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深層汚染  作者: 真夜不寝
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3/21

第三話 存在するということ

 翌日。

 午後一時二十六分。

 伊東朔は大学にいた。

 今日は遅刻していない。

 むしろ講義開始より四分早い。

「気持ち悪」

 隣に座った久世(くぜ)直哉(なおや)が言った。

「何が」

「お前が先にいる」

「失礼」

「昨日あんなことあった翌日に限って時間守るの何なの」

「昨日一限出られなかったから」

「反省する場所そこ?」

 朔は机へノートを置いた。

「出席大事だろ」


「去年それで痛い目見たもんな」

「二回目は嫌なので」

「駅前で集団事故に巻き込まれた人間の翌日の第一声じゃない」

「事故ではないらしい」

「じゃあ何」

「説明未了事案」

 久世が止まった。

「何それ」

「警察がそう呼んでる」

「急に官僚臭くなったな」

「死人が出てないから事件とも言い切れないって」

「怪異とか言わないの?」

「部署名から逃げてた」

「妙なところだけ現実的だな」

 教室には学生が集まり始めていた。

 ざわざわとした声。椅子を引く音。スマートフォンを見る学生。鞄を机へ置く学生。

 いつもの大学だった。

 朔は昨日の県警本部を思い出す。

 白い廊下。

 窓。

 女。

 雪。

 小さな手。

 あれから白い女は見ていない。

 声も聞こえない。

 帰りたい、と考えても普通の意味でしかない。

 たぶん。

「で」

 久世がこちらを見る。

「本当に大丈夫なん?」

「何が」

「昨日倒れたんだろ」

「誰から聞いた」

「お前」

「言ったっけ」

「夜中に」

 朔はスマートフォンを見る。

 メッセージ履歴。

《警察で倒れた》

《なんで》

《女に質問したらなんか見えた》

《説明雑すぎ》

《雪》

《寝ろ》

 確かに送っていた。

「覚えてない」

「怖」

「眠かったから」

「病院行った?」

「警察の医務室」

「それ病院じゃないだろ」

「診てもらった」

「医者に?」

「多分」

「多分!?」

 教卓の方から咳払いがした。

 榊原(さかきばら)冬一郎(とういちろう)が立っていた。哲学科の教授で、朔の所属するゼミの指導教員でもある。

 いつ来たのか分からない。

 茶色いジャケット。

 片手に資料。

 もう片方にマグカップ。

 白。

 底の方に茶色い染み。

 朔は少し見る。

 洗っているのだろうか。

「伊東君」

「はい」

「今、私のカップを見て何を考えましたか」

「洗ってるのかなって」

 教室に小さな笑い。

「洗っています」

「いつ」

「講義を始めます」

 逃げた。

*

 黒板に文字。

《存在》

 榊原はチョークを置いた。

「今日は簡単な話をします」

 教室の何人かが身構える。

「簡単と言った時の先生、簡単だった試しないけど」

 久世が小声で言う。

「聞こえています」

「すみません」

「では質問です」

 榊原は教室を見る。

「ここに机があります」

 教卓の横。

 机。

「この机が存在することを、どうやって確かめますか」

 前列の学生が手を挙げる。

「見ればいい」

「はい」

 榊原が頷く。

「では、目を閉じたら机は消えますか」

「消えません」

「なぜ?」

「他の人にも見えてるから」

「なるほど」

 黒板。

《複数の観測者》

「では、全員が同じものを見たら、それは存在していると言えるでしょうか」

 朔が顔を上げた。

「嫌な顔してる」

 久世が小声で言う。

「何が」

「質問する顔」

 朔は手を挙げた。

 榊原がこちらを見る。

 一瞬。

 嫌そうだった。

「伊東君」

「はい」

「今日は何です」

「全員が同じもの見てたら、存在してるんですか」

「今私が質問しました」

「だから」

「質問に質問を返さない」

「先生もよくやる」

「私は教員です」

「権力」

「続けますよ」

 教室に笑い。

 榊原は黒板へ向き直る。

「『複数人が同じものを見る』ことは、存在を判断する上で非常に強い根拠になります」

 朔は昨日の監視映像を思い出す。

 全員。

 同じ屋上。

 映像には誰もいない。

「でも」

 また手を挙げる。

「まだありますか」

「昨日」

 久世が横を見る。

 榊原の表情も少し変わった。

「何です」

「二十人以上が同じ女を見たんです」

 教室の空気が少し変わる。

「ここで言う?」

 久世が小声で言った。

「名前出してない」

「そういう問題?」

