第一章《帰還》補遺
第一章《帰還》補遺
※このページには第一章《帰還》全編のネタバレが含まれます。
※第一章終了時点で確認されている事実と、登場人物たちによる暫定的な解釈を整理したものです。
※本文中ではまだ名前の付いていない現象について、便宜上の呼称を用いる場合があります。
※ここに書かれた「仮説」が、そのまま物語世界の真相とは限りません。
■《説明未了事案》
警察内部で、通常の事故・事件として十分に説明できない事案を扱う際に使われている呼称。
現場の一部では《特異事案》とも呼ばれているが、「特異事案係」のような専門部署が存在するわけではない。
黒瀬宗一郎の基本方針は、
「怪異の正体を決めることより、死人を出さないこと」
そのため警察側は、現象が「何なのか」よりも、
・どこまで被害が広がったか
・人間の行動にどう影響したか
・いつ起きたか
・誰が接触したか
・物理的な痕跡が残ったか
といった事実を優先して記録している。
分からないものを、分からないまま扱うための枠組みでもある。
■《深層》
第一章本文では、まだ正式な名称として登場していない。
本補遺では便宜上、人間の記憶・感情・象徴・願望などが、個人の境界を越えて共有されているように見える領域を《深層》と呼ぶ。
実在する場所なのか。
心理現象なのか。
人間の認識を介してのみ存在するものなのか。
その区別もついていない。
榊原冬一郎はユングの《集合的無意識》との類似を否定してはいないが、
「仮説を答えにするな」
という立場を取っている。
似ていることと、同じであることは別である。
■精神汚染
外部から流入した何らかの認知・感情・象徴によって、本人の知覚や判断、感情、行動などが変化する現象を指す便宜的な言葉。
医学的な診断名でも、確立された超常現象の分類名でもない。
第一章では、
「帰らなきゃ」と感じる。
存在しない場所へ帰ろうとする。
複数の人間が同じ象徴を見る。
自分のものではないように感じる記憶や感情が入り込む。
といった現象が確認された。
ただし、影響を受けた人間が単純に「操られている」とは限らない。
本人の記憶や願望と、外から来た何かが混ざっている可能性もある。
■《影》
第五話で榊原が提示した暫定的な説明。
人間は、
「自分はこういう人間だ」
「自分はこんなことを考えない」
「自分はこんなことをしたくない」
という自己像を持つ。
しかし実際には、怒り、嫉妬、逃げたい気持ち、誰かを傷つけたい衝動など、自分の理想像には収まらない感情も存在する。
そうしたものを本人が、
「これは自分ではない」
として強く切り離した時、それが本人と同じ姿を取って現れる現象が確認された。
朔自身にも《影》は現れている。
久世に対して「少し殴りたい」と思ったことを否定していた朔が、その感情の存在を認めた後、像は消失した。
ただし、
「嫌な感情を認めれば影は消える」
という法則が確定したわけではない。
確認されているのは一例のみ。
第一章で示されたのは、
嫌な感情を持つことと、その通りに行動することは同じではない。
そして都合の悪い感情だからといって、それだけで「自分ではない」とは限らない。
という点である。
■問いと《自己参照》
《自己参照》も本文中の正式な用語ではない。
本補遺では便宜上、存在が自分自身を認識し、自分について問い始める変化をそう呼ぶ。
最初の明確な例は、地下鉄で再発した怪異。
怪異がまだ何も言葉を発していない段階で、朔は、
「何が怖い?」
「お前が怖い?」
と問いかけた。
その後、初めて現れた言葉が、
「コワイ」
だった。
さらに朔が問い返すことで、
「ワタシ」
「ワタシガ」
「ワタシハ」
と主語が生まれていく。
そして最後には、
「ワタシハ ナニ」
と、怪異自身が自分について問い始めた。
朔が、
「俺も分からない」
と返すと、怪異も、
「ワカラナイ」
と言って消失する。
真白が「私は誰?」と問うより前に起きた、最初の《自己参照》の例である。
朔の問いが言葉や自己認識そのものを生んだのか。
元々存在していたものを引き出しただけなのか。
