第五話 影
大学が再開したのは、二日後だった。
完全に元通り、というわけではない。
中庭は立入禁止。
警備員が増えた。
学生には「体調不良や強い不安を感じた場合は、無理に登校しないように」という通知が出ている。
巨大な木については、一言も書かれていない。
「そりゃ書けないよな」
久世が学内掲示を見上げる。
「《中庭に存在しない巨大樹が出現したため休講》とか?」
「読みたい」
「大学の信用が死ぬ」
「でも何て説明してるんだろ」
「集団体調不良」
「都合いい」
「まあ、それ以外書きようないだろ」
二人は講義棟へ向かう。
中庭は柵で囲まれていた。
何人かがスマートフォンを向けている。
木はない。
少なくとも、朔には見えない。
白い女も。
ただ。
あの場所を見ると、胸の奥に少しだけ引っかかるものがある。
帰りたい。
帰れない。
誰の感情なのか。
まだ分からない。
「見るな見るな」
久世が朔の肩を軽く押した。
「何」
「顔が質問しに行ってる」
「顔で分かる?」
「最近分かる」
「嫌だな」
「俺も嫌だよ。友達の怪異対応スキルだけ上がってく」
歩き出す。
その時だった。
前方で、怒鳴り声がした。
「だから知らねえって!」
二人とも足を止める。
講義棟の入口。
男子学生が二人。
一人がもう一人の胸ぐらを掴んでいる。
「おい」
久世が眉を寄せる。
掴まれている方は困惑していた。
「何だよ急に」
「うるせえ!」
男が突き飛ばす。
背中が壁に当たる。
周囲の学生が離れる。
「ちょっと!」
誰かが止める。
男は振り払う。
「俺じゃない!」
声。
朔が止まった。
「何?」
久世が見る。
男は頭を抱えていた。
「俺じゃない」
「何が」
「知らねえよ」
自分で言って、自分で混乱している。
「俺じゃないって」
朔は男を見る。
顔。
汗。
苛立ち。
怯え。
その後ろ。
「……」
もう一つ。
顔がある。
同じ男の顔。
肩越し。
少しずれて。
笑っている。
「朔?」
久世の声。
男本人は泣きそうな顔をしている。
その後ろの男は。
笑う。
口だけ。
楽しそうに。
「見える?」
「何が」
久世には見えていない。
「またかよ」
「多分」
「何」
男がもう一度、相手へ向かう。
「何なんだよ、お前!」
拳。
振り上げる。
朔が動くより先に。
「やめなさい!」
女性の声。
腕を掴む。
御厨だった。
「離してください!」
「離したら殴るでしょう!」
「俺じゃない!」
「何がですか!」
「俺じゃないんだよ!」
男は暴れる。
御厨の後ろから警察官が二人来る。
押さえる。
「違う!」
「落ち着いて!」
「俺じゃない!」
朔はその顔を見る。
本人。
恐怖。
後ろ。
笑顔。
笑っている。
ずっと。
「御厨さん」
「伊東さん?」
「後ろ」
「何ですか」
「あの人」
御厨が男を見る。
「何か見えます?」
「本人」
「それは見えます」
「もう一人」
御厨の表情が変わる。
「どこに」
「重なってる」
男が叫ぶ。
「違う!」
笑う顔。
「俺じゃない!」
笑う。
笑う。
笑う。
*
午後零時十五分。
大学の一室。
また会議室だった。
「最近ここ多い」
朔が言う。
「好きになりました?」
御厨が資料を置く。
「ならない」
「私もです」
久世は席を外されている。
代わりに、黒瀬、榊原、玲奈がいた。
「さっきの学生、どうなりました」
朔が訊く。
「今は落ち着いています」
玲奈が答える。
「殴った?」
「一度だけ。大きな怪我はありません」
「記憶は」
「あります」
「じゃあ何で『俺じゃない』って」
「本人も説明できていません」
玲奈は手元のメモを見る。
「相手に腹が立ったことは認めています。ただ、殴ろうとした自分を『自分ではない』と感じたそうです」
「二重人格?」
「その言葉は今使いません」
「何で」
「診断の話と、今回起きている現象を混ぜたくないからです」
「でも自分じゃないって」
「そう感じることと、別人格が存在することは同じではありません」
朔は少し考える。
「俺にはもう一人見えた」
「外見は?」
