王太子との変わらない距離
午前の授業が終わると、私は教科書を閉じた。
窓の外では、初夏の風が中庭の木々を揺らしている。白い石畳の小道を生徒たちが行き交い、噴水の水音が開け放たれた窓からかすかに聞こえてきた。
いつもなら心地よい休み時間の始まりだ。
けれど、今日の私には考えなければならないことが多すぎた。
エミリア・ローゼン。
古い装飾品が放った光。
そして、私自身の記憶に残る、あの奇妙な感覚。
私はノートを開き、今朝書いた記録を読み返した。
『古い装飾品への接近時、未知の反応が発生。原因は不明』
改めて読んでも、得られる情報は少ない。
もう少し詳しく観察する必要があるだろう。ただし、エミリアを無理に問い詰めるつもりはなかった。
彼女自身も、何が起きたのかわかっていないようだったからだ。
「ヴィオレッタ様」
隣の席の令嬢が声をかけてきた。
「本日の昼食は、いつもの食堂でよろしいですか?」
「ええ。そうするつもりよ」
私はノートを閉じた。
今は、目の前の生活を普段どおりに続けることも大切だ。
記憶に振り回されて、すべての行動を変えてしまえば、何が本当に変化したのかさえわからなくなる。
そう考えていたときだった。
教室の入口が、にわかに騒がしくなった。
「アルベルト殿下がお見えになったそうですわ」
「王太子殿下が?」
令嬢たちの声に、私は顔を上げた。
廊下から数人の護衛を伴った青年が姿を現す。
黒曜石のような黒髪は短く整えられ、青いサファイアを思わせる瞳には、落ち着いた知性が宿っていた。背は高く、鍛えられた体つきと隙のない姿勢が、日頃から剣術の訓練を積んでいることをうかがわせる。
白と濃紺を基調とした王族の制服には、金色の刺繍が施されていた。胸元には王家の紋章が輝き、肩に掛けられた短い儀礼用のマントが歩みに合わせて揺れている。
アルベルト・アーデルハイト。
アーデルハイト王国の王太子であり、私の婚約者だ。
彼は教室を見渡し、私を見つけると、静かに近づいてきた。
「ヴィオレッタ。少し時間をもらえるだろうか」
「もちろんです、殿下」
私は席から立ち、優雅に礼をした。
アルベルトは軽くうなずくと、教室の外へ視線を向けた。
「ここでは話しにくい。廊下を歩きながらで構わないか?」
「承知いたしました」
私たちは教室を出た。
背後から、同級生たちのひそひそ声が聞こえてくる。
王太子が婚約者を訪ねてきたのだから、噂の種としては十分だろう。
できれば、余計な憶測を呼びたくないのだけれど。
――いえ、今さら気にしても仕方がないわね。
王太子の婚約者という立場そのものが、歩いているだけで噂を生み出すのだから。
廊下の窓からは、中庭の景色がよく見えた。
花壇には白や青の花が植えられ、噴水の周囲では何人かの生徒が昼食をとっている。遠くの回廊からは、運動場で剣術の練習をする生徒たちの掛け声も聞こえた。
アルベルトはしばらく黙って歩いていたが、やがて口を開いた。
「今朝、父上から聞いたのだが、新しい奨学生が入学したそうだね」
私は横目で彼を見た。
「エミリア・ローゼンさんのことですか?」
「そうだ。魔法の適性が高いと聞いている」
「私も少し話をしました。真面目で、好奇心の強い方のようです」
「そうか」
短い返事だった。
アルベルトはそれ以上、エミリアについて尋ねなかった。
けれど、その沈黙が気になった。
王太子として、優秀な魔法使いの存在に関心を持つのは不思議ではない。
それなのに、彼は何かを確かめるように、私の表情を観察しているように見えた。
「殿下。何か気になることでもおありですか?」
「いや。君が彼女と話したと聞いて、少し気になっただけだ」
「それは、どういう意味でしょう?」
アルベルトは一瞬だけ言葉を止めた。
「君は、初対面の相手に簡単に心を許す人ではないだろう?」
私は思わず眉を上げた。
