記憶と違う学園の朝
アーデルハイト王立学園へ向かう馬車の中で、私は今日何度目かわからないため息をついた。
窓の外には、朝の活気に満ちた王都の街並みが広がっている。
石畳の大通りを荷馬車が行き交い、商店の軒先では店員たちが開店の準備をしていた。焼きたてのパンの香りが漂う広場では、露店の主人が声を張り上げている。
その向こうには、白い石造りの建物が並び、遠くには王城の尖塔が朝日を受けて輝いていた。
平和な光景だった。
少なくとも、見た目だけなら。
「……エミリア・ローゼン、ね」
私は父から聞いた名前を口にした。
昨日までの私なら、奨学生が一人入学するという話を気に留めることもなかっただろう。
しかし、今は違う。
私の記憶では、彼女が学園に姿を現すのは、もう少し先のことだった。
それなのに、父は彼女が今日から授業に参加すると言った。
私の記憶が間違っているのか。
それとも、すでに何かが変わっているのか。
あるいは、そもそも私が覚えている出来事は、同じ時間の流れに属していないのかもしれない。
考えれば考えるほど、答えは遠ざかっていく。
「お嬢様、学園に到着いたしました」
御者の声で、私は思考を中断した。
窓の外を見る。
アーデルハイト王立学園の正門が、堂々とそびえ立っていた。
白い石材で造られた門柱には、王家の紋章が刻まれている。その両側には鉄製の柵が長く伸び、敷地の奥には尖塔を備えた校舎が並んでいた。
中央棟は三階建てで、正面には大きな時計が設置されている。左右の棟をつなぐ回廊には蔦が絡まり、手入れされた庭園には噴水や花壇が整然と配置されていた。
貴族の子弟が通う学園にふさわしい、壮麗な建築だった。
馬車を降りると、すでに多くの生徒が登校していた。
豪華な馬車から降りる令嬢。
友人と談笑する青年。
従者に鞄を持たせながら、授業の予定を確認する生徒。
身につけている制服は同じでも、立ち居振る舞いや装飾品には、それぞれの家柄が表れている。
私はその光景を眺めながら、校舎へ向かって歩き出した。
すると、すぐに聞き慣れた声がした。
「ヴィオレッタ様!」
振り返ると、同じ学年の令嬢が数人、こちらへ近づいてきた。
彼女たちは私に礼をし、昨夜の夜会の噂や次の茶会の予定について話し始める。
私は微笑みながら、必要な返事を返した。
こうした会話には慣れている。
相手の言葉を遮らず、適切なところで相槌を打ち、余計なことは口にしない。
貴族社会で生きるために身につけた、ごく基本的な作法だ。
けれど、今日ばかりは会話に集中できなかった。
視線が、自然と校門の方へ向いてしまう。
探しているのは、一人の少女。
蜂蜜色の髪と、緑の瞳を持つ奨学生。
そして、私の記憶とは異なる時期に現れた人物。
「……あ」
思わず、小さな声が漏れた。
正門の近くで、一人の少女が立ち止まっていた。
肩まで伸びた蜂蜜色の髪は、毛先だけが柔らかく波打っている。大きな緑の瞳は周囲を忙しなく見回し、手には学園の案内図らしき紙が握られていた。
制服はまだ着慣れていないのか、襟元を何度も確かめている。
その姿には、貴族の令嬢たちとは異なる初々しさがあった。
けれど、ただ緊張しているだけではないように見えた。
少女は校舎を見上げた瞬間、ふと動きを止めた。
まるで、何かを思い出そうとしているかのように。
その表情は一瞬だけ、ひどく寂しげなものに変わった。
しかし、すぐに彼女は首を振り、再び案内図へ目を落とした。
「エミリア・ローゼン……」
私がつぶやくと、隣にいた令嬢が不思議そうに首を傾げた。
「ご存じの方ですか?」
「いいえ。今日から入学する奨学生だと聞いただけよ」
「まあ、あの方が。魔法の適性がとても高いそうですわね」
「そうみたいね」
私はそれ以上答えず、少女を見つめた。
エミリアは案内図を逆さまに持っていた。
……なるほど。
緊張している理由の一つは、それかもしれない。
私は思わず目を細めた。
案内図を逆さまにして校舎を探すとは、なかなか独創的な方法だ。
もっとも、指摘してあげるべきかどうかは悩ましい。
ここで声をかければ、私は彼女と早い段階で接触することになる。
記憶では、まだ接点がなかったはずだ。
しかし、放置すれば、彼女はいつまでも正しい道を見つけられないかもしれない。
数秒ほど考えた末、私は小さく息をついた。
――仕方ないわね。
「少し失礼するわ」
令嬢たちに断り、私はエミリアの方へ歩いていった。
「あなたがエミリア・ローゼンさん?」
少女は驚いたように顔を上げた。
「は、はい! そうです!」
声が裏返った。
