第四話 夢を見る町
翌朝。
午前十時十二分。
榊原冬一郎の講義は休講になった。
「珍しい」
久世がスマートフォンを見る。
「先生、休むんだ」
「人間だから」
「教授って大学に住んでるんじゃないの」
「研究室には住めそう」
「本多いもんな」
朔も休講通知を見る。
《担当教員の都合により、本日の講義は休講とします。》
理由は書かれていない。
「昨日なんか言ってた?」
「次があります、とは」
「じゃあ急か」
「多分」
「また多分」
久世はスマートフォンをしまった。
「で、お前は?」
「何が」
「昨日」
朔は少し黙る。
「見た」
「何を」
「女」
久世の顔から軽さが消えた。
「また?」
「電車で」
「一人?」
「他の人は反応してなかった」
「何された」
「見つけたって」
「……誰を」
「知らない」
「お前じゃないの」
「多分」
「そこは多分なんだ」
「俺しか見てなかったから」
久世は少し考える。
「警察には?」
「連絡した」
「何て」
「《見つけたと言われました》」
「向こう何て?」
「御厨さんから電話来た」
「そりゃ来るわ」
昨夜。
電車を降りてすぐ。
御厨へ送った。
《電車で白い女見ました》
既読。
《今どこですか》
《駅》
《安全な場所に移動してください》
《女はいません》
《そういう意味ではありません》
その直後、電話。
十分ほど。
場所。
時間。
見え方。
他の乗客の反応。
そして。
「質問しました?」
最初に聞かれた。
「してないです」
少し沈黙。
「本当に?」
「スマホ出そうとしたら向こうが喋った」
「……今回は褒めます」
「今回は」
「余計なことをしなかったので」
「余計かどうかは」
「しなかったんですよね?」
「はい」
「ならいいです」
その会話を久世に話す。
「完全に飼育員じゃん」
「誰が」
「御厨さん」
「俺は?」
「珍獣」
「失礼」
「珍獣側が言うな」
教室には、休講通知を見て帰る学生が増えていた。
その中で、一人が立ち止まった。
入口近くにいた女子学生。
スマートフォンを見ている。
「帰らなきゃ」
朔が顔を上げた。
久世も。
「……今」
「聞いた」
女子学生はもう一度画面を見る。
「やば。帰らないと」
鞄を持って教室を出ていく。
久世が朔を見る。
「普通のやつ?」
「分からない」
「追う?」
「何で」
「お前なら追うかと」
「俺を何だと思ってる」
「珍獣」
朔は教室の入口を見る。
女子学生の姿はもうない。
スマートフォンが震えた。
大学のグループチャット。
《今日電車やばくない?》
《何が》
《みんな途中で降りてる》
《帰るって言ってる人多い》
別の投稿。
《駅前また警察いる》
さらに。
《うちの母親、仕事行ったのに帰ってきた》
《体調悪いとか?》
《「帰らなきゃ」しか言わん》
朔は久世を見る。
「普通じゃないかも」
「嬉しくない予想当てんな」
*
午前十一時三分。
大学の構内には、人が増えていた。
授業へ向かう学生ではない。
帰ろうとしている学生だった。
門へ向かう。
駅へ向かう。
何人かは電話をしている。
「うん。帰る」
「いや、分かんないけど」
「なんか帰らないと」
「今日休む」
理由はばらばらだった。
言葉だけが似ている。
久世は辺りを見る。
「これ昨日と同じ?」
「似てる」
「女は」
朔も見る。
校舎。
屋上。
窓。
空。
「いない」
「ならまだ」
「何がまだ」
「いや、知らんけど」
久世が言葉を切る。
朔はスマートフォンを出した。
御厨。
《大学でも帰ろうとしてる人増えてます》
送信。
すぐ既読。
電話。
「はい」
『また大学ですか』
「大学なので」
『そういう意味ではなく!』
朔は少しスマートフォンを耳から離した。
久世が笑いを堪えている。
「授業なんで」
『今日はもう授業どころではありません。人の流れから離れてください』
「帰るなってこと?」
『今その言い方やめてください』
「じゃあどうすれば」
『なるべくその場を動かないでください。私が向かいます』
「御厨さんが」
『私がです』
「はい」
『それから』
「はい」
