第二話 白い女
午前十時三十二分。
伊東朔は県警本部にいた。
当然、大学にはいない。
一限はとっくに終わっている。二限も怪しい。
机の上には紙コップの水。
正面には御厨美冬。その横には、記入途中の書類が何枚か積まれていた。
「確認します」
「はい」
「午前八時四十八分頃。駅前交差点で、複数の通行人が同時に車道へ進入した」
「はい」
「その直前、周囲の人間が『帰らなきゃ』と繰り返していた」
「はい」
「あなた自身にも、『帰りなさい』『あなたのいるべき場所へ』という声が聞こえた」
「はい」
「声の発生源は不明」
「屋上の女だと思います」
「思う、ですね」
「はい」
御厨はそこだけ少し強く書いた。
「そして、その女性に『どこに』と問いかけた」
「何回か」
「何回か……」
御厨のペンが止まる。
「必要でした?」
「最初ので返事なかったので」
「返事を求めないでください」
「質問なので」
「そういう問題ではなく」
御厨は一度息を吐いた。
「女性が首を傾げたあと、現象が終了した」
「そう見えました」
「現在確認できている負傷者は七名。全員軽傷です」
「よかった」
朔は少しだけ肩の力を抜いた。
本当に。
そこはよかった。
もし誰かが車に轢かれていたら、今よりずっと考えることが増えていた。
御厨が書類を一枚めくる。
「目撃者は現在二十六名」
「増えた」
「通行人だけではありません。車の運転手、店舗の従業員、二階以上から見ていた人も含めています」
「女は?」
「二十一名が見ています」
朔は顔を上げた。
「全員同じ?」
「そこが面倒なんです」
御厨は別の紙へ目を落とす。
「白い服。長い黒髪。女性。ビル屋上」
「同じ」
「大まかには」
「顔は?」
「はっきり見えなかったという人が十四名」
「残り七人」
御厨が少し黙った。
「知っている人に見えた、と」
「母親以外も?」
「祖母。姉。高校時代の担任。昔飼っていた犬」
「犬?」
「人の姿ではあったそうです」
「じゃあ犬じゃない」
「本人が『あれはあの犬だった』と言ってるんです」
「顔が?」
「雰囲気が」
「曖昧」
「怪異の目撃証言に厳密さを求めないでください」
朔は紙コップの水を飲んだ。
「映像は」
御厨が少し嫌そうな顔をする。
「見ます?」
「見られるなら」
「見たあと大学行くとか言いません?」
「時間による」
「行く気なんですね……」
御厨は立ち上がった。
「来てください」
*
通されたのは、小さな会議室だった。
窓と長机。壁掛けのモニター。
警察の特別な施設というより、あまり使われていない会社の会議室に近い。
朔は椅子に座った。
「特別な部屋とかじゃないんですね」
「何を期待してたんですか」
「もっと暗い地下とか」
「映画見すぎです」
「地下じゃないんだ」
「残念そうにしないでください」
御厨がパソコンを操作する。
画面に朝の交差点が映った。
監視カメラ。
音声はない。
朔自身も映っている。
「あ」
「何ですか」
「俺、思ったより猫背」
「今そこ?」
八時四十八分。
画面の中で、人々が一斉に顔を上げた。
そのあと、赤信号のまま車道へ歩き出す。
音がないから余計に異様だった。
一人。
二人。
十人。
同じ速度で進んでいく。
朔がスーツの男を掴む。
引く。
そして、上を見る。
「ここ」
御厨が一時停止する。
画面。
屋上。
誰もいない。
「……いない」
「はい」
映像が再開する。
画面の中の朔は、屋上へ向かって何かを言っている。
映像だけを見れば。
何もない場所へ。
「かなり嫌ですね、これ」
「俺も」
「自覚あるんですね」
画面の朔が、もう一度何かを言う。
数秒後。
人々の動きが止まった。
次の瞬間には、全員ばらばらに動き始める。
御厨が映像を止めた。
「別角度も同じです」
「女だけ映ってない?」
「今のところ」