エミリアは慌てて背筋を伸ばし、案内図を胸元に抱えた。
「本日からこちらの学園に通うことになりました、エミリア・ローゼンと申します。どうぞよろしくお願いいたします!」
丁寧な挨拶だった。
少し緊張しすぎている気もするが、悪い印象は受けない。
「ヴィオレッタ・ヴァレンシュタインよ。よろしくね」
名乗った瞬間、エミリアの表情が変わった。
驚き。
戸惑い。
そして、ごく短い間だけ、何かを懐かしむような感情。
「ヴァレンシュタイン……様?」
「ええ。どうかしたの?」
「い、いえ! 何でもありません!」
彼女は勢いよく首を振った。
その拍子に、手にしていた案内図が床へ落ちた。
「あっ!」
紙が石畳に広がる。
エミリアは慌ててしゃがみ込み、私はその横から案内図を拾い上げた。
そして、気づいた。
やはり、上下が逆だった。
「……これでは、少し道に迷いやすいかもしれないわね」
「えっ?」
私は案内図を正しい向きに直して差し出した。
エミリアはそれを受け取ると、数秒間じっと見つめた。
やがて、顔がみるみる赤くなった。
「も、申し訳ありません! 緊張してしまって、その……!」
「謝る必要はないわ。初めての場所なら、誰だって迷うもの」
「ありがとうございます……!」
エミリアはほっとしたように微笑んだ。
その笑顔を見た瞬間、私は奇妙な感覚に襲われた。
どこかで見たことがある。
この笑顔を。
けれど、思い出そうとした途端、頭の中に薄い霧が広がった。
場所も、時間も、何もわからない。
ただ、懐かしいという感情だけが残っていた。
私は気づかれないように視線をそらした。
記憶を無理に引き出そうとしてはいけない。
今朝、手帳に書かれていた言葉を思い出す。
――最初に思い出した記憶を、決して信じてはいけない。
「ヴィオレッタ様?」
エミリアが不安そうに私を見上げていた。
「何か、気に障ることをしてしまいましたか?」
「いいえ。少し考え事をしていただけよ」
「そうですか……。よかったです」
彼女は胸をなで下ろした。
その様子を見て、私は内心で苦笑した。
どうやら、私は無意識のうちに人を不安にさせる顔をしているらしい。
これでは、悪役令嬢と呼ばれても仕方がない。
……いや、待って。
そもそも、私は本当に悪役令嬢だったのだろうか。
それとも、そうなる人生を何度も経験してきただけなのか。
考え始めると、また答えが遠のいていく。
私は小さく首を振り、エミリアへ向き直った。
「教室まで案内するわ。あなたの教室は中央棟の二階でしょう?」
「は、はい! ですが、どうしてご存じなのですか?」
「入学する生徒の教室くらい、確認していても不思議ではないでしょう?」
「なるほど……! さすがヴァレンシュタイン様です!」
エミリアは感心したように目を輝かせた。
私は微笑んだ。
本当は、先ほど父から聞いた情報を思い出しただけなのだが。
そのことを説明する必要はないだろう。
私たちは並んで校舎へ向かった。
エミリアは歩きながら、何度も周囲を見回していた。
「本当に立派な学園ですね。こんな場所で勉強できるなんて、まだ夢みたいです」
「すぐに慣れるわ」
「そうでしょうか……。私、貴族の方々と接するのも初めてで、失礼なことをしてしまわないか心配なんです」
「完璧に振る舞う必要はないわ。間違えたら、そのときに覚えればいいのよ」
口にしてから、私は少しだけ驚いた。
それは、以前の私なら言わなかった言葉だったかもしれない。
かつての私は、間違いを恐れていた。
失敗すれば、周囲の評価が変わる。
一度失った信頼は、簡単には取り戻せない。
そんな考えに縛られていた。
けれど、何度も人生を繰り返した記憶がある今、少しだけ違う考え方ができるようになったのかもしれない。
もちろん、だからといって失敗したいわけではない。
できれば、今日一日くらいは平穏に過ごしたいものだ。
「ありがとうございます、ヴィオレッタ様!」
エミリアは嬉しそうに笑った。
その笑顔を見て、私は再び胸の奥に小さな違和感を覚えた。
彼女は本当に、今日初めてこの学園を訪れたのだろうか。
先ほどの表情。
校舎を見上げたときの、あの寂しげな眼差し。
そして、私の名前を聞いたときの反応。
どれも気になる。
けれど、今はまだ何も聞くべきではない。
私は彼女を横目で見ながら、心の中で決めた。
エミリア・ローゼン。
まずは、彼女を知ることから始めよう。
私の記憶が間違っているのか。
それとも、私の知らない何かが動き始めているのか。
答えは、まだわからない。
けれど、その手がかりは、思いがけず近くにあるのかもしれなかった。