『何か見えても、勝手に話しかけないでください』
「まだ何もいないです」
『まだ、って言いました?』
「言ってないです」
『言いました』
通話が切れた。
久世がこちらを見る。
「愛されてるな」
「監視されてる」
「似たようなもんだろ」
「全然違う」
「今の話聞いてたら若干怪しい」
その時、構内放送が入った。
『学生の皆さんにお知らせします』
少しノイズ。
『現在、駅周辺で混雑が発生しています。不要不急の移動を避け、学内で待機してください』
ざわつく。
「帰れないじゃん」
「駅混んでるって」
「どうする?」
「図書館行く?」
学生たちの声。
だが、門へ向かう人の流れは止まらない。
むしろ増えている。
朔は見た。
一人の男子学生が、校門ではなく大学の奥へ歩いていく。
中庭。
「帰らなきゃ」
別の学生も。
「帰らないと」
門ではない。
駅でもない。
大学の中央。
久世が眉を寄せる。
「帰る方向、おかしくない?」
「うん」
人の流れが、少しずつ変わる。
中庭へ。
朔の胸が冷えた。
「久世」
「何」
「離れよう」
「珍しい」
「何が」
「お前から言うの」
「御厨さんに怒られる」
「動機が弱い」
二人は人の流れから外れる。
文学部棟の方へ。
その途中。
「伊東君」
声。
朔が振り向く。
水城澪がいた。
鞄を抱えている。
「水城」
「これ、何ですか」
「わからない」
「また?」
「多分」
「その組み合わせやめません?」
澪は中庭を見る。
人が集まっている。
「みんな、帰るって」
「うん」
「でも」
澪が少し眉を寄せる。
「帰ってない」
「俺もそう思った」
「何で中庭に」
「分からない」
久世が二人を見る。
「知り合い?」
「昨日」
「図書館で」
「水城澪です」
「久世直哉。一般人です」
「急に何」
「最近肩書きないと不安になってきた」
澪が少し笑った。
その直後。
笑みが消えた。
「……あれ」
「何」
澪が中庭を見る。
朔も。
学生。
校舎。
曇り空。
その真ん中。
何かが。
ある。
「木」
澪が呟いた。
朔の目には。
まだ何もない。
「どこ」
「あそこ」
澪が指す。
中庭の中央。
「何もない」
「ある」
「何が」
「木」
澪の声が少し震える。
「大きい」
朔は中庭を見る。
学生たちが集まっている。
その中心。
空間が。
歪む。
影。
黒い。
縦に。
伸びる。
枝。
葉。
幹。
「……」
見えた。
巨大な木。
大学の校舎より高い。
幹は中庭を突き破るほど太い。
枝が空を覆っている。
葉。
風。
音。
さっきまでなかった。
はず。
久世が朔を見る。
「何」
「見える?」
「何が」
「木」
「どこに」
久世には見えていない。
澪が息を呑む。
「夢と同じ」
「これが?」
「うん」
朔は木を見る。
幹。
根。
土。
中庭。
でも。
実際の中庭には舗装がある。
ベンチ。
自動販売機。
それが。
重なっている。
大学。
違う場所。
二つ。
同時。
人々が木へ向かって歩く。
「帰らなきゃ」
「帰らないと」
「戻らないと」
声。
重なる。
朔の頭が痛む。
「朔」
久世の声。
「顔色」
「大丈夫」
「その台詞信用できないって言われてなかった?」
「誰に」
「お前が昨日送ってきた」
「覚えてるんだ」
「お前よりは」
澪が一歩前へ出る。
「水城」
「聞こえる」
「何が」
「泣いてる」
朔は木を見る。
「誰が」
「分からない」
「木?」
「違う」
澪は首を振る。
「女の人」
朔の背中が冷える。
「見える?」
「まだ」
「まだ?」
「いる気がする」
澪は目を閉じる。
「泣いてる」
「何て」
「……帰れない」
その言葉。
空気が。
変わった。
木の向こう。
白。
立っている。
女。
長い黒髪。
白い服。
幹の前。
朔を見る。
「見つけた」
声が漏れた。
澪がこちらを見る。
「何?」
「昨日」
女。
口。
動かない。
でも。
声。
――帰りたい。
朔の頭の中。
昨日までと違う。
帰りなさい。
ではない。
――帰りたい。
願い。
誰の。
「水城」
「うん」
「何で泣いてると思う」
澪が女を見る。
「帰れないから」
「どこに」