まだ分かっていない。
■伊東朔
二十二歳。大学三回生。
前年の地下鉄事案と、第一部冒頭の駅前事案の双方に遭遇している。
当初の警察資料では、
《精神干渉耐性の可能性》
と記録されていた。
精神への干渉を受けても、他の接触者より判断能力を維持できていたためである。
しかし第一章後半、その見方は変わっていく。
朔は干渉を受けていないのではない。
むしろ深く受け取っている。
違うのは、その後。
外から入ってきた認知を分ける。
問い直す。
自分なりに理解し直す。
そして、その変化した構造が再び外へ流れている可能性がある。
第一章終盤、黒瀬はこれを、
「精神汚染に耐えてるんじゃない。伊東自身が汚染源だ」
と表現した。
ただし、朔自身もこの現象を自由に発動・停止できるわけではない。
現時点では、「能力」と呼ぶこと自体が適切なのかも不明。
黒瀬曰く、
「能力が強くなることを、成長だと思うな」
人間としての成長と、現象の出力は別物である。
■神代真白
外見上は若い女性。
かなり小柄。
第一章以前の戸籍、住所、家族、生活歴などは確認されていない。
当初は「白い女」として現れた。
長い黒髪。
白い服。
顔は一定しない。
彼女は、多数の人間が持つ、
「帰りたい」
「戻りたい」
「安心したい」
「何も決めなくてよかった場所へ行きたい」
という願望と強く結びついていたと考えられている。
ただし、
願望そのものなのか。
願望から生まれた別の存在なのか。
元々何かが存在し、人間の願望によって形を与えられたのか。
分かっていない。
第一章後半、彼女は自分で「ましろ」という音を選ぶ。
その時点では、漢字も姓もない。
やがて、
「私は誰?」
と、自分自身へ問いを向ける。
そして最終盤。
「私は、神代真白」
と自ら名乗った。
その瞬間、それまで一定しなかった顔も固定されている。
現在は脈拍、体温、痛覚、涙、空腹など、人間に近い身体反応も確認されている。
ただし、これをもって「人間になった」と断定することはできない。
現在言えるのは、
神代真白という一人の人物として自分を名乗り、周囲からもそう扱われている。
ということだけである。
■《帰宅行動》
第一章で大規模に確認された異常行動。
影響を受けた人々は、
「帰らなきゃ」
と感じ、何らかの場所へ向かった。
しかし、その目的地は現在の自宅とは限らない。
昔住んでいた家。
幼少期の場所。
母親に関係する場所。
既に存在しない建物。
一度も住んだことのない場所。
共通していたのは「場所」よりも、
失敗する前。
何かを失う前。
選択しなくてよかった時。
誰かに守られていた状態。
安心できる場所。
といったものだった。
そのため《帰る》とは、地理的な帰宅だけではなく、
「ある状態へ戻る」
ことも含んでいたと考えられている。
■「帰る」から「帰す」へ
第十話付近から、現象に変化が起きる。
それまでの中心は、自分自身が帰ろうとする行動だった。
しかしその後、
玄関を開け、誰のものか分からない靴を並べる。
空き部屋に布団を敷き、食事を二人分用意する。
駅に毛布や飲料水を置く。
といった、
「誰かを帰そうとする」
行動が現れ始めた。
当事者たちは、
「帰ってくるから」
「帰す場所がないと困るから」
「帰れない人がいる」
と語った。
誰が帰ってくるのかは、本人たちにも分からない。
同じ頃、ましろ自身も、
「みんなを帰す」
一方で、
自分には帰る場所がないことを示している。
このことから、白い女は単に「帰りたい存在」だったのではなく、
他者を《帰す側》として成立していたのではないか。
という仮説が生まれた。
■白い花
大学で起きた現象の後、舗装の隙間から発見された小さな白い花。
朔と澪は、それ以前に夢や異常知覚の中で同様の花を見ている。
検査ではシロツメクサに非常に近い植物とされたが、完全には一致しなかった。
夢にあったものが現実へ出現したのか。
現実にあったものが夢へ入り込んだのか。
それとも双方に別の原因があるのか。
第一章終了時点では不明。
■《母》仮説
白い女と《帰還》現象を考えるため、榊原たちが一時的に使った枠組み。
