第七話 感染
午後三時六分。
伊東朔はまだ県警本部にいた。
大学へ行くことは許可されていない。
「映ってるんですよね」
「映ってる」
黒瀬が答える。
「木も」
「映ってる」
「女も」
「映ってる」
「水城もいる」
「それも知ってる」
「じゃあ」
「行かせない」
即答だった。
会議室のモニターには、大学の中庭が映っている。
巨大な木。
白い女。
映像は止められていた。
画面の端には、救護用のテントへ運ばれていく澪の姿もある。
「呼ばれてる」
朔が言う。
「お前がそう思ってるだけかもしれん」
「口動いてた」
「音声はない」
「来て、って」
「読唇術でも習ってたのか」
「何となく」
「証拠にならん」
黒瀬は画面を閉じない。
御厨は電話で現地と話している。
榊原は腕を組んだまま、何度目か分からない映像を見ていた。
玲奈は別のタブレットを見ている。
「水城さん」
玲奈が言った。
「意識はあります」
「夢見てるって」
「本人はそう表現しています」
「起きてるのに?」
「はい」
「何が見えてる」
「今、聞き取り中です」
その時。
御厨が電話口で黙った。
「……もう一度お願いします」
全員が見る。
「はい」
少し間。
「分かりました。本人に無理に話させないでください」
電話を切る。
「何ですか」
朔が訊く。
御厨はすぐには答えなかった。
「水城さんが」
「はい」
「夢の中に、あなたがいると言っています」
朔は黙る。
「俺ここにいるけど」
「見れば分かります」
「じゃあ誰」
「それを今から考えるんです」
黒瀬が御厨を見る。
「詳しく」
「巨大な木。白い女性。その前に伊東さんがいる」
「何してる」
「話しているそうです」
朔がモニターを見る。
「俺は何て」
「そこまでは聞き取れない。ただ」
御厨が少し言いにくそうにする。
「水城さんは、あなたが何度も何かを尋ねているように見える、と」
静かになる。
黒瀬の視線が朔へ向いた。
「行ってないです」
「分かってる」
「質問もしてない」
「それも分かってる」
「じゃあ」
「それが一番嫌なんだよ」
黒瀬が言った。
*
午後三時二十二分。
久世から電話が来た。
会議室の外。
朔は廊下の窓際に立っている。
『生きてる?』
「うん」
『大学また閉まったんだけど』
「知ってる」
『水城さん倒れたって聞いた』
「意識はある」
『お前は?』
「県警」
『また?』
「最近多い」
『ポイント貯まりそう』
「何と交換できる」
『事情聴取一回無料』
「元から無料では」
『そこ突っ込む?』
少し。
普通の会話。
それだけで頭が少し戻る。
『で』
「何」
『今度は何した』
「してない」
『ほんとに?』
「まだ」
『まだって言うな』
「御厨さんと同じこと言う」
『俺も学習するんで』
朔は窓を見る。
県警本部の駐車場。
普通の車。
普通の道路。
『そういや』
「うん」
『前、精神干渉耐性とか言われてたんだろ』
「今は保留」
『保留なんだ』
「効き方がおかしいって」
『何それ』
「知らない」
久世が少し笑う。
『お前さ、精神汚染耐性ありそうだよな』
「褒めてる?」
『全然』
「じゃあ何」
『むしろお前の方が相手を精神汚染してたりして』
朔は黙った。
『……冗談だけど』
「分かってる」
『その間やめて』
「何が」
『怖いから』
「考えてただけ」
『もっと怖い』
会議室のドアが開く。
御厨。
「伊東さん」
「はい」
「行きます」
「大学?」
「はい」
電話の向こう。
『行くの?』
「うん」
『お前が?』
「警察付き」
『絶対一人になるなよ』
「ならない」
『質問は』
「多分するなって言われる」
『しろって言われてもするな』
「厳しい」
『お前にだけは言う』
朔は電話を切った。
久世の言葉が少し残った。
相手を。
精神汚染。
冗談。
たぶん。
*
午後三時五十九分。
大学は閉鎖されていた。
正門には警察車両が並び、学生はすでに全員構外へ出されている。
