第一話 帰らなきゃ
午前八時四十七分。
伊東朔は遅刻していた。
正確には、まだ遅刻していない。
講義開始まで十三分。駅から大学までは徒歩十五分。
つまり。
「無理だな」
信号は赤。目の前を車が流れている。
朔はスマートフォンを見る。
友人の久世からメッセージが届いていた。
《一限来る?》
《向かってる》
すぐ既読。
《それは来ない奴の返事》
《十三分ある》
《駅だろ》
朔はスマートフォンを伏せた。
なぜ分かった。
いや、昨日「明日は絶対一限行く」と言った人間が、八時四十七分に既読を付ければ大体分かる。
朝の交差点。
会社員。学生。自転車。車。
いつも通りだった。
朔は信号が変わるのを待つ。
その時だった。
「帰らなきゃ」
隣の男が言った。
四十代くらい。スーツ姿。
独り言だろうか。
朔は少しだけ男を見る。
男は正面を向いたままだ。
信号は、まだ赤。
「帰らなきゃ」
また言った。
朔は視線を戻す。
朝から疲れている人間など珍しくない。
「帰らなきゃ」
今度は違う声だった。
隣に立っていた女子高校生。
朔が振り向く。
「帰らなきゃ」
前にいる老女。
「帰らなきゃ」
後ろの若い男。
一人。
二人。
五人。
十人。
「帰らなきゃ」
「帰らないと」
「家に」
「帰らなきゃ」
声が増えていく。
朔はスマートフォンを見る。
八時四十八分。
たった一分しか経っていない。
周囲には二十人ほどいる。
その全員が、同じ方向を向いていた。
交差点の向こうではない。
上だ。
朔も視線を上げる。
道路沿いのビル。その屋上。
一人の女が立っていた。
白い服。
長い黒髪。
距離があるため、顔までは見えない。
風が吹く。
髪だけが揺れている。
朔の背中に汗が滲んだ。
朝だからではない。
怖い。
普通に、怖かった。
女は屋上の柵の外側に立っている。
人がいる。
落ちる。
一瞬そう思った。
だが、違う。
女は落ちそうなのではない。
こちらを見ている。
そんな気がした。
――帰りなさい。
声。
朔は周囲を見る。
誰だ。
老人。高校生。会社員。
誰も口を動かしていない。
――あなたのいるべき場所へ。
頭の中へ直接響く。
朔の指先が冷えた。
心臓が速い。
帰る。
どこに。
家。
実家。
自分の部屋。
違う。
もっと何か。
懐かしい場所。
暖かい。
何も考えなくていい。
誰かがいる。
自分を知っている。
失敗する前。
面倒になる前。
そこへ。
帰る。
隣の男が一歩踏み出した。
赤信号。
車。
クラクション。
女子高校生も歩き出す。
老女も。
全員が道路へ向かっていた。
「ちょっと」
朔は隣の男の腕を掴んだ。
男は止まらない。
「危ない」
反応もない。
車が急ブレーキを踏む。
悲鳴。
別の歩行者が倒れる。
それでも男は歩き続ける。
「帰らなきゃ」
朔は腕を引いた。
重い。
「どこに」
口から出た。
男が止まった。
朔も止まる。
「……え」
「帰らなきゃ」
「だから」
朔は男の腕を掴んだまま聞いた。
「どこに?」
男の顔に、初めて迷いが浮かんだ。
「……」
「家?」
答えない。
「どこの?」
女子高校生の足も止まった。
老女も。
交差点へ踏み出しかけていた人々が、少しずつ動かなくなっていく。
――帰りなさい。
また声が響いた。
さっきより強い。
朔は屋上を見る。
白い女。
「どこに?」
声が止まった。
朔自身、少し驚いた。
問い返すつもりだったわけではない。
ただ、分からなかった。
帰れと言われても、場所がない。
「いるべき場所って」
一度、息をする。
「どこ?」
白い女は動かない。
風が吹いている。
道路ではクラクションが鳴り続けている。
なのに、そこだけが妙に静かだった。
――帰り。
声が途中で止まる。
朔は眉を寄せた。
「どこに」
白い女が、ほんの少しだけ首を傾げた。
背中に寒気が走る。
それまでこちらへ命令していたものが。
初めて、答えを探したように見えた。
