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深層汚染  作者: 真夜不寝
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20/21

SS「答えをください」

 午後四時十二分。

 榊原冬一郎は、レポートを読んでいた。

 三十二本目。

 テーマ。

《他者を理解することは可能か》

「可能か、と聞かれても」

 赤ペン。

 止まる。

 学生本人が。

 自分で付けた題だった。

 本文。

《私は、完全な他者理解は不可能だと考える。なぜなら――》

「なら最初からそう書けばいいでしょう」

 独り言。

 研究室。

 返事はない。

 本。

 本。

 本。

 机。

 紙。

 マグカップ。

 榊原は一行読む。

 戻る。

 また読む。

 赤ペン。

《「理解」の定義が曖昧。》

 書く。

 次。

《人間は結局、自分自身のフィルターを通してしか他者を――》

「フィルター」

 止まる。

 便利な言葉だった。

 便利すぎる。

《比喩で済ませず、何がどのように介在するのか書くこと。》

 赤。

 増える。

 学生が見たら嫌がるだろう。

 仕方ない。

 提出した。

 読む。

 書く。

 返す。

 仕事。

 怪異より。

 ずっと分かりやすい。

 ドア。

 ノック。

「どうぞ」

 開く。

 学生。

 三回生。

 顔は知っている。

 名前。

 少し。

 考える。

「佐々木君」

「はい」

 合っていた。

「どうしました」

「あの」

 学生が紙を持っている。

「ゼミのテーマで相談が」

「どうぞ」

 向かい。

 椅子。

 本が積んである。

「あ」

 榊原が本をどける。

「すみません」

「先生の部屋なのに俺が謝るんですか」

「では謝らなくて結構です」

「はい」

 座る。

 紙。

 差し出す。

《自己同一性と社会的役割について》

 榊原は見る。

「興味がある?」

「はい」

「どこに」

「人って、相手によって性格変わるじゃないですか」

「はい」

「家族の前と、友達の前と、バイト先とか」

「はい」

「その時」

 学生。

 少し考える。

「どれが本当の自分なんだろうって」

 榊原の手が。

 少しだけ。

 止まった。

「先生?」

「いえ」

 最近。

 似た話ばかり聞く。

 理由は。

 多分。

 偶然。

 多分。

「それを研究したい?」

「はい」

「なら、いいのでは」

「いいんですか」

「私が許可する話ではありません」

「でもテーマとして」

「成立するか、という意味なら成立します」

 学生が少し安心する。

「じゃあ」

 紙。

 見る。

「どれが本当だと思います?」

「私が?」

「はい」

「なぜ私に聞くんです」

 学生が止まる。

「先生だから」

「危険な理由ですね」

「危険?」

「教員だから答えを知っていると思う」

「知らないんですか」

「知らないことの方が多いですよ」

「でも専門」

「専門家は、答えを全部知っている人ではありません」

「じゃあ」

「何が分からないかを、多少細かく知っている人です」

 学生が。

 微妙な顔をする。

「思ってたより頼りない」

「健全な認識です」

*

 午後四時四十六分。

 相談。

 まだ続く。

「例えば」

 学生。

「バイト先では愛想いいけど、家では無口な人がいたとして」

「はい」

「どっちが本当なんですか」

「なぜ片方だけが本当だと思うんです?」

「え」

 学生が止まる。

 榊原も止まる。

 また。

 質問に質問を返した。

 癖。

「すみません」

「いや」

「何がです」

「続けてください」

 榊原は手を組む。

「なぜ、一つである必要があると思いました?」

「自分だから?」

「それは答えになっていますか」

「なってない?」

「私に聞かない」

「難しいな」

「研究なので」

 学生は紙へ何か書く。

《一つである必要?》

「でも」

 顔を上げる。

「全部本当って言ったら、何でもありになりません?」

「なりますか?」

「あ」

「今のは質問です」

「分かってます」

 少し。

 学生が慣れてきた。

「嘘ついてる時も自分?」

「嘘をついたのは誰です」

「自分」

「なら、少なくとも行為の主体としては」

「自分」

「そうですね」

「じゃあ嘘も本当の自分?」

「その言い方だと、かなり混乱します」

「先生が始めたんですけど」

「私は一つである必要を聞いただけです」

「面倒だな、哲学」

「今さらですか」

 学生が笑う。

 榊原も。

 少し。

 笑った。

*

 午後五時十四分。

 学生は帰った。

 紙。

《本当の自分とは何か》

 から。

《なぜ「本当の自分」が一つだと思うのか》

 へ。

 問いが変わっていた。

 それでいい。

 答えは。

 まだ。

 いらない。

 榊原はレポートへ戻る。

 三十二本目。

 読もうとして。

 スマートフォン。

 震える。