 榊原は朔を見る。

「続けなさい」

「白い服の女。同じ場所。同じ外見」

「はい」

「でもカメラには映ってない」

 教室が静かになる。

「その場合」

 朔は黒板を見る。

《存在》

「その女は、いるんですか」

 榊原はすぐには答えなかった。

「質問の仕方が悪い」

「また?」

「『いる』が何を意味するか決めていません」

「物理的に」

「それなら現時点では根拠不足です」

「じゃあ見た人の中には?」

「いるでしょう」

「それは存在?」

「少なくとも経験としては」

 朔は少し考える。

「じゃあ」

「伊東君」

「はい」

「一度に全部聞こうとしない」

「はい」

 榊原は教卓に手を置いた。

「二十人が同じものを見たとしても、それだけで物理的対象の存在が証明されるわけではありません」

 黒板。

《対象》

《知覚》

《共有》

「ただし」

「二十人が同じ経験をした、という事実は残る」

 朔が見る。

「つまり、問題は」

 榊原はチョークを置く。

「『女が存在するか』だけではない」

「では?」

「なぜ、複数の人間に同じ女が現れたのか」

 静か。

「そして」

「なぜ、一部の人には違う顔で現れたのか」

 朔が止まる。

 久世も榊原を見る。

「知ってるんですか」

 朔が訊く。

「何を」

「顔が違った話」

「朝、御厨さんから連絡がありました」

「先生、警察と繋がってるの」

「言い方」

「違う?」

「協力を求められただけです」

「何の」

 榊原は一瞬だけ黙る。

「それは講義後」

「また延長戦」

 久世が言う。

「黙ってて」

「はいはい」

 講義は続いた。

 存在。

 知覚。

 複数人の合意。

 錯覚。

 言語。

 名前。

 朔は珍しく途中で質問しなかった。

 昨日の白い女を考えていた。

 存在する。

 存在しない。

 見える。

 映らない。

 同じ。

 違う。

 どれか一つに決めるには。

 まだ。

 情報が足りない。

*

 講義終了。

 久世は鞄を持って立ち上がった。

「じゃ、俺飯」

「まだ食うの」

「昼食ってない」

「一時半から講義だったのに」

「誰かさんが早く来たのが珍しすぎて、俺まで早く来た」

「責任転嫁」

「先生と話すんだろ?」

「多分」

「また警察?」

「知らない」

「変なことすんなよ」

「何を」

「それが分かれば苦労しない」

 久世は教室を出ていった。

 学生も減っていく。

 朔は前へ行く。

 榊原は資料を鞄へ入れていた。

「何で警察から」

「研究分野が近いからでしょう」

「哲学が?」

「正確には、象徴論や知覚論の話を以前したことがあります」

「誰と」

「黒瀬さん」

「知り合いなんだ」

「知り合いというほどでは」

「御厨さんは?」

「今朝初めて話しました」

「何を聞かれたんですか」

 榊原が手を止める。

「あなたについて」

「俺?」

「去年の地下鉄事件。今回の件。あなたがどういう学生か」

「何て答えたんですか」

「面倒な学生です、と」

「それだけ?」

「質問が多い」

「悪口だ」

「事実です」

「他には」

「答えを欲しがるわりに、答えを簡単には信用しない」

 朔は少し黙った。

「それ褒めてます?」

「半分は」

「黒瀬さんと同じ言い方」

「嫌ですね」

「何が」

「似ていること」

「そこ?」

 榊原は鞄を閉じる。

「昨日、何か見たそうですね」

「御厨さんから?」

「はい」

「雪」

「学校」

「聞いてるんだ」

「概要だけ」

 朔は右手を見る。

 昨日から何度かやっている。

「誰かに手を握られてた」

「誰かに」

「子供っぽい」

「あなたが?」

「違う」

「何が」

「子供に握られてた側」

 榊原は黙った。

 教室には、もうほとんど人がいない。

「伊東君」

「はい」

「それを、自分の記憶ではないと考えている?」

「多分」

「なぜ」

「そういう記憶がないから」

「記憶にないことと、経験していないことは同じではありません」

「分かってます」

「なら」

「でも」

 朔は掌を見る。

「俺じゃない感じがした」

「感じ」

「はい」

「それ以上は?」

「分からない」

 榊原は少し考える。

「そのままでいてください」

「何が」

「分からないことを、急いで何かの名前にしない」

「黒瀬さんも似たこと言ってた」

「本当に嫌ですね」

 榊原はマグカップを持つ。

「特に」

 少し間。

「集合的無意識とか」

 朔が顔を上げた。

「言おうと思ってた」

「だから先に潰しました」

「ユング嫌いなんですか」

「嫌いではありません」

「じゃあ」

「便利箱にするなと言っているんです」