「私が誰かと会話をしただけで、そのように考えられるのですか?」
「責めているわけではない。君は慎重な人だからね」
「慎重という評価は、ありがたく受け取っておきますわ」
「皮肉かい?」
「まさか」
私は微笑んだ。
アルベルトは小さく息をついた。
どうやら、私の言葉が額面どおりに受け取れないことくらいは理解しているらしい。
それだけ長い付き合いがある、ということだろう。
けれど、私の記憶には、彼との関係がまったく異なる結末を迎えた場面がいくつも残っている。
婚約を解消された人生。
公の場で冷たく距離を置かれた人生。
そして、理由を聞くことさえ許されなかった人生。
ただし、それらの出来事が同じ人生で起きたのかどうかも、今の私にはわからない。
彼が私を嫌っていた理由も、記憶によって異なっていた。
だからこそ、目の前のアルベルトを過去の記憶だけで判断するわけにはいかなかった。
「ヴィオレッタ」
「はい」
「最近、王立記録院の古い資料について何か調べているかい?」
私は足を止めそうになった。
けれど、なんとか平静を保った。
「どうして、そのようなことを?」
「君の家から、古い王家の記録について問い合わせがあったと聞いたんだ。少し気になってね」
父が問い合わせたのだろうか。
いや、私自身は何もしていない。
少なくとも、この人生では。
「私自身は、まだ何も調べておりません」
「そうか」
アルベルトはうなずいた。
その横顔からは、何を考えているのか読み取れない。
私は少し迷ったあと、質問した。
「殿下は、古い記録にご関心がおありなのですか?」
「王族として、王国の歴史を知っておく必要はあるからね」
「それだけでしょうか?」
アルベルトの歩みが、ほんの一瞬だけ止まった。
彼は私を見た。
サファイア色の瞳が、いつもより鋭く感じられる。
「どういう意味だい?」
「特別な意味はありません。ただ、殿下が古い資料について尋ねられたのが意外だっただけです」
私は表情を変えずに答えた。
アルベルトは数秒ほど私を見つめていたが、やがて視線を前へ戻した。
「古い記録の中には、現在の公式な歴史と一致しないものもある。そういう資料を調べることは、王族にとっても重要なんだ」
「公式な歴史と一致しない記録……」
「もちろん、単なる誤記や写し間違いもある。すべてを疑えばよいというものではないよ」
その言葉は、妙に印象に残った。
誤記。
写し間違い。
記録の食い違い。
今の私が直面している問題にも、当てはまる言葉だった。
「一つ、興味深い文書があってね」
アルベルトは続けた。
「王家の保管庫に、ある人物について記された古い文書が残っている。ところが、その人物の名前は、ほかの公式記録では見つからないんだ」
私は彼の顔を見つめた。
「存在していた人物なのに、記録がないということですか?」
「そうとも限らない。文書自体が誤っている可能性もある。だが、複数の資料に同じ記述があるのに、公式の系譜や歴史書には一切登場しない。少し不自然だろう?」
「確かに」
「まだ調査中だから、詳しいことは話せないけれどね」
そこで、アルベルトは話を切り上げた。
意図的に、それ以上を語らなかったように見えた。
私は無理に問い詰めなかった。
彼が何かを隠している可能性はある。
しかし、それが私に関係することなのか、王家の政治に関わることなのか、それとも単なる歴史研究なのか、判断できる材料はない。
今ここで疑いを強めても、何も得られないだろう。
「お話しいただき、ありがとうございます、殿下」
「いや。君なら興味を持つかもしれないと思っただけだ」
「どうしてでしょう?」
「君は昔から、納得できないことをそのままにしておけない性格だからね」
私は、ほんの少しだけ目を細めた。
「それは褒め言葉として受け取ってよろしいのでしょうか?」
「もちろん」
「では、ありがたく受け取っておきますわ」
