第八話 帰る場所
翌朝。
街で、人が消え始めた。
正確には。
いなくなったわけではない。
行くべきではない場所へ、向かい始めた。
午前七時四十二分。
駅前。
会社員の男が、閉鎖された雑居ビルへ入ろうとして警察に止められた。
「家に帰るだけです」
男はそう言った。
住所を確認すると、そのビルに住んだ記録はない。
午前八時五分。
七十代の女性が、小学校の校門前で保護された。
「迎えに来た」
誰を。
「息子を」
息子は五十二歳だった。
その小学校も、彼が通った学校ではない。
午前八時二十一分。
病院の裏口。
二十代の男性。
「母さんのところに帰る」
母親は生きている。
自宅にいる。
男性が向かっていた病棟は、十年前に解体されていた。
午前九時を過ぎる頃には。
《帰宅行動》
そう呼ばれるものが、市内のあちこちで報告され始めた。
*
午前九時三十八分。
県警本部。
朔は会議室の端でスマートフォンを見ていた。
《今日は大学来るな》
久世。
《閉鎖されてる》
《知ってる》
《じゃあ来んな》
《県警》
《もっと来んな》
朔は少し笑った。
「何ですか」
御厨が見る。
「久世」
「何て」
「県警来るなって」
「正しいですね」
「警察なのに」
「あなたに限っては」
「差別」
「区別です」
黒瀬がホワイトボードへ地図を貼る。
赤い点。
青い点。
黄色。
多い。
「現在確認できてるだけで、四十七件」
「増えた」
朔が言う。
「まだ増える」
黒瀬は地図を見る。
「問題は目的地だ」
榊原が資料をめくる。
「共通しませんね」
「場所としてはな」
黒瀬が言う。
「ただし、本人たちは全員『帰る』と言ってる」
玲奈が別の資料を見る。
「そして、その場所を現在の自宅だと認識していない人が多い」
「記憶の場所?」
朔が訊く。
「そうとも限りません」
玲奈が答える。
「実際に住んだことのない場所もあります」
「じゃあ何に帰ってる」
「それを考えてる」
黒瀬が言う。
朔は地図を見る。
赤い点。
ばらばら。
でも。
大学の周辺。
多い。
「集まってる」
「分かるか」
「大学」
「そうだ」
黒瀬が地図の中央を指す。
「目的地自体はばらばらでも、進行方向を追うと途中から大学方面へ曲がってる例が増えてる」
「中庭?」
「可能性はある」
朔は立ち上がる。
「座れ」
黒瀬。
「まだ何も言ってない」
「行くって顔してる」
「顔で分かる人増えすぎ」
「お前のせいだ」
御厨も地図を見る。
「大学側は完全閉鎖。職員も最低限だけ残しています」
「水城は?」
「今日は自宅待機です」
「夢」
「昨夜は見ていないそうです」
玲奈が答える。
「白い花は?」
「分析中」
黒瀬。
「普通の植物?」
「まだ結果出てない」
「全部まだ」
「怪異に納期を設定できるならやってくれ」
「警察っぽい」
「警察だ」
少し静かになる。
朔は椅子へ戻る。
「帰るって」
言う。
「場所じゃないんじゃないですか」
榊原が見る。
「どういう意味です」
「駅前の時」
暖かい。
安心する。
何も考えなくていい。
失敗する前。
面倒になる前。
「俺も家は浮かんだ」
「はい」
「実家も」
「はい」
「でも」
朔は言葉を探す。
「もっと前みたいな感じだった」
「前」
玲奈が訊く。
「何も決めなくてよかった時」
自分で言って。
少し嫌になる。
「失敗してない時」
玲奈は何も言わない。
「誰かが決めてくれた時?」
朔が続ける。
「……かも」
榊原が地図を見る。
「帰還先が地理ではなく、心理的な状態だと?」
「仮に」
「なら、実在しない場所へ向かう人がいることとも矛盾しない」
黒瀬。
「その話は後だ」
「何で」
「人が増えた」
電話。
無線。
一気に鳴る。
御厨が取る。
「はい」
顔が変わる。
「人数は?」
一拍。
「そんなに?」
黒瀬が見る。
「何人」
御厨は電話を耳に当てたまま答える。
「駅前から大学方面へ、百人以上」
朔の背中が冷える。
「別地点でも同様」
「大学閉鎖を維持しろ」
