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深層汚染  作者: 真夜不寝
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5/21

第五話 影

 大学が再開したのは、二日後だった。

 完全に元通り、というわけではない。

 中庭は立入禁止。

 警備員が増えた。

 学生には「体調不良や強い不安を感じた場合は、無理に登校しないように」という通知が出ている。

 巨大な木については、一言も書かれていない。

「そりゃ書けないよな」

 久世が学内掲示を見上げる。

「《中庭に存在しない巨大樹が出現したため休講》とか?」

「読みたい」

「大学の信用が死ぬ」

「でも何て説明してるんだろ」

「集団体調不良」

「都合いい」

「まあ、それ以外書きようないだろ」

 二人は講義棟へ向かう。

 中庭は柵で囲まれていた。

 何人かがスマートフォンを向けている。

 木はない。

 少なくとも、朔には見えない。

 白い女も。

 ただ。

 あの場所を見ると、胸の奥に少しだけ引っかかるものがある。

 帰りたい。

 帰れない。

 誰の感情なのか。

 まだ分からない。

「見るな見るな」

 久世が朔の肩を軽く押した。

「何」

「顔が質問しに行ってる」

「顔で分かる?」

「最近分かる」

「嫌だな」

「俺も嫌だよ。友達の怪異対応スキルだけ上がってく」

 歩き出す。

 その時だった。

 前方で、怒鳴り声がした。

「だから知らねえって!」

 二人とも足を止める。

 講義棟の入口。

 男子学生が二人。

 一人がもう一人の胸ぐらを掴んでいる。

「おい」

 久世が眉を寄せる。

 掴まれている方は困惑していた。

「何だよ急に」

「うるせえ!」

 男が突き飛ばす。

 背中が壁に当たる。

 周囲の学生が離れる。

「ちょっと!」

 誰かが止める。

 男は振り払う。

「俺じゃない!」

 声。

 朔が止まった。

「何?」

 久世が見る。

 男は頭を抱えていた。

「俺じゃない」

「何が」

「知らねえよ」

 自分で言って、自分で混乱している。

「俺じゃないって」

 朔は男を見る。

 顔。

 汗。

 苛立ち。

 怯え。

 その後ろ。

「……」

 もう一つ。

 顔がある。

 同じ男の顔。

 肩越し。

 少しずれて。

 笑っている。

「朔?」

 久世の声。

 男本人は泣きそうな顔をしている。

 その後ろの男は。

 笑う。

 口だけ。

 楽しそうに。

「見える?」

「何が」

 久世には見えていない。

「またかよ」

「多分」

「何」

 男がもう一度、相手へ向かう。

「何なんだよ、お前!」

 拳。

 振り上げる。

 朔が動くより先に。

「やめなさい!」

 女性の声。

 腕を掴む。

 御厨だった。

「離してください!」

「離したら殴るでしょう!」

「俺じゃない!」

「何がですか!」

「俺じゃないんだよ!」

 男は暴れる。

 御厨の後ろから警察官が二人来る。

 押さえる。

「違う!」

「落ち着いて!」

「俺じゃない!」

 朔はその顔を見る。

 本人。

 恐怖。

 後ろ。

 笑顔。

 笑っている。

 ずっと。

「御厨さん」

「伊東さん?」

「後ろ」

「何ですか」

「あの人」

 御厨が男を見る。

「何か見えます?」

「本人」

「それは見えます」

「もう一人」

 御厨の表情が変わる。

「どこに」

「重なってる」

 男が叫ぶ。

「違う!」

 笑う顔。

「俺じゃない!」

 笑う。

 笑う。

 笑う。

*

 午後零時十五分。

 大学の一室。

 また会議室だった。

「最近ここ多い」

 朔が言う。

「好きになりました?」

 御厨が資料を置く。

「ならない」

「私もです」

 久世は席を外されている。

 代わりに、黒瀬、榊原、玲奈がいた。

「さっきの学生、どうなりました」

 朔が訊く。

「今は落ち着いています」

 玲奈が答える。

「殴った?」

「一度だけ。大きな怪我はありません」

「記憶は」

「あります」

「じゃあ何で『俺じゃない』って」

「本人も説明できていません」

 玲奈は手元のメモを見る。

「相手に腹が立ったことは認めています。ただ、殴ろうとした自分を『自分ではない』と感じたそうです」

「二重人格?」

「その言葉は今使いません」

「何で」

