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深層汚染  作者: 真夜不寝
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6/21

第六話 地下鉄

 地下鉄に乗るな、と言われた。

 だから三日間、乗らなかった。

 四日目。

 伊東朔は地下鉄のホームにいた。

「何で」

 電話越しの御厨の声は、低かった。

「大学行くので」

『電車は他にもありますよね』

「遠回り」

『してください』

「もうホームです」

 沈黙。

 駅のアナウンスが流れる。

『まもなく、一番線に――』

「御厨さん」

『何ですか』

「もう来る」

『乗らないでください』

 列車のライトがトンネルの奥に見えた。

「でも」

『伊東さん』

「はい」

『去年と同じ路線ですよね』

 朔は少し黙った。

「はい」

『何でわざわざ乗るんですか』

「わざわざじゃない」

『一番早いから?』

「はい」

『そこに怪異が出たから、という理由は一ミリもありませんね?』

「……」

『伊東さん』

「ちょっとは」

『乗らないでください!』

 列車がホームへ入ってきた。

 風。

 音。

 ドアが開く。

 朔は乗らなかった。

「乗ってないです」

『今は?』

「今」

『次もです』

「大学遅れる」

『遅れてください』

「出席」

『命と比べないでください』

「まだ死んでない」

『比較の仕方がおかしい!』

 ドアが閉じる。

 列車が去っていく。

 朔はホームに残った。

「じゃあどうすれば」

『そこで待っていてください』

「御厨さん来る?」

『私ではなく、近くの者を向かわせます』

「監視?」

『安全確認です』

「同じでは」

『違います』

 通話が切れた。

 朔はスマートフォンを見る。

 久世からメッセージ。

《今日来る?》

《駅》

《それは来ない奴の返事》

 既視感。

《地下鉄》

 既読。

 少し。

《乗るな》

《御厨さんにも言われた》

《じゃあ乗るな》

《二票》

《民主主義》

 朔はスマートフォンをしまった。

 ホームでは人々が次の電車を待っている。

 何もない。

 白い女も、木も、影も。

 普通の朝だった。

 だから、少しだけ安心した。

 それが、よくなかった。

*

 午前九時十三分。

 結局、朔は地下鉄に乗っていた。

 御厨から指定された警察官が来る前に、次の列車が来た。

 そして、乗った。

 自分でも、かなり怒られるとは思う。

 車内は混んでいた。

 会社員。

 学生。

 老人。

 観光客。

 朔はドア横に立つ。

 去年と同じ路線。

 同じ方向。

 同じ時間帯ではない。

 それでも、身体が少しだけ強張る。

 一年前。

 急停車。

 暗転。

 乗客の悲鳴。

 誰もいない場所から逃げる人。

 朔自身も何かを見た。

 人型。

 たぶん。

 黒い。

 近づいてきた。

 何がしたいの。

 何でこっち来るの。

 当時の自分はそう言ったらしい。

 細部はあまり覚えていない。

 電車が動き出す。

 一駅。

 二駅。

 何もない。

 三駅。

 朔はスマートフォンを見る。

 御厨から着信。

 無視。

 すぐまた鳴る。

 無視。

 三回目。

 出る。

「はい」

『乗りましたね?』

「何で分かったんですか」

『位置情報』

「怖」

『あなたが同意した安全確認用の共有です!』

「そうだった」

『降りてください』

「次で」

『本当に次で降りてください』

「はい」

『あと』

 御厨の声が少し低くなる。

『何か見えても、質問しないでください』

「分かってます」

『分かってる人は乗りません』

「それは別問題」

『別じゃないです』

 その時。

 向かいの女性が、急に息を呑んだ。

 朔が見る。

 二十代くらい。

 会社員。

 顔色が変わっている。

「……」

 女性は座席の下を見ていた。

 朔も見る。

 何もない。

「嫌」

 女性が小さく言う。

「無理」

 隣の男が振り向く。

「大丈夫ですか」

「虫」

「え?」

「いっぱい」

 女性が立ち上がる。

 鞄を落とす。

「無理、無理、無理」

 後ずさる。

 別の場所。

 高校生が天井を見る。

「何あれ」

 震えている。

「何」

 友人が訊く。

「顔」

「どこ」

「あそこ」

 何もない。

 朔の耳元。

『伊東さん?』

 御厨。

「始まった」

『何が』

「去年と同じ」

『次で降りてください』

「まだ駅まで」

 別の乗客。

「来る」

 老人。

「来るな」