御厨が訊く。
「同じ」
「完全に?」
「ほぼ」
「違いは」
「笑ってた」
「本人は?」
「怯えてた」
御厨が書く。
「他には」
「少し後ろにずれてた」
「透けてました?」
「たぶん」
「たぶん」
「ちゃんと見てる余裕なかった」
「それは普通です」
黒瀬が資料を机へ放る。
「一件じゃない」
朔が見る。
「他にも?」
「昨日から六件」
「全部暴力?」
「いや」
黒瀬が頁をめくる。
「突然、恋人のスマートフォンを壊した。上司に暴言を吐いた。店の商品を盗ろうとした。自分の子供を置いて出ていこうとした」
「ばらばら」
「共通してるのは、その後だ」
御厨が続ける。
「全員が似た言い方をしています」
「俺じゃない?」
「『自分じゃない』『そんなこと考えていない』『勝手に身体が動いた』」
「白い女を見た人?」
「全員、駅前か先日の大学周辺にいました」
朔は黙る。
「感染?」
「まだそう呼ばない」
黒瀬が言う。
「名前をつけると、それで分かった気になる」
「はい」
「素直だな」
「何回か言われたので」
榊原が資料を見ていた。
「一つ、連想はあります」
「ユング?」
朔が訊く。
榊原が嫌そうな顔をする。
「なぜ先に言うんです」
「先生がそういう顔した」
「どういう顔ですか」
「便利箱を開けそうな顔」
「閉じますよ」
黒瀬が額を押さえる。
「話を進めてくれ」
榊原は咳払いをした。
「《影》という概念があります」
「シャドウ」
「はい」
榊原は朔を見る。
「ただし、ここでいきなり『ユングのシャドウが実体化した』などと結論づけるのはやめてください」
「言ってない」
「予防です」
「続けてください」
御厨が促す。
「人は、自分について一つの像を持っています」
榊原が言う。
「私はこういう人間だ。こういうことはしない。こういう感情は持たない」
「自己像」
「そうです」
「しかし、実際の人間はそれほど綺麗ではない」
「何を隠してるんですか」
「なぜ私の話になるんです」
「例として」
「なりません」
榊原はそのまま続ける。
「自分の自己像に収まらない欲望や感情を、意識の外へ押し出すことがあります」
「殴りたいとか」
「嫉妬とか」
玲奈が補う。
「逃げたい。壊したい。見捨てたい。誰かより上でいたい。そういうものもあります」
「悪いもの?」
朔が訊く。
榊原は首を振った。
「そこを単純化してはいけません」
「影は悪ではない?」
「少なくとも、それだけではない」
「じゃあ何」
「自分が《自分ではない》としたものです」
朔はさっきの学生を思い出す。
本人。
怯えている。
後ろ。
笑っている。
「だから『俺じゃない』」
「もし、この概念が今回の現象を考える助けになるなら」
榊原は慎重に言う。
「そういう可能性はあります」
「でも」
玲奈が言う。
「自分の中に嫌な考えが浮かぶこと自体は、異常ではありません」
「人を殴りたいとかも?」
「あります」
「思うことと、することは別です」
「思っただけなら」
「その人の一部ではある。でも、その人の全部ではない」
朔は少し黙った。
「じゃあ、俺じゃないっていうのは」
「分からない」
玲奈は即答する。
「本当に何か外から入ったのかもしれない。普段押し込めていたものが強く出ただけかもしれない。両方が重なっているかもしれない」
「判断できない」
「今は」
黒瀬が腕を組む。
「問題は、現実に人を殴ってることだ」
「黒瀬さんはそこなんですね」
「そこ以外どこを見る」
「正体」
「正体が分かるまで死人が待ってくれるなら、好きなだけ考える」
朔は黙った。
黒瀬は資料を閉じる。
「当面、白い女への接触者は一人にしない」
「俺も?」
「特にお前」
「何で」
「聞くな」
「今質問しただけ」
「そういうところだ」
*
午後三時四十分。
「何で俺なん」
久世が言った。
「一人にするなって」
「警察の指示で友達やってるみたいで嫌なんだけど」
「元から友達では」
「急に不安にさせんな」
二人は大学近くのファミリーレストランへ向かっていた。