「診断の話と、今回起きている現象を混ぜたくないからです」

「でも自分じゃないって」

「そう感じることと、別人格が存在することは同じではありません」

 朔は少し考える。

「俺にはもう一人見えた」

「外見は?」

 御厨が訊く。

「同じ」

「完全に?」

「ほぼ」

「違いは」

「笑ってた」

「本人は?」

「怯えてた」

 御厨が書く。

「他には」

「少し後ろにずれてた」

「透けてました?」

「たぶん」

「たぶん」

「ちゃんと見てる余裕なかった」

「それは普通です」

 黒瀬が資料を机へ放る。

「一件じゃない」

 朔が見る。

「他にも?」

「昨日から六件」

「全部暴力?」

「いや」

 黒瀬が頁をめくる。

「突然、恋人のスマートフォンを壊した。上司に暴言を吐いた。店の商品を盗ろうとした。自分の子供を置いて出ていこうとした」

「ばらばら」

「共通してるのは、その後だ」

 御厨が続ける。

「全員が似た言い方をしています」

「俺じゃない?」

「『自分じゃない』『そんなこと考えていない』『勝手に身体が動いた』」

「白い女を見た人?」

「全員、駅前か先日の大学周辺にいました」

 朔は黙る。

「感染?」

「まだそう呼ばない」

 黒瀬が言う。

「名前をつけると、それで分かった気になる」

「はい」

「素直だな」

「何回か言われたので」

 榊原が資料を見ていた。

「一つ、連想はあります」

「ユング?」

 朔が訊く。

 榊原が嫌そうな顔をする。

「なぜ先に言うんです」

「先生がそういう顔した」

「どういう顔ですか」

「便利箱を開けそうな顔」

「閉じますよ」

 黒瀬が額を押さえる。

「話を進めてくれ」

 榊原は咳払いをした。

「《影》という概念があります」

「シャドウ」

「はい」

 榊原は朔を見る。

「ただし、ここでいきなり『ユングのシャドウが実体化した』などと結論づけるのはやめてください」

「言ってない」

「予防です」

「続けてください」

 御厨が促す。

「人は、自分について一つの像を持っています」

 榊原が言う。

「私はこういう人間だ。こういうことはしない。こういう感情は持たない」

「自己像」

「そうです」

「しかし、実際の人間はそれほど綺麗ではない」

「何を隠してるんですか」

「なぜ私の話になるんです」

「例として」

「なりません」

 榊原はそのまま続ける。

「自分の自己像に収まらない欲望や感情を、意識の外へ押し出すことがあります」

「殴りたいとか」

「嫉妬とか」

 玲奈が補う。

「逃げたい。壊したい。見捨てたい。誰かより上でいたい。そういうものもあります」

「悪いもの?」

 朔が訊く。

 榊原は首を振った。

「そこを単純化してはいけません」

「影は悪ではない?」

「少なくとも、それだけではない」

「じゃあ何」

「自分が《自分ではない》としたものです」

 朔はさっきの学生を思い出す。

 本人。

 怯えている。

 後ろ。

 笑っている。

「だから『俺じゃない』」

「もし、この概念が今回の現象を考える助けになるなら」

 榊原は慎重に言う。

「そういう可能性はあります」

「でも」

 玲奈が言う。

「自分の中に嫌な考えが浮かぶこと自体は、異常ではありません」

「人を殴りたいとかも?」

「あります」

「思うことと、することは別です」

「思っただけなら」

「その人の一部ではある。でも、その人の全部ではない」

 朔は少し黙った。

「じゃあ、俺じゃないっていうのは」

「分からない」

 玲奈は即答する。

「本当に何か外から入ったのかもしれない。普段押し込めていたものが強く出ただけかもしれない。両方が重なっているかもしれない」

「判断できない」

「今は」

 黒瀬が腕を組む。

「問題は、現実に人を殴ってることだ」

「黒瀬さんはそこなんですね」

「そこ以外どこを見る」

「正体」

「正体が分かるまで死人が待ってくれるなら、好きなだけ考える」

 朔は黙った。

 黒瀬は資料を閉じる。

「当面、白い女への接触者は一人にしない」

「俺も?」

「特にお前」

「何で」

「聞くな」

「今質問しただけ」

「そういうところだ」

*

 午後三時四十分。

「何で俺なん」

 久世が言った。

「一人にするなって」

「警察の指示で友達やってるみたいで嫌なんだけど」

「元から友達では」

「急に不安にさせんな」

 二人は大学近くのファミリーレストランへ向かっていた。

 大学は通常授業に戻っているが、朔は午後の講義を休むよう言われた。