次の瞬間。
音が戻った。
「危ない!」
誰かの怒鳴り声。
車。
ブレーキ。
高校生が悲鳴を上げる。
男が朔の手を振り払った。
「何!?」
「え」
「何なんだよ!」
男は道路の中央に立っていた。
自分がどこにいるのか気づいたらしい。
顔色が変わる。
「なんで……」
老女がその場に座り込む。
高校生が泣き始める。
人々が一斉に周囲を見回していた。
まるで、今この場所へ来たばかりのように。
信号は赤。
車が止まり、運転手たちが怒鳴っている。
朔は上を見る。
屋上には誰もいなかった。
白い女は消えていた。
「……」
心臓はまだ速い。
手も震えている。
怖かった。
でも、それ以上に。
何だった。
今の。
声。
人間。
屋上。
なぜ。
朔は道路の端へ下がった。
スマートフォンを見る。
八時五十分。
久世からまた届いている。
《もう諦めて二限から来い》
朔は返信欄を開いた。
《なんかあった》
入力して、止める。
消す。
何と書けばいい。
《集団で道路に出た》
違う。
《白い女が》
もっと違う。
《帰れって》
説明できない。
スマートフォンをしまう。
遠くからサイレンが聞こえた。
近づいてくる。
早い。
誰かが通報したらしい。
救急。
警察。
大学。
朔は時計を見る。
「完全に遅刻だな」
横では女子高校生が泣いていた。
今考えることではない。
分かってはいる。
*
午前九時十一分。
交差点には規制線が張られていた。
警察官。
救急隊。
負傷者。
幸い、重傷者はいないらしい。
朔は歩道の端に立っていた。
帰っていいのか分からない。
警察官に「少し待ってください」と言われたから待っている。
事情聴取。
大学。
欠席。
久世。
どう説明する。
「最悪だ」
「こっちの台詞なんだけど」
声。
朔が振り返る。
女性が立っていた。
パンツスーツ。髪を後ろでまとめている。
見覚えがある。
かなりある。
「……御厨さん」
御厨美冬。
県警。
去年。
地下鉄。
事情聴取。
何度も会った。
そして、できれば二度と会いたくなかった。
御厨は朔を見る。
次に交差点を見る。
そして、もう一度朔を見る。
「なんで」
「俺もそれ聞きたいです」
「なんでまた、あなたがいるんですか?」
「通学路なので」
「そういう話ではなく!」
周囲の警察官が見る。
御厨は一度咳払いして、声を落とした。
「怪我は」
「ないです」
「道路、出ました?」
「途中まで」
「なぜ?」
「周りが出たから止めようとして」
御厨が少し意外そうな顔をする。
「止めた?」
「一人だけ」
「それから?」
朔は屋上を見る。
もう何もいない。
御厨が視線を追う。
「何か?」
「人」
「どこに?」
「いないです」
「いたんですか?」
「多分」
御厨が嫌そうな顔をした。
「その『多分』、久しぶりに聞きました」
「一年ぶりなので」
「嬉しくない再会ね」
「俺も」
御厨は手帳を出す。
「最初から話してください」
「講義に遅れそうで」
「そこ要る?」
「最初からって」
「事件から!」
「じゃあ最初からじゃない」
御厨が目を閉じた。
「伊東さん」
「はい」
「お願いだから今日は普通に答えてください」
「答えてます」
「去年もそう言って……!」
朔は少し考える。
「隣の人が『帰らなきゃ』って言ったのが最初です」
御厨の表情が変わった。
「それが最初?」
「俺が聞いた範囲では」
「続けてください」
朔は話した。
同じ言葉。
増えていく人。
屋上の白い女。
声。
帰りなさい。
あなたのいるべき場所へ。
道路へ進む人々。
そして。
「質問したら止まりました」
御厨のペンが止まった。
「何て?」
「どこにって」
「誰に」
「最初は隣の人」
「最初は?」
「そのあと女にも」
「……女と話したの?」
「話したというか」
「返したんですか?」
「はい」
御厨は額を押さえた。
「一年経って、まるで何も学習してない」
「何が」
「知らないものに話しかけない!」