「便利箱」

「説明できないものを全部入れる箱」

 榊原は教卓を指で軽く叩く。

「複数人が同じ女性を見る」

「はい」

「象徴的なイメージを共有する」

「はい」

「だから集合的無意識だ」

 首を振る。

「それでは何も説明していない」

「でも可能性は?」

「あります」

「あるんだ」

「仮説を禁止しているのではありません」

「じゃあ何を」

「仮説を答えにするな、と言っています」

 朔は少し笑った。

「先生っぽい」

「教員なので」

 廊下から足音が聞こえる。

 誰かが教室の前を通った。

 榊原が時計を見る。

「次があります」

「俺は」

「帰ってください」

「大学にいるのに」

「昨日倒れた学生を長時間拘束したくありません」

「警察より優しい」

「比較対象がおかしい」

 朔は鞄を持つ。

「先生」

「何です」

「二十人が同じもの見て」

「はい」

「それが存在する証明にならないなら」

「はい」

「一人だけ違うもの見た場合は?」

 榊原が朔を見る。

「何が聞きたいんです」

「多数の方が正しい?」

「正しい、というのは?」

「見えてるもの」

 榊原は少し考えた。

「多数決で現実を決めるなら、哲学者はかなり失業します」

「元から仕事少なそう」

「帰りなさい」

「それ今言う?」

 榊原が止まる。

 朔も。

 二人とも、一瞬だけ黙った。

「……普通の意味です」

 榊原が言う。

「御厨さんも昨日同じこと言ってました」

「あなたの周囲、すでに言葉が不便になってますね」

「俺のせい?」

「まだ決めません」

 朔は教室を出た。

*

 図書館へ寄った理由は特にない。

 帰れと言われたから帰るのも、何となく嫌だった。

 ひねくれている。

 自覚はある。

 朔は哲学の棚を眺める。

 現象学。

 認識論。

 言語。

 一冊抜く。

 戻す。

 別の棚へ。

 文化史。

 宗教。

 民俗。

 普段ならあまり来ない。

 一冊の背表紙が目に入った。

『境界神話と帰還儀礼』

「それ」

 声。

 朔が振り向く。

 小柄な学生が立っていた。

 黒いボブ。

 腕に本を何冊か抱えている。

「借ります?」

「いや」

「取ろうとしてたので」

「見てただけ」

「じゃあ」

 学生は朔の横から手を伸ばす。

 その本を抜いた。

「借ります」

「どうぞ」

「ありがとうございます」

「俺のじゃないけど」

「そうですね」

 少し間。

 学生が表紙を見る。

「帰還儀礼、興味あるんですか」

「今日ちょっと」

「今日」

「昨日からかも」

「狭い」

「期間?」

「興味の歴史が」

「そう」

 学生は朔を見る。

「伊東君ですよね」

「知ってる?」

「榊原先生の講義」

「ああ」

「よく質問する人」

「それで覚えられるの嫌だな」

「目立つので」

「名前は」

「水城(みずき)澪(みお)」

「何回生?」


「4回生」


「伊東君は?」

「3回生」

「じゃあ一個下?」

「年齢は同じかも。22歳」

「あれ?」

「一回留年した」

「そうなんだ」

「去年、必修の試験受けなかったから」

「受けなかった?」

「地下鉄で色々あって」

「……昨日言ってた事件?」

「その一年前のやつ」

「それで単位落としたんだ」

「うん」

「大学って容赦ないですね」

「怪異より制度の方が強い時ある」


 澪は本を抱え直す。

「これ、卒論で使うんです」

「何の」

「異類婚姻譚」

「人間と人間じゃないものが結婚するやつ?」

「雑だけど、まあ」

「境界?」

「そう」

 澪は棚を見る。

「人間と異類。村と外。生者と死者」

「内と外」

「帰る場所と、帰れない場所」

 朔が見る。

 澪は本を見ている。

「何か」

「今の」

「帰れない場所?」

「うん」

「普通に研究テーマ」

「そう」

「白い女とか出る?」

 澪が朔を見る。

「出る話もあります」

「長い黒髪」

「かなり雑な検索条件ですね」

「昨日見たんだ」

「……昨日?」

 朔は少し考える。

 話していいか。

 警察から口止めはされていない。

 たぶん。

「駅前で」

 澪の表情が変わる。

「あれ」

「知ってる?」

「SNSの投稿をみました。」

「何て」

「集団で赤信号渡ったって」

「そうそれ」

「原因は?」

「分からない」

「事故じゃないんですか」

「多分」

 澪が少し眉を寄せる。

「その『多分』多いですね」

「よく言われる」

「白い女って?」

 朔は棚へ視線を戻す。

「屋上にいた」

「全員に見えた?」

 質問が早かった。

 朔が澪を見る。

「何で全員って」

「一人だけなら幻覚かもしれないけど」