黒瀬。
「近づけるな」
御厨が電話へ戻る。
朔は窓を見る。
遠く。
街。
何も見えない。
でも。
分かる気がした。
来る。
みんな。
帰りに。
*
午前十一時十九分。
大学周辺は封鎖されていた。
それでも、人は来た。
一人。
二人。
十人。
百人。
駅から。
住宅街から。
車を途中で捨てて。
自転車を置いて。
歩いて。
誰も走らない。
ただ。
静かに。
大学へ向かう。
「帰らなきゃ」
「帰らないと」
「もういい」
「帰れる」
「今度こそ」
声が重なる。
規制線では警察官が止め、説得し、押し返している。
それでも人は増える。
朔は講義棟二階の窓際に置かれていた。
すぐそばに御厨と黒瀬がいる。
玲奈も少し離れた廊下で、保護された学生の様子を見ていた。
「何で俺ここにいるんですか」
「こちらで管理した方が楽だからです」
御厨が答える。
「管理」
「保護」
「今言い換えた」
「今は同じです」
黒瀬が窓の外を見る。
「伊東」
「はい」
「外出るな」
「はい」
「窓越しに話しかけるな」
「しません」
「本当に?」
「多分」
「御厨」
「見てます」
「監視だ」
「保護です」
朔は外を見る。
人。
多い。
みんな。
何かを探している。
白い女。
まだいない。
木も。
でも。
中庭の地面。
少し。
歪んでいる。
「来る」
朔が言った。
「何が」
御厨。
「木」
次の瞬間。
中庭の舗装が。
盛り上がった。
亀裂。
音。
根。
黒い。
伸びる。
地面を割る。
幹。
空。
一気に。
木。
巨大な。
現れる。
「全員見えてる?」
朔が訊く。
「見えてます」
御厨。
「見える」
黒瀬。
外の群衆も、一斉に顔を上げる。
木を見る。
そして。
笑う。
「帰った」
誰か。
「ここだ」
別の声。
「やっと」
朔の頭が痛む。
木の根元。
白。
女。
いる。
今までより近い。
顔が少し見える。
若い。
たぶん。
でも。
年齢が分からない。
十八にも。
三十にも。
もっと上にも。
見える。
女が朔を見る。
窓越し。
――来て。
「……」
御厨が朔を見る。
「聞こえました?」
「はい」
「何て」
「来て」
黒瀬。
「行くな」
「分かってます」
女。
また。
――来て。
朔の足が一歩動く。
「伊東さん」
御厨。
「……」
「伊東さん?」
もう一歩。
廊下。
階段。
下。
行く。
「伊東!」
腕を掴まれる。
御厨。
「どこ行くんですか」
「分からない」
「なら行かないでください」
「でも」
帰る。
声。
近い。
違う。
自分の中。
帰れる。
どこに。
分からない。
でも。
帰れば。
もう。
遅刻しなくていい。
試験も。
単位も。
留年も。
考えなくていい。
前年。
地下鉄。
事情聴取。
受けられなかった試験。
落とした必修。
もう一年。
全部。
なかったことに。
なる。
「……」
「伊東さん」
御厨の声。
遠い。
帰る。
前へ。
失敗する前。
面倒になる前。
戻る。
朔は御厨の手を振りほどこうとする。
「離して」
「嫌です」
「帰れる」
「どこに」
朔が止まる。
御厨。
その言葉。
どこに。
駅前。
白い女。
自分。
「分からない」
「なら」
御厨が腕を掴んだまま言う。
「今はこっちにいてください」
朔は息をする。
一回。
二回。
女。
木。
群衆。
――来て。
頭。
白。
世界。
揺れる。
*
気づくと。
家にいた。
実家。
たぶん。
玄関。
懐かしい。
匂い。
靴。
音。
「おかえり」
声。
母親。
若い。
朔が知っているより、少し若い。
「……」
「どうしたの」
「何歳」
「何それ」
笑う。
台所。
夕飯。
湯気。
テレビ。
机。
制服。
自分。
高校生。
違う。
大学。
まだ。
入学前。
何も起きていない。
地下鉄。
ない。
留年。
ない。
警察。
知らない。
白い女。
いない。
「ご飯できてるよ」
母親。
普通。
優しい。
朔は立っている。
「大学は」
「何の話?」
「俺」
手を見る。
若い。
