第十二話 汚染源
世界が割れた。
音が先だった。
ガラス。
氷。
木。
骨。
どれとも違う。
自分と、自分ではないものの境目が裂けるような音。
朔はましろの手を握っていた。
白。
暗い。
暖かい。
寒い。
全部。
一緒にある。
実家。
病室。
海。
学校。
知らない町。
知らない母親。
知らない葬式。
知らない誕生日。
知らない手。
全部。
記憶みたいに入ってくる。
「……」
どれが。
自分。
分からない。
でも。
分からないことだけは。
分かる。
手。
握っている。
これは。
たぶん。
自分の手。
相手。
ましろ。
たぶん。
ましろの手。
――私は、誰?
問いが残っている。
朔は答えなかった。
答えられない。
ましろが見る。
顔。
ない。
でも。
見られている。
「分からない」
朔は言った。
ましろの手が少し動く。
――わたし。
「うん」
――誰。
「それは俺には決められない」
――なぜ。
「ましろのことだから」
――わたしの。
「そう」
声。
周囲。
――帰って。
――帰りたい。
――戻りたい。
まだ。
止まらない。
ましろの輪郭が揺れるたび。
別の誰かが重なる。
「ましろ」
――はい。
返事。
まだある。
「その『はい』」
朔は少し息を吐く。
「それだけは、ずっと同じだな」
ましろが首を傾げる。
――同じ。
「うん」
それだけで。
少し。
安心する。
顔がなくても。
記憶がなくても。
呼べば。
返る。
誰かが。
いる。
周囲がまた揺れる。
白い世界。
下。
ない。
上。
ない。
海の中みたいだと。
朔は思った。
水。
どこまで行っても。
水。
境目がない。
「海」
――海。
「覚えてる?」
――みんな。
「そうだよな」
誰かの海。
誰かの帰りたい海。
誰かが見たことのない海。
全部。
ここにある。
朔は少し考える。
「海から」
ましろが見る。
「コップ一杯、水をすくったら」
――こっぷ。
「器」
――器。
「そこに入ってる水は、海と同じ?」
ましろは少し黙る。
――同じ。
「でも、海全部じゃない」
沈黙。
――海。
「から来た」
――来た。
「でも」
朔は握っている手を見る。
「その一杯は、その一杯だろ」
ましろの輪郭。
一度。
揺れる。
――わたし。
「たぶん」
――みんな。
「そこから来た」
――わたし。
「うん」
――みんな。
「全部じゃなくていい」
言ってから。
止まる。
また。
答えを置いた。
「……いや」
ましろが見る。
「今のも、俺の考え」
――考え。
「そう」
朔は息を吐く。
「合ってるかは知らない」
ましろは少し黙る。
そして。
――器。
「うん」
――割れる。
朔が見る。
――水。
――海。
戻る。
言われなくても。
分かった。
「そうだな」
――わたし。
ましろが胸へ手を置く。
――割れる。
「……」
――みんな。
朔は何も言えない。
ましろの指が。
自分の胸元を掴む。
――戻る。
海へ。
集合へ。
帰る。
「怖い?」
聞いた。
今度は。
必要だと思った。
ましろは長く黙った。
――怖い。
朔の手を握る力が強くなる。
そして。
声。
小さい。
でも。
他の声とは違った。
――私。
間。
――消えたくない。
朔は動けなかった。
帰りたい。
でもない。
帰したい。
でもない。
安心。
でもない。
誰かがそう願った声でも。
たぶん。
ない。
初めて。
ましろ自身が。
失いたくないものを言った。
「そっか」
それしか出なかった。
――私。
「うん」
――消えたくない。
「うん」
声。
返す。
それ以上。
何も足さない。
ましろが朔を見る。
――あなた。
「何」
――誰。
今度は。
朔が止まった。
「俺?」
――あなたは、誰?
白い世界。
静かになる。
少しだけ。
人間。
大学生。
伊東朔。
二十二歳。
三回生。
留年。
友達。
息子。
質問する。
面倒。
遅刻。
怪異。
全部。
答え。
でも。
全部ではない。
「分からない」
朔は言った。
ましろが見る。
「俺も」
少し笑う。
「分からない」
――怖い?
「ちょっと」
――消える?