中庭へ続く通路には規制線が張られていた。
朔は御厨、黒瀬、玲奈、榊原とともに、その奥へ進む。
「水城は?」
「医務室です」
御厨が答える。
「状態は安定しています」
「まだ夢見てる?」
「本人はそう言っています」
「会える?」
「あとで」
黒瀬が振り返る。
「先に言っとく」
「はい」
「勝手に近づくな」
「はい」
「話しかけるな」
「はい」
「質問するな」
「はい」
黒瀬が少し止まる。
「妙に素直だな」
「言っても無駄そうなので」
「何が」
「行くなって」
「分かってるなら最初から言うこと聞け」
中庭へ進む。
角を曲がる。
そして。
朔は止まった。
木。
ある。
映像ではない。
目の前に。
巨大な幹が立っている。
中庭の舗装を突き破って。
根が地面を持ち上げている。
ベンチが一つ傾いている。
枝は校舎の屋上より高い。
葉が風に揺れる。
音がする。
普通の木と同じように。
「……見える」
御厨が言った。
朔が見る。
「今は?」
「見えます」
御厨の顔から色が少し落ちている。
「黒瀬さんも」
「見えてる」
玲奈も。
榊原も。
全員が、同じ木を見ていた。
「複数の観測者」
朔が言う。
榊原が横を見る。
「今その講義の復習をしますか」
「ちょっと」
「やめてください」
木の前。
白い女。
立っている。
今度は。
御厨も見る。
「……あれですか」
「はい」
初めて。
朔以外にも。
同じものが。
同じ場所に。
いる。
白い服。
長い黒髪。
顔は。
まだ。
よく見えない。
女が動く。
一歩。
朔の方へ。
「止まってください」
御厨が腕を出す。
朔は止まる。
女も止まる。
距離。
三十メートルほど。
風。
葉。
誰も喋らない。
女が。
駅前の時と同じように。
首を傾げる。
違う。
口が動く。
声。
近くない。
遠くない。
頭の中。
――なぜ。
朔の呼吸が止まる。
「……」
「伊東さん?」
御厨。
「今」
「何ですか」
「なぜって」
黒瀬が女を見る。
「聞こえたのか」
「はい」
「俺には聞こえない」
玲奈も首を振る。
榊原。
「私も」
朔は女を見る。
――なぜ。
もう一度。
白い女。
こちらを見る。
「俺、まだ何も聞いてない」
誰も答えない。
朔の背中が冷える。
なぜ。
自分がよく使う言葉。
何度も。
白い女に向けた。
地下鉄の怪物にも。
人にも。
「伊東」
黒瀬。
「聞き返すな」
朔は黙る。
女。
一歩。
来る。
御厨が前へ出る。
「止まって」
白い女は止まらない。
でも。
御厨を見ていない。
朔だけ。
――どこ。
朔の指が冷える。
今度は。
女が。
問いを。
使っている。
「……俺の言葉」
「何?」
玲奈が訊く。
「前に聞いた」
朔は女を見る。
「どこに帰るのって」
――どこ。
「伊東」
「分かってる」
黒瀬。
「じゃあ黙れ」
女は首を傾げる。
――帰る。
――どこ。
朔の頭。
痛い。
白。
雪。
あの校庭。
一瞬。
見える。
すぐ消える。
「……」
「伊東さん」
御厨が朔を見る。
「大丈夫ですか」
「雪」
「また?」
「一瞬」
木。
女。
中庭。
でも。
奥。
重なる。
白い校庭。
古い校舎。
鉄棒。
小さな手。
違う。
今度は。
それだけではない。
畳。
知らない家。
台所。
夕方。
海。
病室。
団地。
玄関。
誰かの背中。
誰かの声。
重なる。
「伊東さん?」
遠い。
「いっぱい」
「何がですか」
「場所」
帰る。
場所。
違う。
記憶。
違う。
望み。
「伊東!」
黒瀬の声。
朔は女を見る。
白い。
立っている。
顔。
まだ。
見えない。
でも。
泣いているような。
気がする。
「なんで」
口から出た。
「伊東!」
黒瀬。
「なんで帰りたいの」
世界が。
止まる。
風。
葉。
声。
全部。
消える。
白い女が。
初めて。
少しだけ。
顔を上げる。
そして。
世界が割れた。
雪。
海。
家。
病室。
学校。
夕方。
朝。
母親。
知らない。