 子供が泣き出す。

「お母さん」

 車内。

 一人ずつ。

 違うものを見る。

 蜘蛛。

 人の顔。

 犬。

 血。

 死んだ誰か。

 壁から伸びる手。

 声が重なる。

 朔には。

 何も。

 見えない。

「……」

『伊東さん』

「俺だけ違う」

『何がですか』

「見えない」

『それならそのまま――』

 足音。

 聞こえた。

 後ろ。

 一歩。

 朔が振り向く。

 誰もいない。

 また。

 一歩。

 違う。

 人の足音ではない。

 重い。

 濡れている。

 何かを引きずるような。

 朔の背中が冷える。

『伊東さん?』

「いる」

『何が』

「分からない」

『見ないでください。次で降りて』

 車内アナウンス。

『次は――』

 音が歪む。

 照明。

 一度。

 消える。

 暗い。

 悲鳴。

 すぐ点く。

 車両の奥。

 いた。

 黒い。

 形がない。

 人間くらいの高さ。

 でも。

 人間ではない。

 腕。

 長い。

 顔。

 ない。

 身体の縁だけが、空間から浮いている。

 朔には。

 それが。

 こちらを見ているように思えた。

「……」

『伊東さん』

 御厨の声。

「去年のやつかも」

『絶対に話しかけないでください』

「同じか確認したい」

『確認しなくていいです!』

 怪物。

 一歩。

 近づく。

 周囲の人間は別のものを見ている。

 誰も。

 朔と同じ方向を見ていない。

 足音。

 一歩。

「怖い」

 口から出た。

『何がですか』

 朔は答えない。

 怪物。

 怖い。

 理由。

 分からない。

 でも。

 怖い。

 普通に。

 逃げたい。

 降りたい。

 電車。

 まだ駅に着かない。

 怪物が近づく。

 朔はドアへ背中をつける。

 逃げ場はない。

 足音。

 また。

 近い。

 なぜ。

 何を。

 何がしたい。

 去年と同じ問い。

 でも。

 違う。

 朔は怪物を見る。

 身体。

 揺れている。

 前へ来たいのか。

 来たくないのか。

 分からない。

 止まる。

 進む。

 止まる。

 まるで。

 怯えている。

「……何が怖い?」

『伊東さん!』

 御厨の声。

 怪物が止まった。

 車内。

 悲鳴。

 泣き声。

 ノイズ。

 その中で。

 黒いものだけが。

 止まる。

「何が怖い」

 朔はもう一度言う。

『やめなさい!』

 怪物。

 頭のような部分が。

 少し傾く。

 朔の心臓が速い。

「俺?」

 反応。

 ない。

「お前が怖い?」

 黒い身体が。

 揺れる。

 朔は止まった。

「……」

 今。

 何か。

 変わった。

 怪物の中。

 音。

 声。

 出ている。

 聞き取れない。

「何」

『伊東さん、今何が――』

「黙って」

『は?』

 怪物。

 口はない。

 でも。

 声。

――コワ。

 朔の指が冷える。

「何?」

――コワイ。

 声。

 どこから。

 頭。

 車内。

 分からない。

――コワイ。

「何が」

 怪物が揺れる。

――ワタシ。

 朔の呼吸が止まる。

「……」

――ワタシガ。

 言葉。

 増える。

 形。

 生まれる。

――ワタシガ。

 怪物の輪郭が歪む。

 長い腕が縮む。

 顔のない部分。

 窪み。

 目。

 ではない。

 でも。

 見る場所。

 みたいな。

 何か。

――ワタシハ。

 朔。

 頭痛。

 強い。

 手すりを掴む。

『伊東さん!』

「待って」

――ワタシハ。

「うん」

――ワタシハ。

 怪物が。

 朔を見る。

――ナニ。

 朔は何も言えない。

 怪物。

 初めて。

 質問した。

――オマエハ。

 朔の頭の奥。

 白い女。

 木。

 影。

 久世。

 御厨。

 榊原。

 玲奈。

 自分。

 全部。

――オマエハ ナニ。

 朔は口を開く。

 答え。

 人間。

 大学生。

 伊東朔。

 男。

 二十二歳。

 哲学。

 友達。

 息子。

 観測者。

 質問する人間。

 どれも。

 答えではある。

 でも。

 全部ではない。

「知らない」

 怪物が止まった。

「俺も分からない」

 声。

 静か。

 怪物。

 輪郭。

 崩れる。

 黒。

 細く。

 薄く。

――ワタシ。

 朔は手すりを握る。

「うん」

――ワタシハ。

「分からない?」

 黒いものが震える。

――ワカラナイ。

 消える。

 影。

 煙。

 光。

 何もない。

 その瞬間。