「それも分からない」
――それでも。
朔は考える。
「今はいる」
それだけ。
ましろの手が。
少し。
緩む。
*
午後二時二十六分。
御厨は、監視映像を三度見直していた。
県警本部三階。
伊東が消えたのは、十二分ほど前だった。
二時十三分五十八秒。
異常ノイズ開始。
二時十四分零一秒。
映像白飛び。
二時十四分三秒。
会議室内の五人が同時に意識を失う。
二時十四分四秒。
伊東朔。
消失。
映像上は。
文字通り。
そこにいた人間が。
一フレーム後にはいない。
「もう一回」
黒瀬が言う。
解析担当が再生する。
御厨は時刻を見る。
画面。
伊東。
消える。
ノイズ。
その直後。
別画面。
駅。
繁華街。
大学周辺。
住宅街。
複数地点の監視映像。
人が。
一斉に止まる。
ほぼ同時。
「ずれは」
黒瀬。
「最大〇・八秒」
「伊東が消えたあと?」
「はい」
「全部?」
「確認できた範囲では」
玲奈が隣で資料を見る。
榊原は椅子に座ったまま、画面から目を離さない。
澪は別室で休ませている。
御厨は腕を組む。
「伊東さんが原因とは」
「まだ言ってない」
黒瀬。
「でも」
「分かってる」
映像。
住宅街。
一人の女が立ち止まる。
口。
動く。
音声。
『どこに帰るんだっけ』
別地点。
男。
『何で帰りたいんだ』
駅。
学生。
『帰りたいって、何に』
御厨の背中が冷える。
「……似てる」
玲奈が言った。
「伊東さんの問い方に」
榊原はすぐには答えない。
次。
老人。
『誰に会いたいんだ』
次。
『戻ってどうするんだろう』
次。
『そもそも、ここ家じゃない』
黒瀬。
「人数は」
「現在百七十三」
「全員?」
「言葉は違います。ただ」
解析担当が画面を切り替える。
「帰宅行動中だった対象のうち、自己質問行動が確認できた割合が急増しています」
「いつから」
「伊東さんの消失直後」
御厨は黙る。
第一印象。
偶然。
そう言いたい。
でも。
前にも。
順番が変わった。
白い女が先。
伊東が後。
途中から。
伊東が先。
現象が後。
地下鉄。
大学。
今回。
規模だけが。
大きい。
「宇佐見」
黒瀬。
「どう見る」
玲奈は少し考える。
「精神汚染という言葉を使うなら」
御厨が見る。
「はい」
「普通は、外から入ってきたものによって本人の認知や行動が上書きされる」
「今回もそう見えてた」
「最初は」
玲奈はモニターを見る。
「でも伊東さんの場合、入ってきたものがそのまま残っていない」
「分ける?」
「分解する。問い直す。自分なりの形で理解し直す」
御厨は伊東の顔を思い出す。
分からない。
なんで。
どこ。
それ同じ話?
「それで」
玲奈が続ける。
「再構成されたものが、外へ戻っているように見える」
榊原がようやく口を開く。
「感染というより」
少し。
「形式の伝播ですね」
「形式」
御厨。
「何を考えるかではなく」
榊原が指を組む。
「自分が何を考えているのか、自分自身へ問い返す。その仕方」
黒瀬が椅子へ座る。
「白い女が『なぜ』を使い始めた」
「はい」
「地下鉄の奴が『私は』と言った」
「はい」
「今は街中で人間が、自分の『帰りたい』に質問し始めてる」
「そう見えます」
黒瀬は黙る。
長い。
御厨は待つ。
「前」
黒瀬が言った。
「耐えてる奴と、効き方がおかしい奴は違うって言ったな」
「はい」
御厨。
「たぶん」
黒瀬は画面を見る。
「もっと違った」
玲奈が顔を上げる。
「黒瀬さん」
「こいつは」
伊東が消えた画面。
「精神汚染に耐えてるんじゃない」
御厨は何も言わない。
黒瀬。
少し。
言葉を選ぶ。
「伊東自身が」
一拍。
「汚染源だ」
部屋。
静か。
御厨は反射的に言う。
「本人にその言い方は」
「分かってる」
黒瀬は遮る。
「人間を病原体扱いする気はない」
「なら」
「でも現象としては、そう見るしかない」
玲奈が黒瀬を見る。
「言葉は慎重に使ってください」
「分かってる」
「本人がどう受け取るかも含めて、現象に影響する可能性があります」
「それも分かってる」
黒瀬の声が少し荒い。
疲れている。
御厨は気づく。
黒瀬は伊東を怖がっている。
たぶん。
それでも。
切り捨てようとはしていない。
「能力」
御厨が言う。
「なんでしょうか」
榊原が顔を上げる。
「そう呼ぶのは早いでしょう」
「でも」
「御厨」
黒瀬。
「それも後だ」
「はい」
「一つだけ」
黒瀬は全員を見る。
「この先、伊東本人がこれを使えるようになったとしても」