大学は通常授業に戻っているが、朔は午後の講義を休むよう言われた。
黒瀬。
御厨。
玲奈。
三人に。
「帰宅して安静に、じゃないんだ」
「一人になるなって」
「だから俺」
「近かった」
「扱い雑」
駐車場へ入ったところで、朔は端に停まっている車に気づいた。
見覚えがある。
御厨の車だった。
「いるじゃん」
久世も気づく。
「監視?」
「近くにはいるって言ってた」
「本当にいるとは思わんかった」
「警察なので」
「警察って友達のファミレスまでついてくる職業だっけ」
「説明未了事案なので」
「その言葉、何でも許せそうだな」
御厨は車から出てこなかった。
こちらを見ている様子もない。
ただ、何かあればすぐ来られる距離にいる。
二人は店へ入った。
席について、久世はポテトを食べ始める。
「で、影?」
「仮」
「もう一人の自分みたいな?」
「それも違うらしい」
「じゃあ何」
「自分じゃないことにした自分」
「哲学やめて」
「俺じゃなくて榊原先生」
「先生もやめて」
朔はブラックコーヒーを飲む。
「久世はある?」
「何が」
「自分じゃないことにしてるもの」
「知らん」
「例えば」
「今質問禁止じゃないの?」
「怪異に対して」
「俺に対しても一日くらい禁止してくれんかな」
「何で」
「疲れるから」
「でも」
「ほら」
久世が指を差す。
「それ」
「何」
「絶対続けるやつ」
朔は少し考える。
「気になる」
「知ってる」
「久世は俺殴りたいと思ったことある?」
「ある」
「あるんだ」
「今も三割くらいある」
「何で」
「そういうとこ」
朔は笑った。
「でも殴らない」
「普通はな」
「何で」
「めんどいから」
「道徳じゃないんだ」
「結果的に善良なら理由なんかどうでもいいだろ」
「それは」
「始まった」
久世はポテトを一本、朔の前に置いた。
「食え」
「いらない」
「黙るから」
「口に物入れればいいと思ってる?」
「結構効く」
朔はポテトを食べた。
塩。
少し冷めている。
「ほら」
「何が」
「黙った」
「食べてたから」
「平和」
久世は満足そうにドリンクバーへ立った。
朔はその背中を見る。
普通。
いつもの久世。
うるさい。
雑。
距離が近い。
でも。
嫌ではない。
たぶん。
久世が戻ってくる。
「お前またブラック?」
「うん」
「それ何杯目」
「三」
「胃死ぬぞ」
「平気」
「そういう奴がある日急に死ぬ」
「コーヒーで?」
「知らんけど」
朔は少し眉を寄せる。
「知らないなら」
「何」
「言わなくてよくない?」
「心配してやってんの」
「雑な心配」
「うるせえな」
久世が笑う。
その瞬間。
思った。
殴れば。
黙る。
朔の手が止まった。
「……」
「何」
久世がストローを咥えたまま見る。
「いや」
「また何か見えた?」
「違う」
「顔怖いけど」
朔は自分の手を見る。
何もしていない。
ただ。
思った。
殴れば黙る。
それだけ。
そんなこと。
普通に。
「朔?」
視界の端。
窓。
店内が映っている。
テーブル。
久世。
自分。
そして。
自分の後ろ。
もう一人。
伊東朔。
笑っていた。
「……」
「おい」
振り返る。
誰もいない。
窓。
いる。
自分。
笑っている。
「来た?」
久世の声が低くなる。
「多分」
「何が」
「俺」
「お前はここにいるだろ」
「もう一人」
久世が窓を見る。
「見えん」
「笑ってる」
「何で」
「知らない」
笑顔。
自分の顔。
なのに。
嫌だった。
「違う」
「何が」
「俺、あんな顔しない」
窓の中。
笑う。
少し。
大きく。
「朔」
「俺じゃない」
口に出た。
その瞬間。
背中が冷えた。
さっきの学生。
俺じゃない。
久世が黙る。
「朔」
「違う」
笑う。
殴れば。
黙る。
「俺は別に」
久世が何か言う。
「一回警察呼ぶわ」
「待って」
「待たん」
「違う」
「何が」
「俺はお前殴りたいとか思ってない」
久世が止まる。
「今それ言う?」
「違うから」
「何が違う」
「別に」
「朔」
「うるさい」
声が強くなった。
久世が黙る。