 黒瀬。

 御厨。

 玲奈。

 三人に。

「帰宅して安静に、じゃないんだ」

「一人になるなって」

「だから俺」

「近かった」

「扱い雑」

 駐車場へ入ったところで、朔は端に停まっている車に気づいた。

 見覚えがある。

 御厨の車だった。

「いるじゃん」

 久世も気づく。

「監視?」

「近くにはいるって言ってた」

「本当にいるとは思わんかった」

「警察なので」

「警察って友達のファミレスまでついてくる職業だっけ」

「説明未了事案なので」

「その言葉、何でも許せそうだな」

 御厨は車から出てこなかった。

 こちらを見ている様子もない。

 ただ、何かあればすぐ来られる距離にいる。

 二人は店へ入った。

 席について、久世はポテトを食べ始める。

「で、影?」

「仮」

「もう一人の自分みたいな?」

「それも違うらしい」

「じゃあ何」

「自分じゃないことにした自分」

「哲学やめて」

「俺じゃなくて榊原先生」

「先生もやめて」

 朔はブラックコーヒーを飲む。

「久世はある?」

「何が」

「自分じゃないことにしてるもの」

「知らん」

「例えば」

「今質問禁止じゃないの?」

「怪異に対して」

「俺に対しても一日くらい禁止してくれんかな」

「何で」

「疲れるから」

「でも」

「ほら」

 久世が指を差す。

「それ」

「何」

「絶対続けるやつ」

 朔は少し考える。

「気になる」

「知ってる」

「久世は俺殴りたいと思ったことある?」

「ある」

「あるんだ」

「今も三割くらいある」

「何で」

「そういうとこ」

 朔は笑った。

「でも殴らない」

「普通はな」

「何で」

「めんどいから」

「道徳じゃないんだ」

「結果的に善良なら理由なんかどうでもいいだろ」

「それは」

「始まった」

 久世はポテトを一本、朔の前に置いた。

「食え」

「いらない」

「黙るから」

「口に物入れればいいと思ってる?」

「結構効く」

 朔はポテトを食べた。

 塩。

 少し冷めている。

「ほら」

「何が」

「黙った」

「食べてたから」

「平和」

 久世は満足そうにドリンクバーへ立った。

 朔はその背中を見る。

 普通。

 いつもの久世。

 うるさい。

 雑。

 距離が近い。

 でも。

 嫌ではない。

 たぶん。

 久世が戻ってくる。

「お前またブラック?」

「うん」

「それ何杯目」

「三」

「胃死ぬぞ」

「平気」

「そういう奴がある日急に死ぬ」

「コーヒーで?」

「知らんけど」

 朔は少し眉を寄せる。

「知らないなら」

「何」

「言わなくてよくない?」

「心配してやってんの」

「雑な心配」

「うるせえな」

 久世が笑う。

 その瞬間。

 思った。

 殴れば。

 黙る。

 朔の手が止まった。

「……」

「何」

 久世がストローを咥えたまま見る。

「いや」

「また何か見えた?」

「違う」

「顔怖いけど」

 朔は自分の手を見る。

 何もしていない。

 ただ。

 思った。

 殴れば黙る。

 それだけ。

 そんなこと。

 普通に。

「朔?」

 視界の端。

 窓。

 店内が映っている。

 テーブル。

 久世。

 自分。

 そして。

 自分の後ろ。

 もう一人。

 伊東朔。

 笑っていた。

「……」

「おい」

 振り返る。

 誰もいない。

 窓。

 いる。

 自分。

 笑っている。

「来た?」

 久世の声が低くなる。

「多分」

「何が」

「俺」

「お前はここにいるだろ」

「もう一人」

 久世が窓を見る。

「見えん」

「笑ってる」

「何で」

「知らない」

 笑顔。

 自分の顔。

 なのに。

 嫌だった。

「違う」

「何が」

「俺、あんな顔しない」

 窓の中。

 笑う。

 少し。

 大きく。

「朔」

「俺じゃない」

 口に出た。

 その瞬間。

 背中が冷えた。

 さっきの学生。

 俺じゃない。

 久世が黙る。

「朔」

「違う」

 笑う。

 殴れば。

 黙る。

「俺は別に」

 久世が何か言う。

「一回警察呼ぶわ」

「待って」

「待たん」

「違う」

「何が」

「俺はお前殴りたいとか思ってない」

 久世が止まる。

「今それ言う?」

「違うから」

「何が違う」

「別に」

「朔」

「うるさい」

 声が強くなった。

 久世が黙る。

 それが。

 少し。

 気持ちよかった。