「分からない」
「何で帰れない」
「分からない」
「じゃあ――」
「伊東」
低い声だった。
振り向く。
黒瀬が立っていた。
その少し後ろに御厨。
二人とも走ってきたらしく、御厨の呼吸が少し乱れている。
「何してるんですか」
「見えてます?」
「何がですか」
「木」
御厨が中庭を見る。
「見えません」
「女は」
「見えません」
黒瀬が澪を見る。
「君は?」
「水城澪です」
「何が見えてる」
「大きな木と、白い女の人」
「伊東と同じか」
「多分」
「声は」
澪は少し迷った。
「泣いてる感じがします」
御厨が澪を見る。
「声が聞こえるんですか?」
「声っていうより」
澪は胸元へ手を置く。
「そういう意味に見えるというか」
「意味?」
「帰れなくて、泣いてる」
黒瀬の視線が朔へ移る。
「伊東は」
「俺は『帰りたい』って聞こえました」
「同じか」
「たぶん」
御厨が中庭を見る。
実際には、学生たちがぼんやり立っているだけ。
何人かは泣いている。
何人かは笑っている。
何人かは誰かの名前を呼んでいる。
「母さん」
「帰ったよ」
「ここだった」
朔には、その向こうに木と女が見えている。
「水城」
「何」
「帰れないって、誰が決めたんだろ」
「伊東」
黒瀬が遮った。
朔が見る。
「今は聞くな」
「何で」
「現象との接触を増やすな」
「駅前の時は、質問したら止まった」
「だから繰り返すのか?」
「効くなら」
「効いたのか、変わったのか、こっちにはまだ区別がつかない」
黒瀬は中庭を見る。
「駅前。県警。電車。全部、お前が関わったあとに現象の出方が変わってる」
「偶然かも」
「そうかもしれん」
「じゃあ」
「分からないから止める」
即答だった。
「俺の仕事は正体を当てることじゃない。死人を出さないことだ」
朔は女を見る。
白い。
泣いている。
澪にはそう見える。
朔には、まだ顔が見えない。
「でも」
「伊東さん」
御厨が一歩、朔の前へ出た。
「今は黒瀬警部の指示に従ってください」
「……はい」
朔は口を閉じた。
聞きたいことは残っている。
なぜ。
どこに。
何を。
ただ、黒瀬がいる。
御厨もいる。
今ここで勝手に聞けば、止められる。
だから。
今は聞かない。
*
午後一時四十分。
大学は臨時閉鎖になった。
学生は順次、職員の誘導で体育館と講義棟へ分けられた。
駅方面への移動は止められている。
中庭へ集まっていた学生のうち、強い混乱状態にあった者は二十三人。
軽い症状を訴えた者まで含めれば、もっと多い。
木は消えた。
少なくとも、朔には。
白い女も。
澪は最後まで「まだいる気がする」と言っていた。
大学の小会議室。
朔。
澪。
御厨。
黒瀬。
榊原。
そして、知らない女性が一人。
三十代半ばくらい。
肩までの髪。
細いフレームの眼鏡。
柔らかい色のシャツ。
警察には見えない。
女性は朔を見る。
「伊東朔さん?」
「はい」
「宇佐見玲奈です」
「警察?」
御厨が少し疲れた顔をする。
「何で全員それ聞くんですか」
「場所が警察関係なので」
「大学です」
「警察が二人いる」
「そこ数えるんですね」
玲奈が少し笑った。
「私は警察ではありません。臨床心理士です」
「心理士」
「外部協力です」
黒瀬が補足する。
「こういう事案で、精神症状とそれ以外を混同しないために見てもらってる」
「区別できるんですか」
「できないこともあります」
玲奈は即答した。
朔が少し見る。
「そこ言うんだ」
「言います」
「幻覚ってこと?」
「可能性の一つです」
「じゃあ」
「ただ」
玲奈は朔を見る。
「『幻覚』は原因ではなくて、症状の名前です」
朔が黙る。
「何かが見える。それを幻覚と呼ぶことはできます。でも、それだけで、見た人がどういう状態だったのかまで分かったことにはなりません」
榊原が少しだけ頷いた。
玲奈は澪へ向き直る。
「水城さん」
「はい」
「今、気分はどうですか」
澪が少し戸惑う。
「今?」
「今です」
「……疲れました」
「頭痛は」
「少し」
「吐き気」
「ないです」
「さっきの女の人について、話すのはつらい?」
