SS「夢を見ない夜」
水城澪は、夢を見なかった。
正確には。
覚えていなかった。
目を開けた時、最初に見えたのは自分の部屋の天井だった。
白い。
普通。
木はない。
枝も。
根も。
女も。
澪はしばらく布団の中で天井を見た。
「……ない」
声に出す。
何年も。
何度も見た夢。
大きな木。
知らない場所。
なのに懐かしい。
そこへ帰らなければならないような。
誰かに待たれているような。
そんな夢。
昨夜は。
なかった。
嬉しい。
はずだった。
*
午前十一時。
大学図書館。
休講期間は明けたが、人は少ない。
澪はいつもの棚の前にいた。
民俗。
宗教。
神話。
境界。
手に取った本。
『樹木信仰と他界観』
表紙を見る。
戻す。
隣。
『異界訪問譚の構造』
取る。
戻す。
「集中できない」
自分で言う。
「珍しいね」
横。
朔。
「いつからいたの」
「今」
「驚かせないで」
「普通に歩いてきた」
「足音薄い」
「何それ」
朔は棚を見る。
「卒論?」
「一応」
「進んでる?」
「一応」
「便利」
「何が」
「一応」
澪は本を一冊抜いた。
「伊東君は何してるの」
「返却」
「本読むんだ」
「失礼」
「質問してるイメージが強いから」
「読むよ」
「何を」
朔が持っていた本を見る。
『他者の心はいかにして知られるか』
「そのままだ」
「何が」
「伊東君」
「本が?」
「うん」
朔は少し嫌そうな顔をした。
「水城の本は」
澪の手。
『異類婚姻譚研究』
「そのまま」
「何が」
「水城」
「仕返し雑」
少し。
笑う。
普通。
事件の前と。
同じ。
たぶん。
「真白さんは?」
澪が訊く。
「家」
「一人?」
「久世がいる」
「大丈夫?」
「どっちが」
「家」
「そこ?」
朔は本を返却台へ置く。
「真白が久世に料理教えてもらってる」
「逆では」
「俺もそう思った」
「何作ってるの」
「カレー」
「無難」
「火が怖いらしい」
「真白さん?」
「久世」
「何で」
「真白が火に近い」
澪は少し想像する。
「止めた方がいいのでは」
「俺がいた方が危ないって言われた」
「妥当」
「水城まで」
*
図書館を出る。
昼。
空。
よく晴れている。
大学の中庭。
あの場所。
木。
今は。
普通の木しかない。
澪は足を止めた。
「どうした」
朔。
「何でもない」
言ってから。
「やっぱり」
訂正する。
「夢」
「夢?」
「見なくなった」
朔が止まる。
「木の?」
「うん」
「いつから」
「真白さんが出てきてから」
風。
葉。
音。
「よかった?」
朔が訊く。
澪は中庭を見る。
「分からない」
「そっか」
それだけだった。
もっと。
聞かれると思った。
なぜ。
寂しい?
怖い?
また見たい?
そういう。
質問。
でも。
来ない。
澪が朔を見る。
「聞かないの」
「何を」
「夢がなくなってどう思うか、とか」
「聞いてほしい?」
澪は少し考える。
「今はいい」
「じゃあ聞かない」
「変わったね」
「何が」
「質問」
「減った?」
「少し」
「病気かな」
「御厨さん呼ぶ?」
「やめて」
澪は笑った。
中庭を見る。
「嬉しいと思ってた」
「うん」
「小さい頃から何度も見てたから。怖い時もあったし」
「うん」
「でも」
木。
ない。
「なくなると、少し寂しい」
朔は何も言わない。
「変だよね」
「別に」
「嫌だったものなのに」
「嫌いなものがなくなって寂しいこともあるんじゃない」
「ある?」
「知らない」
「知らないんだ」
「水城が今そうなら、少なくとも一件ある」
澪は少し。
止まった。
「そういうところ」
「何」
「たまにいいこと言う」
「たまに?」
「たまに」
*
午後二時。
大学近くの喫茶店。
澪は紅茶。
朔はブラックコーヒー。
「苦くない?」
「苦い」
「なんで飲むの」
「好きだから」
「矛盾」
「そう?」
「苦いの嫌じゃない?」
「嫌じゃない」
「じゃあ矛盾じゃないか」
澪は紅茶へ砂糖を入れる。
「真白さん、何が好き?」
「プリン」
「早いね」
「黄色いの」
「種類じゃなくて?」
「黄色かったから選んだ」
澪は少し笑う。
「かわいい」
「言うと嫌がるかも」
「何で」
「分からない」
「聞いた?」
「聞いてない」
澪はスプーンを止める。
「本当に変わった」
「さっきも言った」
「前なら聞いてた」
「そうかも」
「何が違うの」
朔はコーヒーを見る。
「聞いたら」
少し。
「答えようとするから」
「真白さんが?」
「人が」
澪は黙る。
「答えたくなくても?」
「たぶん」
「伊東君、答えを聞きたいだけじゃないの」
「そういう時もある」
「今も?」
「今?」
「私が夢を見なくなって、どう思ってるか」
朔は澪を見る。
「知りたい」
「聞かないの」
「今はいいって言ったから」
澪は紅茶を飲む。
甘い。
「そっか」
少し。
嬉しい。
なぜかは。
考えない。
考えると。
意味をつけすぎる気がした。
*
夕方。
澪は一人で帰る。
駅。
ホーム。
夕焼け。
電車。
窓。
流れる街。
木。
一つ。
二つ。
何本も。
全部。
普通の木。
でも。
目が行く。
昔なら。
夢の木に似ているかを考えた。
今は。
考えない。
家。
夜。
布団。
目を閉じる。
夢。
来るかもしれない。
来ないかもしれない。
どちらでも。
少し怖い。
どちらでも。
少し楽しみ。
朝。
目を開ける。
天井。
夢。
覚えている。
木ではなかった。
駅。
知らない町。
猫。
なぜか。
赤い傘。
それだけ。
「……普通」
澪は笑った。
スマートフォンを取る。
朔へ。
《夢見た》
送る。
すぐ。
《木?》
澪。
《猫》
既読。
少し。
《なんで》
澪は画面を見る。
「結局聞くんだ」
笑う。
返信。
《知らない》
少しして。
《そっか》
それで終わった。
夢に。
意味がある日も。
ない日も。
ある。
たぶん。
今は。
それでよかった。
SS 了