 黒瀬。

「……」

 少し。

 嫌な予感。

「もしもし」

『今いいか』

「よくないと言ったら?」

『五分で済ませる』

「ならどうぞ」

『神代真白の件だ』

 やはり。

「何です」

『報告書で、現象の分類を詰めてる』

「警察の仕事では」

『意見だけ聞く』

「便利ですね、外部有識者」

『便利だから使ってる』

「堂々と言いますね」

『《集合的願望由来の自律存在》』

「長い」

『御厨にも言われた』

「それで?」

『概念として変か』

 榊原は椅子にもたれる。

「現象を記述する言葉としては、現時点では大きく外してはいないでしょう」

『現時点』

「重要です」

『分かってる』

「それと」

『何だ』

「神代自身の説明には使わない方がいい」

 一拍。

『理由』

「それは成立過程の仮説です」

『本人そのものではない』

「はい」

 黒瀬。

 少し黙る。

『宇佐見と同じこと言うな』

「嫌ですね」

『俺も思った』

「では切ります」

『待て』

「五分経ちます」

『まだ二分だ』

「測ってるんですか」

『仕事だからな』

「警察は大変ですね」

『大学も大概だろ』

 榊原は机を見る。

 レポート。

 三十二。

 残り。

 十一。

「否定はしません」

『伊東は』

「今日は見ていません」

『そうか』

「何かありました?」

『ない』

「ならいいでしょう」

『ないうちに確認してる』

「それは正しい」

『珍しく素直だな』

「切りますよ」

『はいはい』

 通話。

 終わる。

 榊原はスマートフォンを置く。

 神代真白。

 集合。

 願望。

 母。

 家。

 帰還。

 個人。

 いくらでも。

 説明は作れる。

 どれも。

 少しずつ。

 合っているかもしれない。

 だから。

 危ない。

 説明は。

 人間より。

 綺麗にまとまりやすい。

*

 午後五時二十一分。

 榊原はマグカップを持ち上げた。

 底。

 少し。

 茶色い。

 伊東。

《洗ってるのかなって》

「……」

 立つ。

 研究室を出る。

 給湯室。

 水。

 スポンジ。

 洗剤。

 カップ。

 洗う。

 茶色。

 落ちる。

 思ったより。

 簡単だった。

「先生」

 背後。

 声。

 振り向く。

 朔。

「何してるんですか」

「見れば分かるでしょう」

「洗ってる」

「はい」

「本当に?」

「あなたは何を見てるんですか」

 朔が近づく。

 カップを見る。

「きれい」

「失礼ですね」

「いや」

「何です」

「洗うんだなって」

「洗います」

「いつも?」

 榊原。

 止まる。

「……」

「先生?」

「質問の仕方が悪い」

「どこが」

「頻度を聞く必要がありますか」

「気になる」

「知ってどうするんです」

「安心する」

「何に」

「衛生」

 榊原はカップをすすぐ。

「週に」

 止まる。

「何回だろう」

「分からないんだ」

「洗っています」

「答えになってない」

「十分です」

「先生がそれ言う?」

 水。

 止める。

 榊原はカップを見る。

 白い。

 きれい。

「伊東君」

「はい」

「あなたは何をしに来たんです」

「あ」

 朔が鞄を見る。

「レポート」

「先週締切の?」

「はい」

「今週ですが」

「持ってきた」

「期限は伸びません」

「怪異」

「免罪符にはなりません」

「警察」

「証拠が増えましたね」

「逃げ道がない」

「学習してください」

 朔がレポートを出す。

 榊原が受け取る。

 表題。

《他者を理解することは可能か》

「……」

「何」

「今日、二回目です」

「何が」

「同じ問い」

「誰か書いた?」

「はい」

「答えは」

「本人に考えさせました」

「先生は?」

「何がです」

「どう思う」

 榊原は朔を見る。

 また。

 答え。

 求める顔。

 ただ。

 以前より。

 少しだけ。

 待てる顔。

「完全には」

 榊原は言う。

「分からないでしょうね」

「うん」

「でも」

 カップを持つ。

「分からないから、関わらなくていいことにはならない」

 朔が少し黙る。

「先生っぽい」

「教員なので」

「それ答え?」

「私の考えです」

「同じでは」

「違います」

「面倒」

「あなたに言われたくありません」

 朔が笑う。

「コーヒー淹れる?」

「飲むんですか」

「洗ったし」

「そこが条件だったんですか」

「少し」

 榊原は研究室へ戻る。

 朔もついてくる。

「先生」

「何です」

「今日の豆いつの」

 榊原は。

 少し。

 考える。

「質問が多い」

「答えられない?」

「帰りなさい」

 二人。

 止まる。

 一拍。

「普通の意味です」

「分かってます」

 朔が言った。

 榊原も。

 少しだけ。

 笑った。

SS 了

SS次回でいったん区切ります。

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