声。
低い。
「能力が強くなることを、成長だと思うな」
御厨は答えない。
「人間の中身と、現象の出力は別だ」
黒瀬。
「そこを混ぜると」
少し。
「取り返しがつかなくなる」
誰も。
反論しなかった。
*
帰りたい。
声。
また。
大きくなる。
朔はましろの手を握っていた。
境目。
薄い。
自分の中へ。
他人の帰りたい理由が流れ込む。
母親。
家。
失敗する前。
戦争の前。
病気になる前。
離婚する前。
子供が死ぬ前。
生まれる前。
何も持たない前。
何も失わない前。
全部。
帰りたい。
一つ。
同じ。
違う。
「……違うな」
朔が言う。
ましろが見る。
――違う。
「同じ言葉だけど」
帰りたい。
帰りたい。
帰りたい。
「それ」
朔は声の方を見る。
「同じ話じゃないだろ」
白い世界。
一瞬。
止まる。
言った。
また。
考えるより先。
「……」
頭痛。
強い。
声。
入る。
――帰りたい。
「どこに」
誰か。
――母さん。
別。
――高校。
別。
――あの部屋。
別。
――分からない。
別。
――死ぬ前。
別。
――生まれる前。
声。
分かれる。
朔は息をする。
「何で」
――会いたい。
――謝りたい。
――やり直したい。
――疲れた。
――怖い。
――一人になりたい。
――一人になりたくない。
ましろの手。
震える。
世界。
割れる。
違う。
分かれている。
声が。
一つから。
一人ずつへ。
「……」
朔の頭。
痛い。
これ。
自分が。
やっている。
たぶん。
止める。
どうやって。
分からない。
考えない。
無理。
問いが。
浮かぶだけで。
周囲へ。
広がる。
「ましろ」
――はい。
「俺」
息。
苦しい。
「質問しない方がいいかも」
――なぜ。
「それ」
少し笑う。
「もう遅い」
ましろ。
手を離さない。
声。
さらに分かれる。
――帰りたい。
――でも帰りたくない。
――会いたい。
――会いたくない。
――戻りたい。
――今も捨てたくない。
矛盾。
一人の中にも。
ある。
朔は聞く。
聞こうとしていない。
それでも。
聞こえる。
違う。
違う。
同じではない。
誰も。
同じ「帰りたい」ではない。
大きな声。
集合。
崩れる。
ましろの輪郭。
逆に。
少し。
戻る。
――私。
「うん」
――消えたくない。
「聞こえてる」
――私。
「うん」
――いる。
朔が見る。
「いたい?」
ましろ。
止まる。
――いたい。
言った。
今度は。
朔が聞いたから。
かもしれない。
でも。
さっきの。
消えたくない。
は。
聞いていない。
その差。
朔には。
分かる気がした。
「それ」
朔は言う。
「忘れない方がいい」
ましろが見る。
「……いや」
また。
止める。
「忘れるかどうかも、俺が決めることじゃない」
ましろの口元が。
少し動く。
――めんどう。
朔が止まる。
「誰に教わった」
――あなた。
「最悪」
少しだけ。
笑う。
その瞬間。
白い世界の奥。
光。
見える。
遠い。
細い。
外。
たぶん。
「出口?」
ましろが見る。
光。
御厨の声。
遠く。
「――伊東!」
聞こえた。
「御厨さん」
また。
「伊東!」
現実。
向こう。
引っ張っている。
朔は光を見る。
ましろの手。
握っている。
「行ける?」
ましろが。
朔を見る。
――あなた。
「俺は戻る」
――私。
止まる。
光。
揺れる。
朔は言葉を飲み込む。
一緒に来い。
そう言いそうになった。
それは。
自分の選択。
ましろの。
ではない。
「俺は戻る」
もう一度。
「向こうに人がいるから」
ましろ。
手。
強く握る。
――私。
「うん」
――消える。
「分からない」
――怖い。
「うん」
――離す。
朔は手を見る。
自分が。
握っている。
逃がさないように。
つなぎ止めるように。
でも。
いつから。
自分が。
彼女を残す側になった。
「……離した方がいい?」
ましろ。
しばらく。
黙る。
そして。
朔の手を。
握り直した。
――嫌。
朔が見る。
――掴む。
「俺が?」
――あなた。
「いいの」
――聞く。
「何を」
ましろの声。
少し。
怒ったように。
――多い。
「……はい」
――だから。
手。
強く。
――今は、掴んでろ。
朔は黙った。
「はい」
今度は。
自分が返事をした。
光が。
近づく。
外から。
御厨の声。
黒瀬。
誰か。
呼んでいる。
ましろの手。
まだ。
ある。
朔は。
離さなかった。
第十二話 了