ここでいう《母》は、実際の母親そのものではない。
家。
胎内。
保護。
安心。
危険から隔てられた内部。
自分で決めなくていい状態。
戻る場所。
そうした象徴をまとめたもの。
水城澪は「母性元型」との関連を指摘したが、榊原はそれも比喩に近いものとして扱っている。
したがって、
「神代真白の正体=母性元型」
ではない。
第一章で提示された解釈の一つにすぎない。
■主要人物
【伊東朔】
二十二歳。大学三回生。
理解できないものへ問いを向ける。
第一章を通して、「問う」という行為自体が相手を変える可能性を知り始める。
【神代真白】
「みんな」から「私」へ分かれた存在。
知識は多いが、個人としての経験はほとんどない。
第一章終了時点では朔の家で生活を始めている。
【久世直哉】
朔の友人。大学4回生
超常的な力は確認されていない。
本人曰く「一般人枠」。
だからこそ、怪異や能力ではなく、人間として朔たちを見る役割を持つ。
【御厨美冬】
県警。
朔が怪異へ近づけば止める側。
現在の朔を、監視すべき対象であると同時に、保護すべき人物としても扱っている。
【黒瀬宗一郎】
県警警部。
理解よりも判断を担当する。
分からないものを分からないまま扱いながら、それでも現場で決定を下す。
【榊原冬一郎】
大学教員。朔の指導教員。
哲学、認識、象徴などの側面から現象を見る。
仮説を立てることは認めるが、仮説を答えにすることを嫌う。
【水城澪】
大学四回生。
卒業論文では異類婚姻譚や「境界」を扱っている。
人間と異類。
村と外。
生者と死者。
帰る場所と、帰れない場所。
そうした「こちらと向こうの間」に関心を持つ。
また、幼い頃から巨大な木の夢を繰り返し見ている。
第一部で大学に現れた巨大な木は、その夢と強く類似していた。
朔が違いや構造を拾いやすいのに対し、澪は意味や類似を拾いやすい。
なぜ彼女だけが事件以前から木を見ていたのかは不明。
【宇佐見玲奈】
臨床心理士。警察への外部協力者。
怪異の正体より先に、その現象を経験している人間を見る。
「幻覚」「精神汚染」「能力」といった言葉と、その人自身を分けて考える。
■第一章終了時点の未解決事項
・《深層》は何なのか。
・伊東朔の現象は人間にも作用するのか。
・朔の現象に距離や接触の条件はあるのか。
・神代真白の身体はどのように成立し、維持されているのか。
・「神代」という名字はどこから来たのか。
・なぜ水城澪は事件以前から巨大な木を夢に見ていたのか。
・白い花は何だったのか。
・前年の地下鉄事案と今回の現象は同じものなのか。
・《影》は本当に本人の一部なのか。
・朔の「問い」は、実際には何をしているのか。
そして第一章の最後。
朔と真白は街中で、複数の人影のような異形を目撃した。
それらもまた、
「なぜ」
と問いかけた。
真白だけではない。
地下鉄の怪異だけでもない。
朔の問い方そのものが、別の何かへ広がり始めている可能性がある。
だが朔は、振り返らなかった。
すべての問いに、その場で答える必要はない。
■第一章《帰還》
「帰る場所」は、最初から存在しているとは限らない。
「自分」も、最初から完成しているとは限らない。
帰りたいという一つの言葉にも、人の数だけ理由がある。
誰かから来たものを持っているからといって、それが自分のものではないとは限らない。
どこへ帰るのか。
誰として帰るのか。
何を自分のものとして残すのか。
それを誰が決めるのか。
そして。
問いによって相手が変わるのなら。
質問することは、本当に中立なのか。
第一章で得られたのは、答えではない。
少なくとも。
自分の代わりに、誰かに決めてもらわなくてもいい。
そのことだけだった。
小説というか、物語を書きたいと思ったのはつい最近で、やるならまず書き切ろうと思って書き始めた作品です。拙いところや、わかりづらいところ色々あると思います。ここまで見ていただけているだけで私は嬉しいです。
後学のために、今後の励みになりますので、感想等々残していただけるとありがたいです。