子供。
知らない。
匂い。
味。
手。
布団。
声。
名前。
帰りたい。
帰りたい。
帰りたい。
帰りたい。
帰りたい。
誰が。
誰が。
分からない。
「どこに」
朔の声。
自分のものか。
分からない。
「どこに帰りたい」
白い女。
口。
動く。
――分からない。
頭。
割れる。
足。
力。
抜ける。
「伊東さん!」
御厨。
地面。
近い。
その前に。
誰かが腕を掴んだ。
たぶん御厨。
でも。
見えない。
白。
*
夢。
ではない。
朔は立っていた。
どこか。
大学ではない。
でも。
中庭だった。
巨大な木。
その下。
白い女。
そして。
水城澪。
「水城?」
澪が振り返る。
「伊東君」
「何してるの」
「それ、私が聞きたい」
普通に答えた。
服も。
顔も。
いつもの澪。
「これ夢?」
「私はそう思ってる」
「俺は倒れた」
「じゃあ夢じゃないの?」
「知らない」
「また」
「うん」
周囲を見る。
地面は白い。
雪ではない。
何もない。
遠くに。
家。
いくつも。
日本家屋。
団地。
マンション。
学校。
駅。
知らない町。
全部。
遠く。
木だけが。
真ん中。
「水城には前からこれが?」
「木は」
「家は」
「なかった」
白い女。
木の下にいる。
「泣いてる?」
朔が訊く。
「今は」
澪が少し考える。
「困ってる」
「何で」
「それを私に聞く?」
「分かるかなって」
「少しだけ」
澪は女を見る。
「あなたが聞いたから」
「何を」
「帰りたい理由」
「うん」
「分からなくなったみたい」
朔は黙る。
「俺のせい?」
「知らない」
「水城が言うと珍しい」
「うつったかも」
澪が少し笑う。
その言葉。
朔は止まる。
「何が」
「伊東君の『分からない』」
「やめて」
「嫌なの?」
「ちょっと」
白い女が二人を見る。
――なぜ。
今度は。
澪も反応した。
「聞こえた?」
「うん」
「同じ?」
「なぜ、って」
女。
朔。
澪。
三人。
静か。
朔は一歩出る。
「何で俺の言葉使うの」
澪が朔を見る。
「それも質問だよ」
「そうだった」
――なぜ。
白い女。
同じ言葉。
でも。
違う。
真似ではない。
たぶん。
使っている。
自分で。
「……何を知りたい?」
女が止まる。
木。
枝。
葉。
揺れる。
――わたし。
声。
朔が見る。
澪も。
――わたし。
そこで。
切れる。
白い女の輪郭が崩れる。
木。
地面。
家。
全部。
遠ざかる。
「待って」
澪が言う。
女。
消える。
最後に。
白い。
小さなもの。
落ちる。
花。
*
目を開けた。
天井。
大学の医務室。
「……」
「起きました?」
玲奈。
椅子に座っている。
「水城は」
「隣です」
「いる?」
「います」
「夢」
「あとで聞きます」
「何分」
「十一分」
「短い」
「十分以上意識を失っていた人の感想としては変です」
朔は起きようとする。
「そのままで」
「大丈夫」
「御厨さん呼びます?」
「寝たふりします」
「寝てません」
カーテンの向こう。
御厨の声。
「いるんだ」
「います」
カーテンが開く。
御厨。
腕を組んでいる。
「勝手に質問しましたね」
「はい」
「止めましたよね」
「はい」
「何で」
「気になった」
「知ってます!」
玲奈が少し笑う。
「頭痛は?」
「ある」
「吐き気」
「ない」
「記憶」
「ある」
「何を見たか、順番に話せそう?」
「多分」
「じゃあ少し休んでから」
朔は天井を見る。
「水城も同じもの見たかな」
「確認します」
「白い場所」
「後で」
「家いっぱい」
「伊東さん」
「はい」
「後で」
「はい」
御厨がため息をつく。
ドアが開く。
黒瀬。
手にタブレット。
「起きたか」
「はい」
「ちょうどいい」
「何」
黒瀬が玲奈を見る。
「例の解析」
「もう?」
「仮だ」
玲奈がタブレットを受け取る。
「何ですか」
朔が訊く。
「お前の音声と、現場のノイズ」
「地下鉄の?」