 電車が急停車した。

 身体が前へ投げ出される。

 悲鳴。

 手すり。

 床。

 暗転。

*

 午前九時二十八分。

 朔は駅のホームに座っていた。

 地下鉄は運転を止めている。

 救急隊。

 駅員。

 警察。

 去年と。

 ほとんど同じ。

「伊東さん」

 御厨。

「はい」

「何で」

「すみません」

 御厨が止まった。

「……謝るんですね」

「先に」

「先に?」

「怒られると思ったので」

「分かってたなら乗らないでください!」

「はい」

「質問も!」

「はい」

「何回!」

「二、三回」

「もっとでしょう!」

「数えてたんですか」

「電話繋がってましたからね!」

「そうだった」

 御厨が目を閉じる。

 一度。

 深呼吸。

「怪我は?」

「ないです」

「頭痛」

「少し」

「吐き気」

「ない」

「意識は」

「あります」

「名前と場所、今日の日付を確認します 」

「御厨さん」

「ふざけないでください」

「確認」

「こちらがします」

 御厨はしゃがんで朔の目を見る。

「名前」

「伊東朔」

「場所」

「駅」

「今日の日付」

 答える。

「大丈夫そうですね」

「だから言った」

「だからって勝手に――」

 無線。

 御厨が応答する。

「はい」

『映像、確認できました』

「何が映っていますか」

 一拍。

『乗客が複数、異常行動。対象らしいものは映ってません』

 御厨が朔を見る。

「伊東さんは?」

『車両中央付近で、誰もいない方向に話しかけています』

「……」

「知ってた」

「黙っててください」

『ただ』

 無線。

 御厨の顔が変わる。

「何ですか」

『音声に異常があります』

「音声?」

『車内マイク。ノイズが入ってます』

「どのくらい」

『二・九秒前後』

 御厨が止まる。

 朔も。

「去年は」

 御厨が小さく言う。

『去年の記録も確認中です』

 数秒。

『一致します』

 御厨の表情が固まる。

「同じ長さ?」

『ほぼ。前年二・八秒。今回は二・九秒』

 朔はホームの床を見る。

「音は?」

『似てます』

「声?」

『判別できません』

「聞かせて」

「今はだめです」

「何で」

「今は!」

 朔は黙った。

 御厨は無線を切る。

「黒瀬警部に連絡します」

「はい」

「そのあと病院」

「医務室じゃなく?」

「病院です」

「大学」

「行きません」

「一限」

「もう終わってます!」

 朔は時計を見る。

「本当だ」

「そこ?」

*

 午後零時五十六分。

 県警本部の会議室で、朔は御厨、黒瀬、玲奈、榊原と一緒に車内映像を見ていた。

 乗客が一斉に違う方向を見る。

 逃げる。

 叫ぶ。

 しゃがむ。

 朔だけが、車両中央を見ている。

 そこには何もない。

 映像上は。

「ここ」

 御厨が言う。

 画面の中の朔が話し始める。

 音声。

 雑音。

 悲鳴。

 そして。

 ノイズ。

 低い。

 擦れる。

 声にも、機械音にも聞こえる。

 二・九秒。

 朔の口が止まる。

 次の瞬間、急停車。

 映像終了。

「去年」

 黒瀬が言う。

 別の映像に切り替わる。

 一年前。

 同じ路線。

 同じように人々が混乱する。

 一年前の朔が映っている。

 今より少し髪が短い。

 久世がいれば、変わらないと言いそうだった。

 映像上の朔が、誰もいない方向へ話す。

 ノイズ。

 二・八秒。

 終了。

 黒瀬が画面を止める。

「偶然で片付けるには似すぎてる」

「同じ現象?」

 朔が訊く。

「可能性は高い」

「じゃあ去年の怪物と今日の怪物は同じ?」

「そこまでは言ってない」

「俺には似て見えた」

「去年の見た目、覚えてないんだろ」

「感覚」

「証拠にならん」

「でも」

「伊東」

 黒瀬が低く言う。

「今日、お前は何をした」

「質問」

「何を聞いた」

「何が怖いって」

「そのあと」

「お前が怖いのかって」

「そのあと」

 朔は少し黙る。

「向こうが喋った」

 榊原が顔を上げる。

「何と」

「最初は『怖い』」

「それだけ?」

「『私が』」

 静かになる。

「それから『私は』」

 玲奈が朔を見る。

「最後は?」

「俺に聞いた」

「何を」

「お前は何って」

 榊原が眼鏡を外した。

「……それは」

「俺は知らないって答えた」

「なぜ」

 黒瀬が訊く。

「知らないから」

「そこで格好つけたわけじゃなく?」

「何の」

「いい」

 黒瀬は額を押さえる。

 榊原は少し考えていた。

「もし、伊東君の証言がそのまま起きたことだと仮定するなら」

「はい」