 笑顔。

 窓。

 近づく。

 同じ顔。

「……」

「朔」

「うるさいって」

 朔の手が伸びた。

 久世の胸元。

 服を掴む。

「おい」

 久世の顔。

 驚き。

 恐怖。

 ほんの少し。

 その顔を見て。

 胸の奥で。

 何かが。

 笑った。

 違う。

 俺じゃない。

 違う。

「伊東さん!」

 声。

 手首。

 掴まれる。

 御厨。

「離してください!」

 強い。

「俺は」

「久世さんから手を離して!」

 朔は手を見る。

 自分の手。

 久世の服を掴んでいる。

 離す。

 一歩。

 下がる。

 窓。

 もう一人。

 まだ笑っている。

*

 午後四時十五分。

 ファミリーレストランの駐車場に停めた御厨の車の中で、朔は後部座席に座っていた。

 御厨は運転席。玲奈は助手席にいる。

 久世は店内に残っていた。

 怪我はない。

 首元が少し赤くなっただけだった。

 朔は黙って窓を見ている。

 玲奈が振り返った。

「今も見えます?」

「窓に」

「どんな顔」

「笑ってる」

「怖い?」

「気持ち悪い」

「他には」

「腹立つ」

「誰に?」

「分からない」

「私に?」

「違う」

「久世さんに?」

「違う」

「自分に?」

 朔は黙る。

 窓。

 反射。

 もう一人。

 笑っている。

「俺じゃない」

 玲奈はすぐには返さなかった。

「さっきも、そう言いましたね」

「俺じゃないから」

「何が?」

「久世を」

 喉が詰まる。

「殴りたいとか」

「思ってない?」

「思ってない」

「本当に?」

「はい」

 玲奈は少し黙る。

「伊東さん」

「はい」

「私、あなたが久世さんを殴りたい人だと言いたいわけじゃありません」

「じゃあ」

「殴りたいと思った瞬間が、一度もなかったですか」

「ない」

 即答した。

 窓の中の朔が笑う。

「……」

「さっき、何がありました?」

「何も」

「久世さんが何か言った」

「コーヒー飲みすぎって」

「それで?」

「別に」

「そのあと」

 朔は黙る。

 殴れば。

 黙る。

「……」

 玲奈は待つ。

 御厨も何も言わない。

 車内。

 エンジン音。

 外。

 車。

 空。

 窓。

 笑う自分。

「伊東さん」

「はい」

「思ったことと、したことは別です」

 榊原と同じ言葉。

 でも。

 玲奈が言うと。

 少し違う。

「嫌なことを思ったからって、それだけであなたが嫌な人間になるわけじゃない」

「でも」

「でも?」

「思ってない」

「そうですか」

 否定しない。

 追わない。

 それが。

 逆に。

 気になる。

「……ちょっと」

 口から出た。

 玲奈は黙っている。

「何ですか」

 御厨も前を向いたまま。

 朔は窓を見る。

 笑顔。

「ちょっとだけ」

 喉。

 乾く。

「殴ったら黙るのにって」

 言った。

 窓の中。

 笑顔が止まった。

「……」

「思った」

 もう一度。

「久世がうるさくて」

 手。

 少し震える。

「ちょっと殴りたいと思った」

 反射。

 もう一人の朔。

 顔。

 笑っていない。

 ただ。

 自分を見る。

「でも」

 朔は続ける。

「殴りたいと思っただけで、殴るつもりはなかった」

 玲奈が頷く。

「はい」

「なのに掴んだ」

「はい」

「そこは俺?」

「それを私に決めてほしいですか」

 朔が止まる。

「……分からない」

「なら今は、それでいいです」

 窓。

 もう一人。

 薄い。

「消える」

 御厨が振り返る。

「何がですか」

「俺」

「伊東さんはいます」

「もう一人」

 輪郭。

 透明。

 消える。

 最後まで。

 自分と同じ顔だった。

 朔は窓を見る。

 自分だけ。

 疲れた顔。

 普通の。

 伊東朔。

「消えた」

 玲奈が少し息を吐いた。

「何で」

 朔が訊く。

「分かりません」

「認めたから?」

「可能性はあります」

「影だった?」

「それも分かりません」

「何も分からない」

「でも、一つ分かったでしょう」

「何」

「あなたは、久世さんを少し殴りたいと思った」

「そこ?」

「そこです」

 朔は顔をしかめた。

「嫌だな」

「そうですか?」

「友達なのに」

「友達に腹が立たない人しか友達になれないなら、人間関係はかなり減ります」

 御厨が前を向いたまま言う。

「私は黒瀬警部を殴りたいと思ったことありますよ」

