SS「答えをください」
午後四時十二分。
榊原冬一郎は、レポートを読んでいた。
三十二本目。
テーマ。
《他者を理解することは可能か》
「可能か、と聞かれても」
赤ペン。
止まる。
学生本人が。
自分で付けた題だった。
本文。
《私は、完全な他者理解は不可能だと考える。なぜなら――》
「なら最初からそう書けばいいでしょう」
独り言。
研究室。
返事はない。
本。
本。
本。
机。
紙。
マグカップ。
榊原は一行読む。
戻る。
また読む。
赤ペン。
《「理解」の定義が曖昧。》
書く。
次。
《人間は結局、自分自身のフィルターを通してしか他者を――》
「フィルター」
止まる。
便利な言葉だった。
便利すぎる。
《比喩で済ませず、何がどのように介在するのか書くこと。》
赤。
増える。
学生が見たら嫌がるだろう。
仕方ない。
提出した。
読む。
書く。
返す。
仕事。
怪異より。
ずっと分かりやすい。
ドア。
ノック。
「どうぞ」
開く。
学生。
三回生。
顔は知っている。
名前。
少し。
考える。
「佐々木君」
「はい」
合っていた。
「どうしました」
「あの」
学生が紙を持っている。
「ゼミのテーマで相談が」
「どうぞ」
向かい。
椅子。
本が積んである。
「あ」
榊原が本をどける。
「すみません」
「先生の部屋なのに俺が謝るんですか」
「では謝らなくて結構です」
「はい」
座る。
紙。
差し出す。
《自己同一性と社会的役割について》
榊原は見る。
「興味がある?」
「はい」
「どこに」
「人って、相手によって性格変わるじゃないですか」
「はい」
「家族の前と、友達の前と、バイト先とか」
「はい」
「その時」
学生。
少し考える。
「どれが本当の自分なんだろうって」
榊原の手が。
少しだけ。
止まった。
「先生?」
「いえ」
最近。
似た話ばかり聞く。
理由は。
多分。
偶然。
多分。
「それを研究したい?」
「はい」
「なら、いいのでは」
「いいんですか」
「私が許可する話ではありません」
「でもテーマとして」
「成立するか、という意味なら成立します」
学生が少し安心する。
「じゃあ」
紙。
見る。
「どれが本当だと思います?」
「私が?」
「はい」
「なぜ私に聞くんです」
学生が止まる。
「先生だから」
「危険な理由ですね」
「危険?」
「教員だから答えを知っていると思う」
「知らないんですか」
「知らないことの方が多いですよ」
「でも専門」
「専門家は、答えを全部知っている人ではありません」
「じゃあ」
「何が分からないかを、多少細かく知っている人です」
学生が。
微妙な顔をする。
「思ってたより頼りない」
「健全な認識です」
*
午後四時四十六分。
相談。
まだ続く。
「例えば」
学生。
「バイト先では愛想いいけど、家では無口な人がいたとして」
「はい」
「どっちが本当なんですか」
「なぜ片方だけが本当だと思うんです?」
「え」
学生が止まる。
榊原も止まる。
また。
質問に質問を返した。
癖。
「すみません」
「いや」
「何がです」
「続けてください」
榊原は手を組む。
「なぜ、一つである必要があると思いました?」
「自分だから?」
「それは答えになっていますか」
「なってない?」
「私に聞かない」
「難しいな」
「研究なので」
学生は紙へ何か書く。
《一つである必要?》
「でも」
顔を上げる。
「全部本当って言ったら、何でもありになりません?」
「なりますか?」
「あ」
「今のは質問です」
「分かってます」
少し。
学生が慣れてきた。
「嘘ついてる時も自分?」
「嘘をついたのは誰です」
「自分」
「なら、少なくとも行為の主体としては」
「自分」
「そうですね」
「じゃあ嘘も本当の自分?」
「その言い方だと、かなり混乱します」
「先生が始めたんですけど」
「私は一つである必要を聞いただけです」
「面倒だな、哲学」
「今さらですか」
学生が笑う。
榊原も。
少し。
笑った。
*
午後五時十四分。
学生は帰った。
紙。
《本当の自分とは何か》
から。
《なぜ「本当の自分」が一つだと思うのか》
へ。
問いが変わっていた。
それでいい。
答えは。
まだ。
いらない。
榊原はレポートへ戻る。
三十二本目。
読もうとして。
スマートフォン。
震える。
黒瀬。
「……」
少し。
嫌な予感。
「もしもし」