「その存在は、最初から自己を持っていたわけではない可能性があります」

「最初から?」

「少なくとも、言語化された自己」

「『私』」

「そう」

 榊原はモニターを見る。

「《怖い》から《私が怖い》へ移っている」

「主語ができた」

「そう見える」

「俺が質問したから?」

「分かりません」

「そこは決めるな」

 黒瀬が言う。

 玲奈もモニターを見る。

「でも、伊東さんの質問のあとに変化したこと自体は記録できる」

「俺が作った?」

「そういう言い方もしません」

「何で」

「あなたが何かを作ったのか、元々あったものが言葉になったのか、まだ分からないから」

 玲奈は朔を見る。

「ただ、相手に自分について考えさせた可能性はあります」

「考えさせた」

「あなたが普段、人にしてることです」

 朔は黙った。

 少し嫌だった。

「俺、そんな?」

「しますね」

 御厨が言う。

「します」

 榊原も続く。

「します」

 玲奈も頷く。

「全員」

「事実です」

 御厨が言う。

 黒瀬は笑わない。

「問題はそこじゃない」

「何」

「人間相手なら、嫌なら逃げられる」

 黒瀬は映像を指す。

「こいつは?」

 黒い怪物。

 映っていない。

 それでも。

 朔には見えていた。

「逃げられた?」

「……分からない」

「だろ」

 黒瀬は椅子へ背中を預ける。

「お前の質問が、相手に何をしてるのか分からん」

「止めたかもしれない」

「壊したかもしれない」

 朔が黒瀬を見る。

「壊した?」

「自己なんかなかった方が安定してた可能性もある」

 朔は言葉を失う。

「それは」

「分からん」

 黒瀬は続ける。

「だから、分からないまま使うな」

「使ってない」

「なら聞くな」

「それは」

「能力だと思ってないなら、なおさらだ」

 静かになる。

 朔はモニターを見る。

 何もない車両中央。

 そこに、いた。

 怖がっていた。

 たぶん。

 そして、自分を聞いた。

 ワタシハ。

 ナニ。

 胸の奥が少し重くなった。

*

 午後二時十七分。

 県警本部の会議室には、まだ全員残っていた。

 黒瀬のスマートフォンが鳴る。

「黒瀬です」

 数秒。

「何?」

 顔色が変わった。

「映像を送れ」

 通話を切る。

「何があったんですか」

 御厨が訊く。

「大学だ」

 朔が顔を上げる。

「また?」

「中庭の監視カメラに異常が出た」

 黒瀬がノートパソコンを引き寄せる。

 ほどなく映像が届いた。

 中庭。

 舗装。

 ベンチ。

 そして。

 木。

 巨大な。

 校舎より高い木が。

 映っている。

 御厨が黙る。

「今まで」

 朔が訊く。

「映ってなかった?」

「木はな」

 黒瀬が言う。

「今回は映ってる」

 映像。

 枝。

 葉。

 風。

 カメラにも。

 ある。

 その根元。

 白い。

「止めて」

 朔が言う。

 黒瀬が映像を止める。

 木の前。

 白い服。

 長い黒髪。

 女。

 映っている。

 初めて。

「……」

 御厨が息を呑む。

「顔」

 朔が言う。

 見える。

 遠い。

 でも。

 女は。

 こちらを向いている。

 画面越しに。

 カメラを。

 見ている。

「水城さんは」

 玲奈が訊く。

 黒瀬のスマートフォンに、続けて連絡が入る。

 画面を確認した黒瀬の眉が寄った。

「大学で倒れた」

「意識は?」

「ある」

「何て」

 黒瀬が読む。

 少し止まる。

「夢を見てる」

「起きてるのに?」

「本人がそう言ってる」

 朔の胸が冷える。

「木?」

「そうだ」

 映像。

 白い女。

 カメラ。

 その口が動く。

 音声はない。

 でも。

 朔には分かった気がした。

――見つけた。

 違う。

 今度は。

――来て。

 朔は立ち上がる。

「行きます」

「座れ」

 黒瀬。

「でも」

「座れ」

「水城が」

「現地に人間がいる」

「女が」

「見えてる」

「だから」

「だからだ」

 黒瀬が朔を見る。

「お前が行ったら何が起きる」

 朔は答えられない。

 地下鉄。

 怪物。

 ワタシ。

 質問。

 崩れる。

 分からない。

 黒瀬は映像を見る。

「今度は」

 静かに言う。

「向こうから来てる」

 モニターの中。

 白い女。

 巨大な木。

 現実の大学。

 全部。

 同じ画面に映っている。

 もう。

 誰かだけが見ているものではなかった。

第六話 了


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