 玲奈が御厨を見る。

「あります?」

「何度か」

「本人に言ったことは」

「ありません」

「今記録します?」

「やめてください」

 朔は少し笑った。

 笑えた。

 窓を見る。

 もう誰もいない。

*

 午後六時。

 県警本部。

 黒瀬は報告書を読んでいた。

 向かいには朔、御厨、玲奈が座っている。

「つまり、伊東にも出た」

「はい」

 御厨が答える。

「本人と同じ外見の像を視認。久世さんに対する攻撃衝動を否定している間は継続。本人が認めた後、消失しました」

「他の六件は」

「まだ同様の確認はできていません」

 玲奈が言う。

「ただ、全員に『その行為や感情は自分のものではない』という強い否認があります」

 黒瀬は朔を見る。

「お前は」

「ちょっと殴りたかった」

「久世を」

「はい」

「何で」

「うるさかったから」

「浅いな」

「俺も思う」

「本人には謝った?」

「まだ」

「今すぐ謝れ」

「はい」

 黒瀬は資料へ目を戻す。

「榊原先生は《影》」

「仮説です」

 玲奈が言う。

「本人もそこは強調していました」

「宇佐見は」

「私は、概念より反応を見ます」

「反応」

「否定している間は、伊東さんの知覚上の像が強くなった。自分の感情として認めたあと消えた」

「なら認めれば終わる?」

 朔が訊く。

「そう単純にしないでください」

「何で」

「『認めろ』が新しい命令になるからです」

 朔は少し黙る。

「思ってもないことまで『自分の本心です』と言わせ始めたら、今度はそっちが危ない」

「じゃあ」

「本人が、自分で自分の感情を確認するしかありません」

「面倒」

「人間なので」

 御厨が少し笑う。

 黒瀬は机に背中を預けた。

「駅前の女」

「はい」

「大学の木」

「はい」

「今回の《影》」

 一つずつ指で机を叩く。

「出方が全部違う」

 朔が見る。

「同じものじゃない?」

「知らん」

「でも白い女に関わった人に出てる」

「そうだ」

「じゃあ」

「伊東」

 黒瀬が遮る。

「一つだけ言っとく」

「何」

「お前は今回も、他の奴と効き方が違う」

 朔が黙る。

「他の連中は、行動したあとに『自分じゃない』と言ってる」

「俺も掴んだ」

「その前から見えてた」

「……」

「しかも、お前は自分で現象を変えた可能性がある」

「認めただけ」

「それで変わったなら、それが問題だ」

 朔は少し考える。

「耐性じゃない」

「前からそう言ってる」

「じゃあ何」

 黒瀬は答えなかった。

 机の上には、報告書がある。

《精神干渉耐性の可能性》

 数日前、県警の医務室で保留にされた言葉。

 まだ。

 別の名前はない。

*

 夜。

 朔は久世へ電話をかけた。

 三回。

 呼び出し。

『もしもし』

「俺」

『表示されてる』

「今日」

『うん』

「ごめん」

 少し沈黙。

『何が』

「掴んだ」

『そこ?』

「他にある?」

『殴りたいと思ったこと』

「それも」

『別に』

「いいの」

『俺もお前殴りたい時あるって言っただろ』

「三割」

『今五割』

「上がってる」

『当たり前だろ』

 朔は少し笑う。

「怖くなかった?」

 向こうが少し黙る。

『ちょっと』

「そう」

『でも』

「何」

『お前、あの時めちゃくちゃ怖そうだったぞ』

「俺が?」

『俺より』

 朔は自分の部屋を見る。

 机。

 本。

 服。

 暗い窓。

 自分の反射。

 もう一人はいない。

『なあ』

「何」

『あれ、本当にお前じゃなかったの』

 朔は答えようとする。

 俺じゃない。

 違う。

 言葉が浮かぶ。

 でも。

 少しだけ。

 殴りたかった。

 腹が立った。

 黙ればいいと思った。

「分からない」

『またそれ』

「でも」

 朔は窓の自分を見る。

「全部違うとも思わない」

 久世がしばらく黙った。

『そっか』

「うん」

『じゃあ次殴りたくなったら先に言え』

「何で」

『逃げる』

「友達では」

『友達だから逃げるんだよ』

 通話が切れた。

 朔はスマートフォンを置く。

 窓。

 自分。

 普通の顔。

 影はない。

 それでも。

 消えたわけではない。

 たぶん。

 見えなくなっただけ。

 自分の中に。

 最初からあったものとして。

第五話 了


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