「声は録音されてない」
「交差点のカメラに音声はありません」
朔は画面の屋上部分を見る。
「全員同じところ見てる」
「そうです」
「映像にはいない」
「そうです」
「でも二十一人は女を見た」
「はい」
朔は少し考えた。
「同じ幻覚?」
「断定はできません」
御厨が画面を消そうとした時、ドアが開いた。
「消さなくていい」
男の声だった。
四十代後半くらい。
くたびれたスーツに、少し緩んだネクタイ。顎には剃り残しがある。
片手には紙コップ。
たぶん茶。
かなり疲れて見えた。
男は朔を見る。
「伊東朔」
「はい」
「黒瀬宗一郎だ」
「警察?」
御厨が朔を見る。
「それ以外に見えます?」
「研究者かも」
黒瀬は椅子を引いた。
「一応、警察だ」
「一応?」
「肩書きまで説明すると長い」
「警部です」
御厨が補足する。
「御厨」
「はい」
「余計な情報を足すな」
「階級は余計ではありません」
黒瀬は座り、紙コップを机へ置いた。
「映像、もう一回」
御厨が再生する。
黒瀬は何も言わずに見た。
人々。
車道。
朔。
見えない女。
現象終了。
「去年と似てるな」
朔が黒瀬を見る。
「地下鉄?」
「そう」
黒瀬が御厨へ手を出す。
「資料」
御厨がファイルを渡した。
黄色い付箋。
写真。
報告書。
朔にも見覚えがある。
一年前。
地下鉄。
急停車。
乗客の混乱。
誰もいない場所を見て怯える人々。
朔自身も、何度も事情聴取を受けた。
「当時、乗客三十二人」
黒瀬が報告書を読む。
「異常知覚を訴えたのが十九」
「はい」
御厨が答える。
「見たものは全員違う。人間、動物、虫、影。具体的な形を説明できなかった人もいます」
「共通点は?」
「恐怖反応です」
黒瀬は頁をめくった。
「伊東は?」
御厨が別の頁を開く。
「対象を視認したと証言しています。ただし、他の乗客ほど強い恐慌状態にはならなかった」
「その時も質問した?」
黒瀬が朔を見る。
「多分」
御厨が眉を寄せる。
「しました」
「何を」
「覚えてない」
「当時の記録では、『何でこっち来るの』『何がしたいの』です」
「質問ですね」
「分類しなくていいです」
黒瀬がファイルを閉じた。
「当時の所見」
表紙。
赤い文字。
《精神干渉耐性の可能性》
朔はそこを読む。
「精神干渉耐性」
「仮の話だ」
黒瀬が言った。
「同系統と思われる現象に遭遇しても、行動をある程度維持できた。去年も同じ。だからそう書いた」
「能力みたい」
「そういう言い方をすると馬鹿になるからやめろ」
「厳しい」
「便利な名前は、便利なぶん思考を止める」
黒瀬はファイルを指で叩いた。
「俺はこの書き方、あまり好きじゃない」
「理由は?」
御厨が訊く。
「耐えてる奴と、効き方がおかしい奴は違う」
朔は黒瀬を見る。
「俺はどっち?」
「知らん」
「じゃあ」
「だから調べる」
即答だった。
朔は少し黙った。
黒瀬が続ける。
「今日、お前も影響は受けたんだろ」
「はい」
「帰りたくなった」
「多分」
「どこに」
朔は答えようとして、止まった。
「……分からない」
「家ではなく?」
御厨が訊く。
「家も出たけど」
「実家?」
「それも」
「じゃあ何ですか」
朔は朝の感覚を思い出す。
暖かい。
安心する。
何も考えなくていい。
知っている誰か。
失敗する前。
面倒になる前。
「場所って感じじゃなかった」
「じゃあ何だ」
黒瀬が訊く。
「状態?」
「何の」
「分からない」
黒瀬は茶を飲んだ。
「それでいい」
朔が見る。
「いいんだ」
「分からないのに分かった顔される方が困る」
「そこだけは伊東さんと相性よさそうですね」
御厨が言う。
「嫌な相性だな」
「俺もそう思います」
「お前ら」
黒瀬がため息をつく。
それから、もう一度モニターを見る。
「女が映らない。複数人は同じ外見を見ている。ただし一部は、知人の顔として認識している」
