることが多すぎる。
私は窓の外を見た。
午後の日差しは傾き始め、中庭の噴水が金色に輝いていた。生徒たちの声が遠くから聞こえてくる。
平穏な学園の一日。
その裏側で、誰も気づいていない何かが進行しているのだろうか。
まだ、何もわからない。
けれど、調べるべき対象は見つかった。
王立記録院。
まずは、そこから始めよう。
私は鞄を持ち直し、図書館へ向かって歩き出した。
そのとき、ふと気づいた。
ノアが見せてくれた文書の日付を、私はもう一度確認しておくべきだった。
あの数字を見た瞬間に感じた、説明できない懐かしさ。
もしかすると、それは単なる思い違いではないのかもしれない。
私は歩みを速めた。
記憶を信じすぎてはいけない。
けれど、記憶を最初から疑って捨ててしまうのも、きっと正しくない。
必要なのは、確かめることだ。
自分の目で。
自分の手で。
今度こそ、何が本当なのかを。