澪は少し考えた。
「大丈夫だと思います」
「無理なら途中で止めます」
「はい」
玲奈はそこで初めて、本題へ入った。
「何が見えました?」
「大きな木と、白い女の人」
「怖かった?」
「少し」
「他には」
澪は考える。
「悲しかった」
「あなたが?」
「違う」
「女の人が?」
「そうだと思います」
「どうしてそう感じたか、分かりますか」
澪は困ったように眉を寄せる。
「分からないです」
「表情は?」
「顔は見えなかった」
「声は?」
「聞こえてない」
「でも、悲しいと分かった」
「はい」
「帰れないって」
玲奈は頷いた。
「その感覚、まだ残っていますか」
澪は胸に手を当てる。
「少し」
「じゃあ、今はそこまででいいです」
「それだけ?」
朔が訊く。
「今は」
「もっと聞かないんですか」
「水城さん、かなり疲れてます」
「でも情報は」
「伊東さん」
玲奈が朔を見る。
「情報を増やすことと、その人から情報を取り続けることは同じではありません」
朔は黙った。
「今の水城さんに必要なのは、私たちの疑問に全部答えることではなくて、自分の感覚がどこまで自分のものなのか落ち着いて確かめることです」
「自分のもの」
「さっき、他人の悲しさが入ってきたように感じたんでしょう?」
澪が頷く。
「なら、そこを無視して質問だけ増やしたくありません」
黒瀬は何も言わない。
榊原も。
玲奈は澪へ水を勧めた。
「飲めそうなら」
「ありがとうございます」
朔はその様子を見る。
同じ現象を調べている。
でも。
見ている場所が違う。
黒瀬は事故が起きるかを見る。
榊原は言葉が何を意味しているかを見る。
宇佐見は。
人を見る。
「伊東さん」
「はい」
「今、何か考えました?」
「別に」
玲奈が少しだけ笑う。
「それも覚えておきます」
「何で」
「今は聞きません」
朔は少し嫌そうな顔をした。
御厨がそれを見て、僅かに笑った。
*
夕方。
大学の外には規制線が張られていた。
警察車両。
報道。
学生。
保護者。
遠くから見れば、大きな事故でも起きたようだった。
朔と久世は正門の近くにいる。
澪は少し離れた場所で大学職員と話していた。
「で」
久世が言う。
「俺には何も見えなかった」
「木も?」
「木なんか生えてたら気づくだろ」
「大きかった」
「校舎より?」
「うん」
「それ見えない俺すごくない?」
「何が」
「普通」
「自慢になる?」
「最近はなる」
久世は少し黙る。
「水城さんは見えたんだろ」
「うん」
「同じもの?」
「木は」
「女も?」
「見えた」
「じゃあ二人だけ?」
「今のところ」
久世は中庭の方を見る。
建物に隠れて見えない。
「それ」
「何」
「お前らが同じもの見たってことは」
「うん」
「昨日先生が言ってたやつじゃん」
「複数の観測者」
「存在する証拠になる?」
朔は少し考えた。
「強い根拠」
「でも証明ではない」
「うん」
「めんどくさ」
「哲学?」
「現実」
久世はポケットへ手を入れる。
「で、木は本当にあった?」
朔は答えようとした。
中庭。
木。
幹。
枝。
葉。
白い女。
澪。
久世には見えない。
カメラはまだ確認していない。
「分からない」
「それで済むん?」
「今は」
「へえ」
久世が歩き出す。
「帰ろうぜ」
朔が見る。
「今それ言う?」
「普通の意味だよ!」
少し大きな声。
近くの警察官が振り向いた。
久世が気まずそうに手を上げる。
「すみません」
朔は少し笑った。
その瞬間。
視界の端。
大学の屋上。
白。
朔が顔を上げる。
誰もいない。
ただ。
風。
雲。
校舎。
それだけ。
なのに。
胸の奥に。
一つだけ。
自分のものではない感覚が残っていた。
帰りたい。
でも。
帰れない。
問いが浮かぶ。
なぜ。
どこに。
誰が。
朔は中庭の方を見る。
黒瀬の指示はまだ生きている。
質問するな。
口には出さなかった。
答えが欲しくないわけではない。
ただ。
今日は聞くなと言われた。
それだけだった。
それでも。
遠くで。
誰かが泣いているような気がした。
第四話 了