「元は同じものなんじゃないですか」
朔が言う。
二人がこちらを見る。
「何が」
「見てる対象」
黒瀬が顎を上げた。
「続けろ」
朔は少し考える。
「同じものを見てる。でも、そのまま見えてるわけじゃない」
「というと?」
「例えば」
朔はモニターの屋上を指す。
「ここに何かある」
「女とは限らない」
「でも人間が見る時に、『白い女』に変換される」
「亡くなった母親に見えた人は?」
御厨が訊く。
「その人だけ変換の仕方が違った」
「なぜ?」
「知らないです」
黒瀬が少しだけ笑った。
「そこは知らないんだな」
「知らないので」
「幻覚の共有でしょうか」
御厨が画面を見る。
朔は首を傾げた。
「共有っていうより……入力が同じ?」
「入力」
「同じ何かが来てる。でも、脳側で違う見え方になる」
「それなら、ほとんど全員が白い女になる理由は?」
「そこは分からない」
御厨は小さく息を吐いた。
黒瀬は何も言わなかった。
少しだけ考えている。
やがて口を開く。
「現時点では、何も決めない」
「それで会議終わり?」
「警察は、会議で怪異の正体を決める組織じゃない」
「何するんですか」
「死人を出さない」
短い。
朔は黙った。
黒瀬はファイルを閉じる。
「うちじゃ、こういうのを《説明未了事案》って呼んでる」
「正式名称?」
「半分」
「半分?」
「書類上の扱いと、現場の呼び方が違う」
「一部では特異事案と呼んでいます」
御厨が補足する。
「御厨」
「はい」
「だから余計な情報を」
「別に機密ではありません」
「特異事案係?」
朔が訊く。
「そういう部署名はありません」
「ないんだ」
「作ったら予算説明が面倒だからな」
黒瀬が茶を飲んだ。
妙に現実的だった。
*
午後一時十二分。
朔はまだ県警本部にいた。
二限はもう終わっている。
ここから大学へ向かっても、どう考えても中途半端だった。
自動販売機の前で、朔は缶コーヒーを眺める。
「どれにしようかな」
「好きなの買えばいいでしょう」
隣にいる御厨が言った。
「ブラック」
「じゃあブラックで」
「でも眠い」
「知りません」
「甘い方が」
「早くしてください」
朔は結局ブラックを押した。
缶が落ちる。
「結局それなんですね」
「迷った結果」
取り出して、プルタブを開ける。
「御厨さんは」
「もう飲みました」
「何」
「コーヒー」
「ブラック?」
「何でそこ気になるんですか」
二人で廊下を歩く。
窓から午後の光が入っていた。
警察官や職員が行き交い、電話が鳴り、遠くでコピー機の音がする。
ここだけ見れば、ごく普通の職場だった。
朔はコーヒーを一口飲む。
「帰りたい」
御厨が止まった。
朔も一歩遅れて止まる。
「……何ですか」
「いや」
朔は缶を少し持ち上げる。
「大学行けないなら、家帰りたいなって」
「紛らわしいこと言わないでください」
「普通の意味です」
「今、それ一番信用できない言葉です」
御厨が歩き出そうとする。
その時。
廊下の向こうに立っていた男性職員が、ぽつりと言った。
「帰らなきゃ」
御厨の顔が変わった。
「……伊東さん」
「聞こえた」
別の職員も足を止める。
「帰らなきゃ」
受付の女性の手が止まった。
「帰らないと」
一人。
二人。
三人。
廊下。
空気。
変わる。
御厨が無線へ手を伸ばす。
「黒瀬警部、三階廊下で――」
――帰りなさい。
声。
朔の手から。
缶コーヒーが落ちた。
床。
音。
遠い。
冷たい。
指先。
また。
――あなたのいるべき場所へ。
帰る。
どこに。
家。
違う。
もっと。
白い。
何か。
朔は窓を見る。
ガラス。
自分。
御厨。
廊下。
その奥。
女。
白い服。
長い黒髪。
立っている。
「御厨さん」
「何ですか」
「いる」
「どこ?」
朔は窓を指す。
