エミリア・ローゼンという少女
エミリア・ローゼンを教室まで案内したあとも、私は彼女のことが気になっていた。
蜂蜜色の髪に、エメラルドのような緑の瞳。貴族の令嬢たちに囲まれると少し緊張した様子を見せる一方で、見慣れないものを見つけると、好奇心を抑えきれないように目を輝かせる。
どこにでもいそうな、少し不器用な少女。
けれど、彼女には何かがある。
そう感じた理由を、私はまだ説明できなかった。
「ヴィオレッタ様?」
隣から声をかけられ、私は顔を上げた。
エミリアが不思議そうにこちらを見ている。
「どうかされましたか?」
「いいえ。教室に着いたわね、と思っていたところよ」
「そうでしたか。案内してくださって、本当にありがとうございます」
エミリアは丁寧に頭を下げた。
その動きが少し大げさだったため、私は思わず口元を緩める。
「そんなにかしこまらなくてもいいわ。頭を下げすぎて、床に挨拶することになってしまうわよ」
「えっ?」
エミリアは慌てて顔を上げた。
「そ、そんなに深く下げていましたか?」
「少なくとも、床はあなたの挨拶を受け取ってくれたと思うわ」
「そ、それは……床に失礼なことをしてしまいました!」
真剣な顔で床を見つめるエミリア。
私は、今度こそ笑いそうになった。
どうやら彼女は、冗談を真に受けやすいらしい。
「冗談よ」
「……あっ!」
エミリアの頬が赤くなった。
「も、申し訳ありません。私、こういうことに慣れていなくて……」
「謝らなくていいわ。少なくとも、あなたと話していると退屈はしなさそうね」
そう言うと、エミリアは少しだけ安心したように笑った。
その表情を見ていると、不思議な気持ちになる。
初めて会ったはずなのに、どこか懐かしい。
以前にも、こんなふうに誰かと話したことがあったような気がする。
けれど、思い出そうとすると、記憶はすぐにぼやけてしまう。
私は無理に追いかけるのをやめた。
今朝、手帳で見つけた言葉を思い出す。
――最初に思い出した記憶を、決して信じてはいけない。
ならば、懐かしさだけを理由に彼女を信用するのも危険だろう。
「エミリアさん。一つ聞いてもいいかしら?」
「はい、何でしょう?」
「あなたは、以前この学園に来たことがある?」
エミリアはきょとんとした。
「いいえ。今日が初めてです」
「そう。では、王都に来たのも初めて?」
「王都には何度か来たことがあります。でも、この学園に入るのは初めてです」
答えに不自然な点はなかった。
私は少し考えてから、もう一つ質問した。
「今朝、正門の前で校舎を見上げていたでしょう? 何か気になるものでもあったの?」
エミリアの表情が変わった。
ほんの一瞬だった。
彼女は何かを思い出すように目を伏せ、それから困ったように微笑んだ。
「自分でも、よくわからないんです」
「わからない?」
「はい。校舎を見たとき、初めて来た場所なのに、なぜか懐かしい気がして……。でも、どこで見たのかは思い出せませんでした」
私の胸の奥で、何かが小さく動いた。
懐かしい。
初めて訪れた場所なのに。
私もまた、覚えのない記憶に振り回されている。
偶然だと考えることはできる。
誰にでも、似たような経験はあるだろう。
それでも、今の私には聞き流せなかった。
「それは、夢で見た景色に似ていたからかもしれないわね」
私がそう言うと、エミリアは驚いたように顔を上げた。
「……どうして、それを?」
今度は、私が黙る番だった。
「夢で見た景色?」
「はい。実は最近、同じ場所の夢を見るんです。古い建物のような場所で、周囲には誰もいなくて……。目が覚めると、何も思い出せないんですけど」
エミリアは自分の手を見つめた。
「ただ、夢の中で誰かを待っているような気がするんです。誰を待っているのかは、わかりません。でも、目が覚めると、なぜか寂しくなってしまって……」
その声には、作りものではない戸惑いがあった。
私は彼女の顔を注意深く観察した。
少なくとも、私の反応を試すために話しているようには見えない。
しかし、だからといって、彼女の夢が私の記憶と関係しているとは限らない。
「夢の場所について、何か覚えていることはある?」
「窓がたくさんあったような気がします。それから、床に不思議な模様があって……」
エミリアは眉を寄せた。
「でも、絵に描こうとしても、うまく思い出せないんです。思い出そうとすると、頭の中から消えてしまうんですよね」
私は息を止めそうになった。
床に刻まれた模様。
それは、私がまだ見たことのない場所なのだろうか。
それとも、どこかの人生で目にしたものなのだろうか。
今の段階では判断できない。
「無理に思い出そうとしない方がいいわ。何かを思い出したら、そのときに記録しておくといいかもしれないわね」
「記録、ですか?」