『今いいか』
「よくないと言ったら?」
『五分で済ませる』
「ならどうぞ」
『神代真白の件だ』
やはり。
「何です」
『報告書で、現象の分類を詰めてる』
「警察の仕事では」
『意見だけ聞く』
「便利ですね、外部有識者」
『便利だから使ってる』
「堂々と言いますね」
『《集合的願望由来の自律存在》』
「長い」
『御厨にも言われた』
「それで?」
『概念として変か』
榊原は椅子にもたれる。
「現象を記述する言葉としては、現時点では大きく外してはいないでしょう」
『現時点』
「重要です」
『分かってる』
「それと」
『何だ』
「神代自身の説明には使わない方がいい」
一拍。
『理由』
「それは成立過程の仮説です」
『本人そのものではない』
「はい」
黒瀬。
少し黙る。
『宇佐見と同じこと言うな』
「嫌ですね」
『俺も思った』
「では切ります」
『待て』
「五分経ちます」
『まだ二分だ』
「測ってるんですか」
『仕事だからな』
「警察は大変ですね」
『大学も大概だろ』
榊原は机を見る。
レポート。
三十二。
残り。
十一。
「否定はしません」
『伊東は』
「今日は見ていません」
『そうか』
「何かありました?」
『ない』
「ならいいでしょう」
『ないうちに確認してる』
「それは正しい」
『珍しく素直だな』
「切りますよ」
『はいはい』
通話。
終わる。
榊原はスマートフォンを置く。
神代真白。
集合。
願望。
母。
家。
帰還。
個人。
いくらでも。
説明は作れる。
どれも。
少しずつ。
合っているかもしれない。
だから。
危ない。
説明は。
人間より。
綺麗にまとまりやすい。
*
午後五時二十一分。
榊原はマグカップを持ち上げた。
底。
少し。
茶色い。
伊東。
《洗ってるのかなって》
「……」
立つ。
研究室を出る。
給湯室。
水。
スポンジ。
洗剤。
カップ。
洗う。
茶色。
落ちる。
思ったより。
簡単だった。
「先生」
背後。
声。
振り向く。
朔。
「何してるんですか」
「見れば分かるでしょう」
「洗ってる」
「はい」
「本当に?」
「あなたは何を見てるんですか」
朔が近づく。
カップを見る。
「きれい」
「失礼ですね」
「いや」
「何です」
「洗うんだなって」
「洗います」
「いつも?」
榊原。
止まる。
「……」
「先生?」
「質問の仕方が悪い」
「どこが」
「頻度を聞く必要がありますか」
「気になる」
「知ってどうするんです」
「安心する」
「何に」
「衛生」
榊原はカップをすすぐ。
「週に」
止まる。
「何回だろう」
「分からないんだ」
「洗っています」
「答えになってない」
「十分です」
「先生がそれ言う?」
水。
止める。
榊原はカップを見る。
白い。
きれい。
「伊東君」
「はい」
「あなたは何をしに来たんです」
「あ」
朔が鞄を見る。
「レポート」
「先週締切の?」
「はい」
「今週ですが」
「持ってきた」
「期限は伸びません」
「怪異」
「免罪符にはなりません」
「警察」
「証拠が増えましたね」
「逃げ道がない」
「学習してください」
朔がレポートを出す。
榊原が受け取る。
表題。
《他者を理解することは可能か》
「……」
「何」
「今日、二回目です」
「何が」
「同じ問い」
「誰か書いた?」
「はい」
「答えは」
「本人に考えさせました」
「先生は?」
「何がです」
「どう思う」
榊原は朔を見る。
また。
答え。
求める顔。
ただ。
以前より。
少しだけ。
待てる顔。
「完全には」
榊原は言う。
「分からないでしょうね」
「うん」
「でも」
カップを持つ。
「分からないから、関わらなくていいことにはならない」
朔が少し黙る。
「先生っぽい」
「教員なので」
「それ答え?」
「私の考えです」
「同じでは」
「違います」
「面倒」
「あなたに言われたくありません」
朔が笑う。
「コーヒー淹れる?」
「飲むんですか」
「洗ったし」
「そこが条件だったんですか」
「少し」
榊原は研究室へ戻る。
朔もついてくる。
「先生」
「何です」
「今日の豆いつの」
榊原は。
少し。
考える。
「質問が多い」
「答えられない?」
「帰りなさい」
二人。
止まる。
一拍。
「普通の意味です」
「分かってます」
朔が言った。
榊原も。
少しだけ。
笑った。
SS 了
SS次回でいったん区切ります。