たぶん。
「ここ」
「家でしょ」
家。
そう。
家。
帰る場所。
暖かい。
何も考えなくていい。
失敗してない。
面倒になってない。
全部。
まだ。
先。
「……」
座る。
ご飯。
食べる。
味。
知ってる。
懐かしい。
安心する。
これでいい。
かも。
別に。
悪くない。
むしろ。
いい。
誰も怪異の話をしない。
御厨に怒られない。
黒瀬に止められない。
榊原に質問の仕方を直されない。
玲奈に待たれない。
澪の夢も。
久世の軽口も。
ない。
静か。
楽。
「……」
朔は箸を止める。
久世。
いない。
「友達は?」
「誰?」
母親。
「久世」
「知らない」
「水城」
「誰?」
「御厨」
「誰なの、それ」
「黒瀬」
「知らない人ばっかりね」
朔は少し笑う。
「そっか」
全部。
ない。
失敗もない。
でも。
出会ってもいない。
「それは」
少し。
嫌だ。
「どうしたの?」
母親が訊く。
「別に」
食卓。
安心。
正しい。
帰る。
でも。
これは。
戻ったんじゃない。
消しただけ。
「……帰るって」
母親を見る。
「昔に戻ることじゃないよな」
「朔?」
景色が少し揺れる。
「嫌なことだけ消せないし」
地下鉄。
留年。
警察。
怪異。
全部。
嫌。
でも。
久世。
御厨。
黒瀬。
榊原。
玲奈。
澪。
そこから。
後に。
いる。
「俺」
朔は少し考える。
「今は、帰らない」
母親の顔が揺れる。
白。
女。
同じ声。
――帰りたい。
「分かる」
朔は言う。
女。
目の前。
白い服。
長い黒髪。
食卓が消える。
家が消える。
白。
何もない。
「俺も、帰りたい時ある」
――なら。
「でも」
朔は女を見る。
「今は戻らない」
――今。
「うん」
――帰る。
少し。
――帰らない。
「そう」
女が止まる。
初めて聞いた言葉を、口の中で確かめるように。
――選ぶ。
朔は少し黙った。
「……たぶん」
――選ぶ。
「でも」
朔は続ける。
「何を選ぶかは、まだ分からない」
女。
動かない。
白い世界。
細いひび。
入る。
*
「朔!」
声。
誰。
「おい!」
久世。
目を開ける。
大学。
廊下。
床。
御厨。
黒瀬。
久世。
少し離れたところに玲奈もいる。
「……何でいるの」
「こっちの台詞だわ!」
久世が朔の肩を掴んでいる。
「来るなって言われてたよね」
「お前がやばいって聞いたから」
「誰から」
「水城さん」
「水城?」
「夢でお前が木の下にいるって電話きた」
朔は止まる。
「今日、夢見てなかったんじゃ」
「昼から見え始めたって」
「俺を?」
「お前と白い女」
朔は起きる。
頭が痛い。
「御厨さん」
「います」
怒っている。
かなり。
「久世さんを入れたのは私じゃありません」
「勝手に来た」
久世。
「警察止めた」
「止められましたよ!」
御厨。
「でも入ってきた」
「すみません」
「反省してます?」
「少し」
「伊東さんと同じこと言わないでください」
久世が朔を見る。
「お前」
「何」
「さっきずっと『帰る』って言ってた」
「俺が?」
「うん」
「どこに」
「知らん」
「聞いた?」
「何回も」
「俺何て」
「分からんって」
朔は少し黙る。
御厨が見る。
「覚えてます?」
「少し」
「何を」
「家」
「実家?」
「たぶん」
「たぶん?」
「実家っぽい場所」
「誰かいました?」
「母親」
「本人?」
「若かった」
玲奈が近づく。
「安心しました?」
朔が見る。
「かなり」
「帰りたいと思った?」
「はい」
「今も?」
朔は考える。
「ちょっと」
玲奈は頷く。
「それでいいです」
「止めないんだ」
「思うことは止めません」
久世。
「帰るのは?」
「それは止めます」
「警察と心理士で役割分担すごいな」
黒瀬が窓を見る。
「外」
全員が見る。
群衆。
何百人。
大学の前。
木はまだある。
白い女も根元に立っている。
ただ。
さっきまで一つだった声が。
少しずつ。
崩れている。