「二十人くらい」

 澪の表情が少し変わった。

「同じ女を?」

「ほぼ」

「ほぼ?」

「知ってる人に見えた人もいる」

 澪は黙る。

「何」

「いや」

 少し。

「似た話」

「ある?」

「神話じゃなくて」

「何」

 澪は本を抱えたまま、少し迷った。

「夢」

「夢?」

「小さい頃から、時々同じ夢を見るんです」

 朔は黙って待つ。

 澪は少し意外そうにこちらを見る。

「質問しないんですね」

「今からする」

「やっぱり」

「どんな夢」

 澪はため息をついた。

「大きい木」

「木」

「ものすごく大きい」

「種類」

「分からない」

「場所」

「分からない」

「周りは」

「暗い」

「夜?」

「多分」

「人は」

「いない」

「白い女は」

「いない」

「じゃあ何が似てるの」

 澪が少し考える。

「帰らなきゃって思う」

 朔の指が止まった。

 棚。

 本。

 図書館。

 静か。

「夢の中で?」

「うん」

「どこに」

「分からない」

「木に?」

「それも分からない」

「怖い?」

 澪はすぐには答えなかった。

「懐かしい」

 朔は澪を見る。

「怖くない?」

「怖い時もある」

「でも懐かしい」

「うん」

「行ったことある場所?」

「ないと思う」

「なのに?」

「懐かしい」

 昨日。

 暖かい。

 何も考えなくていい。

 失敗する前。

 面倒になる前。

 帰る。

 朔は無意識に右手を見る。

「何ですか」

「いや」

「手」

「昨日ちょっと」

「怪我?」

「違う」

 澪はそれ以上聞かなかった。

 朔は少し不思議に思う。

「聞かないの」

「何を」

「手」

「話したいなら話すかなって」

「そういう人いるんだ」

「失礼ですね」

「久世なら聞く」

「友達だからじゃないですか」

「そうかも」

 澪は『境界神話と帰還儀礼』を見る。

「それ」

「はい」

「貸して」

「今取ったばっかりなんですけど」

「返す」

「図書館の本なので」

「じゃあ先に読む?」

「何で急に」

「気になる」

「自分で別の本探してください」

「同じ本がいい」

「子供?」

「卒論いつまで」

「返しませんよ」

「ケチ」

「図書館で初対面の人に言われたくない」

 少しだけ、気が楽だった。

 質問しなくても、会話が終わらない。

 そういう相手もいるらしい。

*

 夕方、大学を出た。

 空は曇っていて、朝より少し寒い。

 正門を抜けたところで、御厨からメッセージが届いた。

《今日は異常ありませんか》

《ないです》

 送信。

 数秒。

《本当に?》

《今のところ》

《何かあったらすぐ連絡してください》

《質問してからでも?》

 既読。

 少し待つ。

《先に連絡してください》

 朔は笑った。

 スマートフォンをしまい、そのまま駅へ向かった。

 夕方の駅は人が多い。

 会社員。学生。買い物袋を下げた人。自転車を押す人。

 改札を抜け、ホームへ降り、来た電車に乗る。

 窓際の席が空いていた。

 朔はそこへ座った。

 発車。

 窓の外を、ビルや住宅が流れていく。

 薄い夕焼けの上に、自分の顔が重なっていた。

 疲れている。

 少し寝不足。

 昨日倒れたのだから当然かもしれない。

 目を閉じる。

 眠い。

 ただ、寝過ごすのは困る。

 朔はすぐに目を開けた。

 ガラス。

 自分。

 車内。

 後ろの乗客。

 そして。

 白。

 呼吸が止まる。

 窓の反射。

 自分のすぐ後ろ。

 白い服。

 長い黒髪。

 女。

 朔は振り返った。

 誰もいない。

 会社員。

 高校生。

 老人。

 普通。

 窓を見る。

 いる。

 女。

 昨日より近い。

 顔は。

 髪に隠れて。

 見えない。

 朔は動かなかった。

 周囲を見る。

 誰も反応していない。

 自分だけ。

 また。

「……」

 声を出すべきか。

 御厨。

 先に連絡してください。

 スマートフォンへ手を伸ばす。

 その時。

 女の顔が。

 少しだけ上がった。

 髪の隙間。

 口。

 動く。

――見つけた。

 朔の指が止まった。

 電車がトンネルへ入る。

 窓。

 真っ黒。

 反射。

 女はいない。

 朔だけが映っている。

 スマートフォン。

 手。

 少し震えていた。

 何を。

 見つけた。

 誰を。

 朔は答えを考えた。

 でも。

 分からない。

 電車はそのまま走り続ける。

第三話 了


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