SS「記載方法」
午後七時十三分。
県警本部の小会議室には、三人しか残っていなかった。
御厨美冬。
黒瀬宗一郎。
宇佐見玲奈。
机の中央には、厚さだけは立派な報告書の束がある。
御厨はノートパソコンの画面を見た。
「確認します」
「まだやるのか」
黒瀬は椅子へ深く座ったまま言った。
「まだ終わってません」
「現象は終わった」
「書類は終わってません」
「現場より強いな」
「何がですか」
「書類」
御厨は無視した。
「《対象女性》の表記なんですが」
玲奈が顔を上げる。
「対象女性?」
「これまでの報告書です」
「今後もそう書くんですか」
「そこを確認しています」
黒瀬が紙コップを持ち上げる。
「神代真白でいいだろ」
「身元確認が取れてません」
「本人が名乗ってる」
「戸籍もありません」
「だからって《対象女性》に戻すのも変だろ」
御厨は黙った。
その通りなのが腹立たしい。
「《神代真白を名乗る女性》」
玲奈が言った。
「長いですね」
「正確ではあります」
「毎回それ書くんですか」
「最初だけでいいでしょう」
黒瀬が茶を飲む。
顔をしかめる。
「冷めてる」
「いつもですね」
「いつ淹れたんですか」
「覚えてない」
「飲まない方がいいですよ」
「二人とも本題に戻ってください」
御厨が画面へ視線を戻した。
「次。《当該存在》」
「それもやめません?」
玲奈。
「どこですか」
「十九頁」
御厨がスクロールする。
《当該存在は伊東朔との接触後、安定した身体構造を獲得したと推定される。》
「これです」
「何が問題ですか」
「本人が読む可能性は?」
「あります」
「なら、《当該存在》と呼ばれてどう感じるでしょうね」
御厨は少し止まった。
「報告書ですから」
「そうですね」
玲奈は否定しない。
「でも、報告書に書かれた呼び方が、そのまま現場の呼び方になることもあります」
黒瀬が紙コップを置く。
「宇佐見は《神代さん》にしたい?」
「私は、呼べる名前があるなら名前を使えばいいと思っています」
「現象として扱う時は」
「現象と人を分けます」
即答だった。
「神代真白さんに起きている現象と、神代真白さんは同じものではありません」
黒瀬が少し笑った。
「そこは一貫してるな」
「仕事なので」
御厨は文章を見る。
《当該存在は》
カーソル。
削除。
《神代真白は》
止まる。
「……これで?」
「いいんじゃないですか」
玲奈。
黒瀬も頷く。
「次」
「まだあるんですか」
「あります」
「帰りたい」
「帰ってください」
「その言葉、最近使いにくいな」
黒瀬が天井を見る。
御厨も少しだけ思った。
確かに。
*
二十分後。
「《精神汚染源》」
御厨が読み上げた。
玲奈の視線が黒瀬へ向く。
黒瀬は露骨に嫌そうな顔をした。
「俺を見るな」
「あなたが言った言葉です」
「現場でな」
「報告書にも入っています」
「誰が書いた」
「私です」
「消せ」
「なぜですか」
「本人が見たら面倒だ」
「そこですか?」
「そこもだ」
玲奈が資料を引き寄せる。
「現象の説明としても粗いと思います」
「代案」
「《認知構造への逆方向的干渉が疑われる》」
黒瀬。
「長い」
「《逆流型》」
御厨。
「能力名みたいです」
「《精神汚染型》」
黒瀬が言った。
二人が見る。
「仮称だ」
「本人には?」
御厨。
「言う」
「言うんですか」
「隠してどうする」
「さっき本人が見たら面倒って」
「《汚染源》よりはマシだ」
玲奈が腕を組む。
「言葉を付けること自体が、本人の自己認識へ影響する可能性があります」
「分かってる」
「なら慎重に」
「だから三人で夜まで残ってるんだろ」
少し。
静かになった。
御厨は黒瀬を見る。
疲れている。
いつもだが。
今日は特に。
「黒瀬さん」
「何だ」
「伊東さんのこと、かなり気にしてます?」
「危険人物だからな」
「そういう意味ではなく」
「じゃあ聞くな」
敬語が。
少しだけ。
抜けた。
御厨はそれ以上聞かなかった。
玲奈も何も言わない。
黒瀬は新しい紙コップへ手を伸ばした。
「それ、古い方です」
「……どっちだ」
「右です」
「最初に言え」
「今言いました」
*
午後八時二分。
報告書はまだ終わらない。
御厨のスマートフォンが震えた。
伊東から。
《真白が警察に聞きたいことあるって》
御厨は嫌な予感がした。
《何ですか》
既読。
少し間。
《住民票どうするの》
御厨は画面を見る。
「何ですか」
玲奈が訊く。
「神代さんの住民票」
黒瀬が目を閉じた。
「来たか」
「何が」
「現実」
玲奈が少し笑う。
「戸籍からでしょうか」
「笑い事じゃない」
「笑ってません」
「笑ってた」
御厨は返信する。
《こちらでも確認します》
すぐ。
《真白が「いつ」って》
「……」
黒瀬。
「何だ」
「期限を聞かれました」
「怪異より役所の方が強いな」
御厨が黒瀬を見る。
「それ、伊東さんが言いそうですね」
「言うな」
「なぜですか」
「腹立つから」
玲奈が今度こそ笑った。
*
午後八時十九分。
三人は一階の自動販売機前にいた。
夕食。
というには。
かなり悲しい。
御厨はサンドイッチ。
玲奈はおにぎり。
黒瀬はカップ麺。
「健康」
御厨が言う。
「警察官に言われたくない」
「私はサンドイッチです」
「大差ない」
玲奈が包装を開ける。
「神代さん、今頃何してるんでしょうね」
御厨は少し考える。
「伊東さんの家でしょう」
「それは知っています」
「なら」
「何をしてるか、です」
黒瀬が湯を注ぐ。
「伊東に質問してるんじゃないか」
「逆かもしれません」
玲奈。
「神代さんが?」
「伊東さんに」
「地獄だな」
「黒瀬さん」
「何だ」
「少し楽しそうですね」
「疲れてるだけだ」
三分。
待つ。
黒瀬は蓋を押さえている。
御厨はサンドイッチを一口。
玲奈もおにぎり。
誰も喋らない。
普通の職場。
普通の夜。
今日。
世界が一度。
かなり危ないところまで行った。
でも。
今は。
カップ麺の三分を待っている。
「御厨」
「はい」
「三分」
「自分で見てください」
「時計遠い」
「スマートフォンあるでしょう」
「手が塞がってる」
「私を何だと思ってるんですか」
「部下」
「殴りますよ」
黒瀬が顔を上げた。
「警察が?」
御厨は止まった。
玲奈も止まる。
一秒。
二秒。
「……忘れてください」
玲奈が吹き出した。
黒瀬も。
少しだけ。
笑った。
「伊東さんですね」
「最悪」
「感染しました?」
玲奈が言う。
三人。
少し。
黙る。
黒瀬が蓋を開けた。
「その言い方はやめろ」
「はい」
湯気。
上がる。
それで。
その日の仕事は。
まだ。
二時間続いた。
SS 了