「家に帰りたい」
一人。
「母さんに会いたい」
別の人。
「会社行きたくない」
「子供の頃に戻りたい」
「もう疲れた」
それでも。
「帰らなきゃ」
「帰らないと」
同じ言葉を繰り返したままの人も多い。
大学へ向かって進もうとする人も、まだいる。
「ばらけてる」
御厨が言う。
「少しだけ」
玲奈が答える。
警察官たちは、その隙に一人ずつ群衆を外へ誘導し始めている。
朔は白い女を見る。
――選ぶ。
声。
朔だけに。
「聞こえた?」
玲奈。
「はい」
「何て」
「選ぶ」
黒瀬の顔が変わる。
「お前が教えたのか」
「分からない」
朔は白い世界を思い出す。
「俺は、今は帰らないって言っただけ」
「それで?」
「女が」
少し。
「帰る、帰らないって繰り返して」
朔は窓の外を見る。
「自分で『選ぶ』って言った」
誰もすぐには答えない。
女。
口。
少し。
動く。
――選ぶ。
でも。
動かない。
帰らないとも。
帰るとも。
言わない。
ただ。
言葉だけを持っている。
*
午後三時四十八分。
大学への人の流入はいったん止まった。
帰宅行動そのものが収束したわけではない。
保護された人の中には、いまだに「帰らなきゃ」と繰り返す者もいた。
一方で。
自分がどこへ向かっていたのか、少しずつ話し始める者もいる。
「昔の家に帰りたかった」
「仕事を始める前に戻りたかった」
「母親に会いたかった」
「離婚する前」
「子供の頃」
「どこでもいいから安心したかった」
同じ言葉の中から。
別々の理由が。
少しだけ。
見え始めていた。
県警本部へ戻る車の中。
朔は後部座席に座っている。
隣には久世。
御厨が運転していた。
「何で久世も」
「事情聴取です」
「俺?」
久世。
「無断で規制区域に入ったので」
「そこ?」
「そこです」
「善意なんですけど」
「善意で規制線を越えないでください」
「はい」
朔が窓を見る。
街。
人。
車。
信号。
見た目はいつも通りだった。
「久世」
「何」
「何で来たの」
「水城さんから電話来たから」
「夢だけで?」
「お前が木の下で、白い女にずっと呼ばれてるって言うから」
「それで」
「普通に心配だったから」
「警察いるのに」
「お前、警察いても勝手に地下鉄乗るじゃん」
「それは」
「信用ないんだよ」
朔は黙る。
「あと」
久世が続ける。
「お前さ」
「うん」
「帰るって言ってる時」
「うん」
「めっちゃ安心した顔してた」
「そう」
「ちょっと怖かった」
「何で」
「戻ってこない感じしたから」
朔は窓を見る。
実家。
食卓。
母親。
安心。
静か。
悪くなかった。
本当に。
「帰ってもよかったかも」
御厨がバックミラー越しに見る。
「伊東さん」
「思うだけ」
玲奈の言葉。
思うことと。
することは。
別。
「でも」
朔は言う。
「今は帰らない」
久世。
「当たり前」
「うん」
「大学も単位も残ってるしな」
朔が見る。
「そこ?」
「去年一回落とした奴の執着すごいし」
御厨がバックミラー越しに朔を見る。
「留年自体は資料で把握しています」
「資料にあるんだ」
「学生情報ですから。ただ、理由までは」
久世が言う。
「去年の地下鉄のあと、必修の試験受けられなくて落とした」
車内が少し静かになる。
「久世」
「何」
「そこまで言わなくても」
「事実だろ」
「そうだけど」
御厨は前を向いたまま言う。
「……そういう経緯でしたか」
「はい」
「だから出席にあれだけ」
「二回目は嫌なので」
「そこは納得しました」
「そこは」
「そこだけです」
久世が笑う。
「生活に怪異のしわ寄せ来てるんだよな、お前」
「去年から」
「だから今度はちゃんと卒業しろ」
「まだ三回生」
「まず進級しろ」
「はい」
朔は少し笑った。
窓。
自分。
反射。
普通。
その奥。
一瞬だけ。
白。
女。
いない。
ただ。
声だけ。
――選ぶ。
何を。
朔は聞かなかった。
女はまだ。
何も選んでいない。
第八話 了