「今回の」
黒瀬は壁にもたれる。
「現場のマイク、監視カメラ、御厨のボディマイク。全部時刻合わせした」
「それで」
玲奈が波形を表示する。
「最初」
指。
「白い女性があなたに『なぜ』と言ったと証言した瞬間」
「はい」
「その直前から、環境音に地下鉄と似たノイズが入っています」
「何秒」
「あなたが反応する約〇・四秒前」
朔が黙る。
「向こうが先」
「記録上は」
黒瀬が言う。
「ただし、お前が声に出す前に何か考えてた可能性はある」
「はい」
「次」
玲奈が波形を動かす。
「あなたが『なんで帰りたいの』と質問したところ」
「うん」
「今度は逆です」
「逆?」
「あなたの発話開始から約〇・三秒後に、同じ種類のノイズが増幅している」
朔は画面を見る。
「俺が先?」
「記録上は」
「じゃあ」
「因果関係とは言いません」
玲奈が止める。
「順番が変わった。それだけです」
黒瀬が続ける。
「最初は向こうが先に変化して、お前が反応した」
「はい」
「途中から」
少し間。
「お前が先に動いて、向こうが変化してる」
朔は何も言わなかった。
久世の声が浮かぶ。
むしろお前の方が。
相手を精神汚染してたりして。
冗談。
たぶん。
朔はタブレットの波形を見る。
「これ」
「何だ」
「俺の質問の前後で、毎回出てる?」
「全部ではない」
「どのくらい」
「まだ数が足りん」
黒瀬が答える。
「だから今は、順序が入れ替わったという事実だけ覚えとけ」
「はい」
「勝手に結論を出すな」
「分かってます」
「本当に?」
御厨。
「多分」
「ほら」
*
午後六時二十八分。
木は消えていた。
朔が眠っている間に。
映像では、突然ではなかった。
少しずつ枝が透け、幹が薄くなり、根が消えた。
最後に白い女が消え、中庭は元に戻った。
壊れていたはずの舗装も、傾いていたベンチも、何事もなかったように戻っている。
「物理的にあったのに」
朔が言う。
「その言い方もまだ保留です」
榊原が言った。
「でも御厨さん見た」
「見ました」
「全員」
「見ました」
「根が地面割ってた」
「そう見えました」
「写真」
「あります」
「じゃあ」
「写真に残ることと、木が通常の意味で生えていたことは別です」
「哲学者めんどくさい」
「今さらですか」
規制線の外には、黒瀬、御厨、榊原、玲奈、朔がいた。
少し遅れて、医務室を出た澪も合流している。
顔色はまだ少し悪い。
「夢」
朔が訊く。
「白い場所?」
「うん」
「家いっぱい」
「見た」
「俺もいた」
「いた」
「女が」
「『わたし』って」
二人とも止まる。
同じ。
玲奈が二人を見る。
「そこまで一致するんですね」
「多分」
澪が言う。
「でも」
「何」
朔が見る。
「伊東君の見え方と、私の見え方は少し違ったと思う」
「どこが」
「女の人」
「何」
「伊東君には、質問してるように見えてたでしょう」
「うん」
「私には」
澪は少し考える。
「覚えようとしてるように見えた」
「何を」
「自分を」
朔は黙る。
中庭。
何もない。
夕方。
風。
その時。
御厨がしゃがんだ。
「黒瀬警部」
「何だ」
「これ」
舗装の隙間。
小さな。
白い花。
一輪。
誰も触れない。
朔が近づく。
「見た」
「夢で?」
「落ちた」
澪も頷く。
「私も」
白い花。
種類は分からない。
細い茎。
小さな花弁。
風に揺れる。
黒瀬が警察官を呼ぶ。
「採取。素手で触るな」
「花ですよ」
朔が言う。
「お前が言うと余計信用できん」
「何で」
「今まで何見てきた」
朔は黙った。
白い花。
夢。
現実。
どちら。
分からない。
ただ。
そこにある。
少なくとも。
今は。
朔は花を見る。
問いが浮かぶ。
なぜ。
何で。
どこから。
誰の。
そして。
もう一つ。
自分が今まで、あまり考えなかった問い。
これは。
自分から出たのか。
それとも。
向こうから来たのか。
答えは。
まだない。
第七話 了




