SS「髪を切る」
髪が邪魔だった。
神代真白は、朝から三度そう思った。
一度目は顔を洗った時。
二度目は朝食のトーストへ髪が落ちた時。
三度目は、ドライヤーを渡された時だった。
「これ、何」
「乾かすやつ」
朔が言った。
「知ってる」
「じゃあ何で聞いた」
「どのくらい」
「何が」
「時間」
「髪?」
「うん」
朔は真白の髪を見る。
腰近くまである。
「十分くらい?」
「長い」
「乾かさないと風邪引くよ」
「切る」
「急だな」
「昨日も邪魔だった」
「じゃあ切れば」
真白はドライヤーを持ったまま朔を見る。
「どこで」
「美容院」
「行ったことない」
「知ってる」
「朔は」
「俺?」
「切れる?」
「無理」
「使えない」
「髪切れないだけで?」
「今」
「範囲限定なら認める」
真白はコンセントを見る。
差す。
スイッチ。
風。
「うるさい」
「それはそう」
十分。
では終わらなかった。
*
「何で私なんですか」
御厨が言った。
午後。
駅前。
真白は御厨の隣を歩いている。
「朔が」
「あの人、自分で連れて行けばいいでしょう」
「美容院、苦手らしい」
「知りませんよ」
「予約も苦手」
「それは知ってます」
御厨はため息をついた。
「電話一本でしょう」
「昨日、十五分画面見てた」
「何を」
「予約ボタン」
「……それはもう別の問題ですね」
真白は御厨を見る。
「御厨は平気?」
「美容院?」
「電話」
「仕事で一日何本してると思ってるんですか」
「分からない」
「かなりです」
「嫌?」
「嫌でもします」
「仕事だから?」
「そうです」
真白は少し考えた。
嫌でもする。
必要だから。
自分で決めたわけではないことも。
する。
人間は面倒だった。
「何ですか」
「何も」
「伊東さんみたいな顔しないでください」
「どんな」
「何か考えてる顔」
「考えてた」
「でしょうね」
*
美容院は明るかった。
鏡。
椅子。
匂い。
音楽。
人。
真白は入口で止まった。
「嫌なら別の店でも」
御厨が言う。
「嫌ではない」
「緊張?」
「分からない」
「じゃあ、とりあえず入りましょう」
受付。
名前。
「神代真白です」
言う。
まだ。
少しだけ。
自分の名前を口にする時。
身体の内側に引っかかる。
でも。
嫌ではない。
椅子。
座る。
鏡の中。
自分。
同じ顔。
同じ目。
同じ髪。
美容師が後ろから髪を持ち上げる。
「かなり長いですね」
「長い」
「どのくらい切ります?」
真白は鏡を見る。
分からない。
短い。
長い。
似合う。
似合わない。
何を基準に決めればいい。
隣の席。
御厨。
雑誌を読んでいる。
「御厨」
「はい?」
「どのくらい」
御厨が顔を上げた。
一瞬。
何か言おうとする。
でも。
「私が決めるんですか?」
「分からないから」
「じゃあ」
御厨は真白を見る。
「何が嫌なんです?」
「乾かすの長い」
「なるほど」
「顔にかかる」
「はい」
「寝る時、下になる」
「分かります」
「邪魔」
「ずいぶん明確ですね」
真白は鏡を見る。
「じゃあ」
御厨が自分の肩あたりを指す。
「このくらいなら、かなり楽になります」
「短い?」
「今よりは」
「乾く?」
「かなり早いです」
真白は美容師を見る。
「ここ」
肩。
指す。
「肩くらいですね」
「はい」
「前髪は?」
また。
新しい問題。
真白は眉を寄せる。
御厨が笑った。
「一個決めると次が来ますよ」
「めんどう」
「人生そんなものです」
「嫌なこと言う」
「事実です」
*
鋏。
音。
髪。
落ちる。
黒い。
長い。
床へ。
真白は鏡を見る。
自分の身体から。
何かが。
切り離されていく。
痛くない。
血も出ない。
なのに。
少し。
変な感じがした。
「大丈夫ですか?」
美容師が訊く。
「はい」
「切りすぎた?」
「違う」
真白は落ちた髪を見る。
「戻らない?」
「髪なら伸びますよ」
「同じもの?」
「……同じというか」
美容師が困る。
御厨が横から言った。
「今それ聞きます?」
「気になった」
「伸びても、今落ちた髪そのものではないでしょうね」
「そう」
真白はもう一度見る。
自分で。
切ると決めた。
だから。
なくなった。
失った。
でも。
怖くない。
「何か?」
御厨。
「何でもない」
「そうですか」
鋏。
また。
音。
*
一時間後。
鏡。
肩に触れる黒髪。
軽い。
首。
見える。
頭を動かす。
髪が遅れて揺れる。
「どうですか」
美容師。
真白は右を見る。
左。
戻る。
同じ顔。
でも。
少し。
違う。
「軽い」
「それはよかったです」
御厨も見る。
「似合ってますよ」
「似合う?」
「はい」
「本当に?」
「そこで疑うんですか」
「朔は何でも『いいんじゃない』って言う」
「伊東さんに聞く相手を間違えてます」
「御厨は」
「私は似合ってると思います」
「そう」
真白は鏡を見る。
「私は」
少し。
考える。
「好き」
御厨が一度だけ。
小さく笑った。
「なら、それが一番です」
*
夕方。
家。
玄関。
朔が出てくる。
「あ」
見る。
「切った」
「見れば分かる」
「どう」
朔は真白を見る。
髪。
肩。
顔。
「いいんじゃない」
真白は無言で御厨を見る。
「言ったでしょう」
「本当に言った」
「何が」
朔だけ分かっていない。
「朔」
「何」
「質問」
「うん」
「乾かす時間、どのくらいになる?」
「五分?」
「それはいい」
「そこ?」
真白は自分の髪を触る。
「そこ」
御厨が笑う。
「理由として十分でしょう」
「そうなんだ」
「本人がいいならいいんです」
朔は少しだけ真白を見る。
「じゃあ」
「何」
「いいんじゃない」
「二回目」
「何で怒られてるの」
真白は靴を脱ぐ。
髪。
軽い。
首。
少し寒い。
でも。
嫌ではなかった。
SS 了