御厨が見る。
「……何も」
映っていない。
朔には。
いる。
さっきより近い。
顔。
まだ。
見えない。
なのに。
知っているような気がする。
なぜ。
「伊東さん?」
御厨の声が遠くなる。
――帰りなさい。
朔は女を見る。
「なんで」
声が。
止まる。
「伊東さん」
「なんで帰らなきゃいけないの」
白い女。
動かない。
「どこに」
頭。
痛い。
「帰るって」
視界。
白。
「何?」
その瞬間。
世界が割れた。
雪。
白い。
校庭。
誰もいない。
鉄棒。
古い校舎。
チャイム。
夕方。
違う。
朝。
子供。
手。
小さい。
誰かの手。
握っている。
冷たい。
離れる。
待って。
声。
誰。
鐘。
遠く。
帰らなきゃ。
帰れない。
どこ。
どこに。
白。
白。
白。
「伊東さん!」
衝撃。
床。
御厨の声。
暗転。
*
目を開ける。
白い天井。
「……」
「起きました?」
御厨の声。
視界の端に、椅子へ座って腕を組んでいる姿が見える。
「ここ」
「医務室」
「警察にもあるんだ」
「あります」
「何分」
「二十三分」
「寝た?」
「気を失ってました」
「同じでは」
「違います」
朔は起きようとした。
「まだ寝ててください」
「大丈夫です」
「その台詞、信用度低いので」
少し強く言われた。
朔は諦めて枕へ戻る。
頭に鈍い痛みが残っている。
「廊下」
「三名です」
「帰らなきゃって」
「言いました」
「今は?」
「正常です」
「怪我」
「ありません」
「女は?」
御厨は少し黙った。
「他の人には見えていません」
「俺だけ?」
「今のところ」
朔は天井を見る。
白。
雪。
一瞬、また見えた気がした。
「何か見たでしょう」
別の声。
黒瀬が医務室の入口に立っていた。
手にはまた紙コップ。
「ずっとそれ飲んでるんですか」
「今そこじゃない」
「御厨さんと同じこと言う」
「伊東さん」
「はい」
御厨に睨まれる。
黒瀬が近づいてくる。
「倒れる直前、何を見た」
朔は目を閉じた。
雪。
学校。
鐘。
手。
「分からない」
「見たものを言え」
「雪」
「雪?」
「校庭」
「場所は」
「知らない」
「他には」
「チャイム」
「学校か」
「多分」
「誰かいた?」
小さな手。
「子供」
「顔は」
「見てない」
「自分?」
「分からない」
「記憶ですか?」
御厨が訊く。
「俺の?」
「そうです」
「違うと思う」
「理由は?」
朔は右手を見る。
何もない。
でも。
握られていた感触。
小さい。
自分の手より。
ずっと。
「俺、雪の校庭で誰かと手繋いだ記憶ないです」
「忘れている可能性は?」
「ある」
「なら」
「でも」
朔は止まる。
「俺の視点じゃなかった気がする」
黒瀬の目が僅かに細くなる。
「どういう意味だ」
「手」
朔は自分の掌を見る。
「握ってた方じゃなくて」
少し。
寒気。
「握られてた方だった」
静かになる。
御厨も。
黒瀬も。
何も言わない。
朔は天井を見る。
白。
帰りなさい。
あなたのいるべき場所へ。
どこに。
あの女は。
答えなかった。
代わりに。
何かを。
見せた。
そう考えた瞬間。
「御厨」
黒瀬が言った。
「はい」
「去年の資料」
「何を確認します?」
「《耐性》って書いてあるところ」
黒瀬は朔を見る。
「全部、保留にしろ」
御厨が一瞬だけ止まった。
「分かりました」
「耐性じゃない?」
朔が訊く。
「知らん」
「じゃあ何」
黒瀬は紙コップを口へ運ぶ。
「それを今から調べる」
一口飲んで、少し顔をしかめた。
「冷めてる」
「ずっと持ってるから」
「うるさい」
御厨が小さく息を吐いた。
朔はもう一度、右手を見る。
握られていた。
冷たい。
小さな手。
誰の。
分からない。
ただ。
今朝より。
白い女が少しだけ近くなった。
そんな気がした。
第二話 了