「向こうから先に」
「そういう問題じゃない!」
近くの警察官がまたこちらを見る。
御厨は声を落とした。
「で」
「はい」
「何が起きたんですか」
「女が止まりました」
「止まった?」
「多分」
御厨が睨む。
「……動かなくなりました」
「元々は動いていたんですか」
「ほぼ動いてないけど」
「伊東さん」
「首傾げた」
御厨が止まった。
「誰が」
「女」
「いつ」
「俺が『どこに』って聞いたあと」
御厨はそれを書き留める。
「その後、消えたんですね」
「はい」
「他の人は正常に戻った」
「そう見えました」
「声は」
「聞こえなくなった」
御厨は質問を続ける。
「顔は」
「見えない」
「年齢」
「分からない」
「服」
「白」
「髪」
「黒。長い」
「身長」
「距離あるから分からない」
「何か特徴」
朔は考えた。
「……俺を見てた」
「根拠は?」
「ない」
「じゃあ事実と分けます」
「はい」
御厨は手帳へ線を引く。
「『本人は、女が自分を見ていたと感じた』」
「警察っぽい」
「警察です」
「去年も思ったけど」
「何ですか」
「結構ちゃんと分けるんですね」
御厨が呆れた顔をする。
「私を何だと思ってたの」
「怪物見たって言ったら信じてくれなかった」
「普通は信じません!」
「今は?」
御厨が止まる。
「……保留」
「成長ですね」
「殴りますよ」
「警察が?」
「……忘れてください」
御厨は手帳を閉じた。
「他の目撃者にも確認します」
「何を?」
「白い女について」
周囲を見る。
道路。
歩道。
人。
救急車。
「同じものを見てるかどうか」
「違う可能性は?」
御厨の顔が少し固くなった。
「……去年がそうでした」
地下鉄。
乗客。
全員。
違う怪物。
朔も黙る。
「ここで待っていてください」
「講義が」
「行く気ですか?」
「学生なので」
「今、何時ですか?」
朔はスマートフォンを見る。
九時十九分。
「まだ遅刻」
「もう欠席でしょう」
「途中参加は……」
「諦めなさい」
そのままスマートフォンが震えた。
久世。
《生きてる?》
朔は少し驚く。
《なんで》
《駅前事故ってるって》
《生きてる》
すぐ既読。
《ならいい》
もう一通。
《一限は代返できないから諦めろ》
朔は少し笑った。
「何ですか」
御厨が訊く。
「友達」
朔は画面を御厨へ向けるでもなく、そのままスマートフォンを下ろした。
「大学行くなって」
「察しがいいですね」
「代返できないからって」
「……前言撤回します」
朔はスマートフォンをしまう。
その時。
御厨の無線が鳴った。
『御厨さん』
「はい」
『目撃者の証言、取れてます』
「何人ですか?」
『今で十二人です』
「女は?」
一拍。
『全員、見てます』
御厨の顔が変わる。
朔にも聞こえていた。
「同じものが?」
御厨は無線へ問い返す。
「外見は?」
『白い服。長い黒髪。女性。ビル屋上』
御厨が朔を見る。
去年とは違う。
全員が、同じものを見ている。
『ただ……』
「何でしょう」
『一人だけ……顔が違うって』
「どう違いますか?」
『本人の……』
雑音。
『亡くなった母親だったそうです』
沈黙。
朔は屋上を見る。
誰もいない。
白い女。
帰りなさい。
あなたのいるべき場所へ。
母。
家。
過去。
「伊東さん」
「はい」
「今日はもう大学、諦めてください」
「何で」
「事情聴取です」
「何時間」
「分かりません」
朔は嫌そうな顔をした。
「怪物には突っ込むのに、事情聴取は嫌なの?」
「長いので」
「本当に基準がおかしい」
御厨は歩き出す。
朔もついていく。
数歩進んでから、振り返った。
ビルの屋上。
空。
何もない。
それでも一瞬だけ、あの声を思い出した。
帰りなさい。
そして、自分の声。
どこに?
あの時。
女は答えられなかった。
ただ、それだけ。
少なくとも。
この時の朔は、そう思っていた。
第一話 了