今度は、アルベルトもわずかに笑った。
その表情は、王太子として人前で見せる完璧な微笑みよりも、ずっと自然だった。
私はその顔を見て、胸の奥がかすかに痛むのを感じた。
別の人生では、この人が私に笑いかけることはなかった。
そう記憶している。
けれど、その記憶が正しいという保証はどこにもない。
過去のアルベルトと、今のアルベルト。
どちらか一方だけが本当の姿だと、どうして言い切れるだろう。
「ヴィオレッタ」
「はい?」
「もし古い資料について気になることがあれば、私に尋ねてくれて構わない。すべてに答えられるとは限らないが、力になれることはあると思う」
予想外の言葉だった。
私は彼の顔を見つめた。
「……ありがとうございます」
それだけ答えるのが精いっぱいだった。
アルベルトは軽くうなずき、廊下の向こうへ目を向けた。
「そろそろ戻ろう。次の授業に遅れてしまう」
「そうですわね」
私たちは教室へ向かって歩き始めた。
その途中、窓の外にある中庭が目に入った。
噴水の近くで、エミリアが一人の生徒と話している。
彼女は身振りを交えながら何かを説明していたが、相手の生徒が首を傾げると、困ったように笑っていた。
その姿を見て、私は今朝の出来事を思い出した。
古い装飾品が放った光。
エミリアの夢。
そして、彼女が初めて校舎を見たときに浮かべた、あの懐かしそうな表情。
もしかすると、彼女自身も知らない何かが、彼女の過去に関係しているのかもしれない。
だが、今はまだ判断できない。
私は視線を戻した。
そのとき、アルベルトが不意に口を開いた。
「そういえば、ヴィオレッタ。今日の君は、いつもより考え込んでいるように見えるね」
心臓が一瞬、強く脈打った。
「そうでしょうか?」
「何か悩みでもあるのかい?」
私は微笑んだ。
「少し、考え事をしているだけですわ」
「そうか。無理はしないように」
アルベルトは、それ以上尋ねなかった。
私は内心で安堵した。
どうやら、今のところ不審に思われてはいないらしい。
もっとも、自分の記憶が何度も繰り返された人生の断片だなどと説明したところで、信じてもらえるとは思えない。
説明できないことを、無理に話す必要はないだろう。
教室に戻る直前、アルベルトは足を止めた。
「ヴィオレッタ」
「はい、殿下」
「君との婚約について、私は軽く考えているつもりはない。だからこそ、互いに疑問があれば、できるだけ話し合える関係でいたいと思っている」
私は彼を見つめた。
その言葉には、少なくとも表面上、偽りを感じなかった。
けれど、過去の記憶が私にささやく。
この人は、いずれ私との婚約を解消する。
そうなる理由も、時期も、記憶によって異なるのに。
私はその声を振り払った。
今はまだ、何も起きていない。
「私も、そう思いますわ」
そう答えると、アルベルトは満足したようにうなずいた。
彼が去ったあと、私は教室の入口で立ち止まった。
王家の保管庫にある、存在が確認できない人物の文書。
公式記録に残されていない名前。
そして、私自身の手帳に記された、覚えのない警告。
それらがどこかでつながっているのかは、わからない。
ただ、一つだけ気づいたことがあった。
私が記憶している過去には、王太子との婚約や、その破棄に関する出来事ばかりが残っている。
けれど、その背景にあったはずの歴史や、人々の事情については、ほとんど覚えていないのだ。
もしかすると、私は結果だけを記憶し、その原因を知らずにいたのかもしれない。
あるいは、原因を知っていたのに、忘れてしまったのか。
どちらにしても、答えを見つけるには、記憶だけに頼るわけにはいかない。
私は教室の扉を開けた。
まずは、記録を調べよう。
そして、自分の目で確かめよう。
たとえ、その先にある真実が、これまで信じてきた人生のすべてを覆すものだったとしても。