それが。
少し。
気持ちよかった。
笑顔。
窓。
近づく。
同じ顔。
「……」
「朔」
「うるさいって」
朔の手が伸びた。
久世の胸元。
服を掴む。
「おい」
久世の顔。
驚き。
恐怖。
ほんの少し。
その顔を見て。
胸の奥で。
何かが。
笑った。
違う。
俺じゃない。
違う。
「伊東さん!」
声。
手首。
掴まれる。
御厨。
「離してください!」
強い。
「俺は」
「久世さんから手を離して!」
朔は手を見る。
自分の手。
久世の服を掴んでいる。
離す。
一歩。
下がる。
窓。
もう一人。
まだ笑っている。
*
午後四時十五分。
ファミリーレストランの駐車場に停めた御厨の車の中で、朔は後部座席に座っていた。
御厨は運転席。玲奈は助手席にいる。
久世は店内に残っていた。
怪我はない。
首元が少し赤くなっただけだった。
朔は黙って窓を見ている。
玲奈が振り返った。
「今も見えます?」
「窓に」
「どんな顔」
「笑ってる」
「怖い?」
「気持ち悪い」
「他には」
「腹立つ」
「誰に?」
「分からない」
「私に?」
「違う」
「久世さんに?」
「違う」
「自分に?」
朔は黙る。
窓。
反射。
もう一人。
笑っている。
「俺じゃない」
玲奈はすぐには返さなかった。
「さっきも、そう言いましたね」
「俺じゃないから」
「何が?」
「久世を」
喉が詰まる。
「殴りたいとか」
「思ってない?」
「思ってない」
「本当に?」
「はい」
玲奈は少し黙る。
「伊東さん」
「はい」
「私、あなたが久世さんを殴りたい人だと言いたいわけじゃありません」
「じゃあ」
「殴りたいと思った瞬間が、一度もなかったですか」
「ない」
即答した。
窓の中の朔が笑う。
「……」
「さっき、何がありました?」
「何も」
「久世さんが何か言った」
「コーヒー飲みすぎって」
「それで?」
「別に」
「そのあと」
朔は黙る。
殴れば。
黙る。
「……」
玲奈は待つ。
御厨も何も言わない。
車内。
エンジン音。
外。
車。
空。
窓。
笑う自分。
「伊東さん」
「はい」
「思ったことと、したことは別です」
榊原と同じ言葉。
でも。
玲奈が言うと。
少し違う。
「嫌なことを思ったからって、それだけであなたが嫌な人間になるわけじゃない」
「でも」
「でも?」
「思ってない」
「そうですか」
否定しない。
追わない。
それが。
逆に。
気になる。
「……ちょっと」
口から出た。
玲奈は黙っている。
「何ですか」
御厨も前を向いたまま。
朔は窓を見る。
笑顔。
「ちょっとだけ」
喉。
乾く。
「殴ったら黙るのにって」
言った。
窓の中。
笑顔が止まった。
「……」
「思った」
もう一度。
「久世がうるさくて」
手。
少し震える。
「ちょっと殴りたいと思った」
反射。
もう一人の朔。
顔。
笑っていない。
ただ。
自分を見る。
「でも」
朔は続ける。
「殴りたいと思っただけで、殴るつもりはなかった」
玲奈が頷く。
「はい」
「なのに掴んだ」
「はい」
「そこは俺?」
「それを私に決めてほしいですか」
朔が止まる。
「……分からない」
「なら今は、それでいいです」
窓。
もう一人。
薄い。
「消える」
御厨が振り返る。
「何がですか」
「俺」
「伊東さんはいます」
「もう一人」
輪郭。
透明。
消える。
最後まで。
自分と同じ顔だった。
朔は窓を見る。
自分だけ。
疲れた顔。
普通の。
伊東朔。
「消えた」
玲奈が少し息を吐いた。
「何で」
朔が訊く。
「分かりません」
「認めたから?」
「可能性はあります」
「影だった?」
「それも分かりません」
「何も分からない」
「でも、一つ分かったでしょう」
「何」
「あなたは、久世さんを少し殴りたいと思った」
「そこ?」
「そこです」
朔は顔をしかめた。
「嫌だな」
「そうですか?」
「友達なのに」
「友達に腹が立たない人しか友達になれないなら、人間関係はかなり減ります」
御厨が前を向いたまま言う。
「私は黒瀬警部を殴りたいと思ったことありますよ」