「ええ。夢の内容も、覚えている部分だけでいいの。日付も一緒に書いておけば、後から変化を確かめられるでしょう?」
エミリアは感心したようにうなずいた。
「なるほど……! ヴィオレッタ様は、そういうことを普段からなさっているんですか?」
「必要なことは記録するようにしているわ」
本当は、自分自身の記憶すら信用できなくなったからだ。
けれど、それを説明する必要はない。
エミリアは何かを決意したように拳を握った。
「私も、今日から書いてみます!」
「そう。続けられるといいわね」
「はい! まずは日記帳を買わないと……」
そこまで言って、彼女は急に青ざめた。
「どうしたの?」
「日記帳を買うお金、教科書を買ったら残りが少なくなってしまって……」
私は数秒、彼女を見つめた。
そして、静かにうなずいた。
「……まずは紙の切れ端から始めましょうか」
「はい! それなら大丈夫です!」
エミリアは安心したように笑った。
本当に、裏表のない少女だ。
少なくとも、今のところは。
そのとき、教室の扉が開き、担当教員が姿を現した。
「席についてください。授業を始めます」
生徒たちが一斉に動き出す。
私も自分の席へ向かったが、ふと窓際に置かれた小さな展示台が目に入った。
その上には、学園の創設時から保管されているという古い装飾品が置かれていた。
青みを帯びた銀色の金属で作られた、手のひらほどの大きさの円盤。
表面には幾何学的な模様が刻まれている。
私は足を止めた。
見覚えがある。
いや、正確には、似たものを記憶のどこかで見た気がする。
円盤の中央には、線が交差する奇妙な紋様が刻まれていた。
その形を目にした瞬間、頭の奥で何かがかすかに揺れた。
――これは……。
記憶をつかもうとした、そのときだった。
「わっ……!」
背後から小さな声がした。
振り返ると、エミリアが展示台の前で立ち止まっていた。
彼女の指先が、円盤のすぐ近くに伸びている。
触れたわけではない。
それなのに、円盤の表面に刻まれた模様が、淡い光を放っていた。
私は息をのんだ。
光は一瞬だけ強くなり、すぐに消えた。
周囲の生徒たちは誰も気づいていないようだった。教室では、まだ席を探している生徒たちの声が響いている。
エミリアは自分の手を見つめていた。
「今の……何だったんでしょう?」
その声は、明らかに困惑していた。
私は円盤へ視線を戻した。
そこには、何事もなかったかのように古びた金属が置かれているだけだった。
「エミリアさん」
「は、はい!」
「今、何かした?」
「何もしていません! ただ、模様が気になって……近くで見ようとしただけです」
彼女は慌てて両手を振った。
「本当です! 触っていません!」
「わかったわ。落ち着いて」
私は展示台に近づき、円盤を観察した。
表面には細かな傷があり、縁には長い年月を感じさせる変色が見られる。
魔法の反応だったのだろうか。
それとも、光の加減による見間違いか。
断定するには情報が足りない。
けれど、一つだけ確かなことがあった。
エミリアが近づいた瞬間、あの模様は光った。
そして私は、その形をどこかで見たことがあるような気がしている。
「ヴィオレッタ様……?」
エミリアの不安そうな声に、私は顔を上げた。
「大丈夫よ。あなたが何か悪いことをしたと決まったわけではないわ」
「でも、もし私のせいだったら……」
「原因を確かめる前に、自分を責める必要はないわ」
自分でも驚くほど、自然に言葉が出てきた。
エミリアは少しだけ表情を和らげた。
そのとき、教員が再びこちらを見た。
「そこの二人。授業が始まりますよ」
私は姿勢を正した。
「失礼いたしました」
エミリアも慌てて頭を下げた。
「も、申し訳ありません!」
私たちは急いで席へ向かった。
どうやら、今日の目標だった平穏な一日は、朝のうちに諦めた方がよさそうだ。
しかも、授業が始まる前から厄介な問題が一つ増えている。
私は席に座り、ノートを開いた。
そして、誰にも見られないように、最初のページの端へ小さく書きつけた。
『エミリア・ローゼン。古い装飾品への接近時、未知の反応が発生。原因は不明。本人に意図的な行動は見られず』
ペンを止め、少し考える。
その下に、もう一文を付け加えた。
『記憶との関連性については、現時点では判断しない』
書き終えた私は、ノートを閉じた。
今は、結論を急ぐべきではない。
エミリアが何者なのか。
あの円盤が何を意味するのか。
そして、私が感じた懐かしさが何に由来するのか。
すべては、これから確かめていけばいい。
窓の外では、風に揺れた木々の葉が朝日を反射していた。
その穏やかな光景を眺めながら、私は一つのことを考えていた。
もし私の記憶が正しいのなら、今日という日は、もっと平凡な一日になるはずだった。
けれど、現実はすでに違っている。
私の知らない何かが、静かに動き始めているのかもしれなかった。