玲奈が御厨を見る。
「あります?」
「何度か」
「本人に言ったことは」
「ありません」
「今記録します?」
「やめてください」
朔は少し笑った。
笑えた。
窓を見る。
もう誰もいない。
*
午後六時。
県警本部。
黒瀬は報告書を読んでいた。
向かいには朔、御厨、玲奈が座っている。
「つまり、伊東にも出た」
「はい」
御厨が答える。
「本人と同じ外見の像を視認。久世さんに対する攻撃衝動を否定している間は継続。本人が認めた後、消失しました」
「他の六件は」
「まだ同様の確認はできていません」
玲奈が言う。
「ただ、全員に『その行為や感情は自分のものではない』という強い否認があります」
黒瀬は朔を見る。
「お前は」
「ちょっと殴りたかった」
「久世を」
「はい」
「何で」
「うるさかったから」
「浅いな」
「俺も思う」
「本人には謝った?」
「まだ」
「今すぐ謝れ」
「はい」
黒瀬は資料へ目を戻す。
「榊原先生は《影》」
「仮説です」
玲奈が言う。
「本人もそこは強調していました」
「宇佐見は」
「私は、概念より反応を見ます」
「反応」
「否定している間は、伊東さんの知覚上の像が強くなった。自分の感情として認めたあと消えた」
「なら認めれば終わる?」
朔が訊く。
「そう単純にしないでください」
「何で」
「『認めろ』が新しい命令になるからです」
朔は少し黙る。
「思ってもないことまで『自分の本心です』と言わせ始めたら、今度はそっちが危ない」
「じゃあ」
「本人が、自分で自分の感情を確認するしかありません」
「面倒」
「人間なので」
御厨が少し笑う。
黒瀬は机に背中を預けた。
「駅前の女」
「はい」
「大学の木」
「はい」
「今回の《影》」
一つずつ指で机を叩く。
「出方が全部違う」
朔が見る。
「同じものじゃない?」
「知らん」
「でも白い女に関わった人に出てる」
「そうだ」
「じゃあ」
「伊東」
黒瀬が遮る。
「一つだけ言っとく」
「何」
「お前は今回も、他の奴と効き方が違う」
朔が黙る。
「他の連中は、行動したあとに『自分じゃない』と言ってる」
「俺も掴んだ」
「その前から見えてた」
「……」
「しかも、お前は自分で現象を変えた可能性がある」
「認めただけ」
「それで変わったなら、それが問題だ」
朔は少し考える。
「耐性じゃない」
「前からそう言ってる」
「じゃあ何」
黒瀬は答えなかった。
机の上には、報告書がある。
《精神干渉耐性の可能性》
数日前、県警の医務室で保留にされた言葉。
まだ。
別の名前はない。
*
夜。
朔は久世へ電話をかけた。
三回。
呼び出し。
『もしもし』
「俺」
『表示されてる』
「今日」
『うん』
「ごめん」
少し沈黙。
『何が』
「掴んだ」
『そこ?』
「他にある?」
『殴りたいと思ったこと』
「それも」
『別に』
「いいの」
『俺もお前殴りたい時あるって言っただろ』
「三割」
『今五割』
「上がってる」
『当たり前だろ』
朔は少し笑う。
「怖くなかった?」
向こうが少し黙る。
『ちょっと』
「そう」
『でも』
「何」
『お前、あの時めちゃくちゃ怖そうだったぞ』
「俺が?」
『俺より』
朔は自分の部屋を見る。
机。
本。
服。
暗い窓。
自分の反射。
もう一人はいない。
『なあ』
「何」
『あれ、本当にお前じゃなかったの』
朔は答えようとする。
俺じゃない。
違う。
言葉が浮かぶ。
でも。
少しだけ。
殴りたかった。
腹が立った。
黙ればいいと思った。
「分からない」
『またそれ』
「でも」
朔は窓の自分を見る。
「全部違うとも思わない」
久世がしばらく黙った。
『そっか』
「うん」
『じゃあ次殴りたくなったら先に言え』
「何で」
『逃げる』
「友達では」
『友達だから逃げるんだよ』
通話が切れた。
朔はスマートフォンを置く。
窓。
自分。
普通の顔。
影はない。
それでも。
消えたわけではない。
たぶん。
見えなくなっただけ。
自分の中に。
最初からあったものとして。
第五話 了




