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深層汚染  作者: 真夜不寝
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11/21

第十一話 母胎

――帰って。

 声。

 何千。

 何万。

 白い世界の全部が。

 同じ言葉を繰り返している。

――帰って。

――帰って。

――帰って。

 朔は動けなかった。

 目の前。

 ましろ。

 その顔が。

 次々に変わる。

 母親。

 知らない女。

 老人。

 子供。

 誰でも。

 誰でもない。

「ましろ」

――帰って。

「ましろ」

――帰って。

「違う」

 何が。

 違う。

 分からない。

 でも。

 今の声は。

 ましろの声じゃない。

 たぶん。

「それ、ましろが言ってる?」

 問い。

 ましろの輪郭が揺れる。

――わたし。

 声。

 小さい。

――わたし。

 その上から。

――帰って。

 重なる。

――帰って。

――帰って。

 木。

 枝。

 家。

 病室。

 学校。

 全部が崩れる。

 壁が。

 床が。

 天井が。

 白へ溶けていく。

「ましろ!」

 手を伸ばす。

 届かない。

 距離。

 ない。

 ある。

 分からない。

 ましろの姿も白へ薄くなる。

――わたし。

 その一言だけが。

 残る。

 朔は走った。

 足元。

 ない。

 それでも。

 前へ。

「ましろ!」

 白。

 全部。

 消える。

*

 暖かい。

 それが最初だった。

 目を開ける。

 暗い。

 完全な暗闇ではない。

 赤。

 橙。

 ぼんやりとした光。

 朔は横になっていた。

 何の上か分からない。

 柔らかい。

 音。

 聞こえる。

 一定。

 低い。

 どく。

 どく。

 どく。

「……」

 心臓。

 自分の。

 違う。

 もっと大きい。

 外から。

 包む。

 空気は暖かい。

 寒くない。

 眩しくない。

 何も痛くない。

 頭痛も。

 消えている。

 身体が。

 軽い。

 いや。

 身体が。

 どこまでか。

 分からない。

 手。

 ある。

 たぶん。

 足。

 ある。

 でも。

 境目。

 曖昧。

 起きる必要がない。

 動く必要も。

 ない。

 何も。

 考えなくていい。

「……ここ」

 声。

 出した。

 必要なかった気がした。

 返事はない。

 どく。

 どく。

 どく。

 安心する。

 異常なくらい。

 眠い。

 目を閉じれば。

 全部。

 終わる。

 終わっても。

 困らない。

「……」

 朔は目を閉じる。

 少しだけ。

 楽。

 本当に。

 楽だった。

 出席。

 レポート。

 留年。

 警察。

 怪異。

 誰かの気持ち。

 自分の気持ち。

 全部。

 考えなくていい。

 誰にも。

 答えなくていい。

 何も。

 選ばなくていい。

 何かを選んで。

 何かを失うことも。

 ない。

「……これ」

 言葉。

 出す。

「帰る場所?」

 返事。

 ない。

 でも。

 違う。

 気がした。

 家より。

 前。

 母親の顔より。

 前。

 名前より。

 前。

 自分と。

 外が。

 分かれる前。

「母胎」

 誰かの声。

 榊原。

 ではない。

 自分の記憶。

 昨日の話。

 保護。

 包まれる場所。

 自分で決めなくていい状態。

「……ああ」

 朔は少し笑った。

「それか」

 どく。

 どく。

 どく。

 眠い。

 これなら。

 分かる。

 帰りたくなる。

 帰る。

 というより。

 出なければよかった。

 最初から。

「……」

 違和感。

 小さい。

 何か。

 足りない。

 朔は目を開ける。

 誰もいない。

「久世」

 返事。

 ない。

「御厨さん」

 ない。

「水城」

 ない。

「先生」

 ない。

「宇佐見さん」

 ない。

「黒瀬さん」

 ない。

 誰も。

 いない。

 当然。

 ここには。

 他人がいない。

 他人がいないから。

 傷つかない。

 怒られない。

 失望されない。

 分からないことを聞かれない。

 自分の知らない答えを。

 相手が勝手に持っていることもない。

 安心。

 完全。

「……」

 朔は起き上がろうとする。

 身体が重い。

 必要ない。

 そう言われている気がする。

 誰に。

 分からない。

「でも」

 久世。

 うるさい。

 勝手に来る。

 人のことを面倒と言う。

 御厨。

 止める。

 怒る。

 説明を求める。

 澪。

 自分と違う見え方をする。

 榊原。

 すぐ答えをくれない。

 玲奈。

 勝手に結論を出させない。

 黒瀬。

 嫌な可能性を先に言う。

 みんな。

 面倒。

 自分の思い通りにならない。

「それが」

 朔は息をする。

「他人だろ」

 心臓の音が。

 一度。

 乱れた。

 どく。

 どく。

「思った通りじゃないから」

 言う。

「いる意味があるんじゃないの」

 赤い暗闇。

 揺れる。

「全部俺の中なら」

 久世の軽口も。

 御厨の怒鳴り声も。

 澪の夢も。

 榊原の面倒な説明も。

 玲奈の待ち方も。

 黒瀬の判断も。

 全部。

 自分で作れる。

 でも。

「それは」

 少し。

「他人じゃない」

 暗闇。

 ひび。

 白い光。

 遠く。

 ましろ。

 いる。

 小さい。

 朔は立ち上がる。

 今度は。

 立てた。

「ましろ」

 彼女が見る。

 顔は。

 まだ。

 定まらない。

――ここ。

「ここ?」

――帰る。

「ましろの?」

 彼女は少し黙る。

――みんな。

「やっぱり」

 朔は周囲を見る。

 赤い。

 暖かい。

 何もない。

「これも、みんなの?」

――安心。

「うん」

――痛くない。

「うん」

――怖くない。

「そうだな」

――失わない。

 朔が止まる。

「何を」

――何も。

 ましろは言う。

――ない。

 だから。

 失わない。

 朔は少し理解する。

 何も持たなければ。

 失わない。

 誰とも分かれなければ。

 離れない。

 自分と他人を分けなければ。

 拒絶されない。

「でも」

 朔はましろを見る。

「それだと、誰もいない」

――みんな。

「みんなって言ったら」

 少し。

「一人ずつはいなくなるだろ」

 ましろが止まる。

――一人。

「うん」

――ましろ。

「それは名前」

――名前。

「呼ぶための」

 ましろが胸へ手を置く。

――わたし。

「うん」

――ましろ。

「うん」

――わたし?

 朔は答えようとして。

 止まる。

 誰。

 そう聞きそうになる。

 でも。

 聞かない。

「そこ」

 朔は言う。

「俺が決めることじゃない」

 ましろ。

 見る。

――なぜ。

「ましろのことだから」

――わたしの。

「うん」

――わたし。

「そう」

 言葉。

 短い。

 でも。

 前より。

 少しだけ。

 彼女自身から出ている気がする。

「生まれたのかな」

 朔が言う。

 ましろが首を傾げる。

――生まれる。

「俺も分からない」

――わたしは。

 止まる。

――生まれた?

 朔は少し考える。

「分からない」

 ましろ。

 じっと見る。

「でも」

 朔は続ける。

「前より、一人っぽくはなった」

――一人。

「名前も選んだ」

――選ぶ。

「俺が呼んだら返事する」

――はい。

 反射みたいに。

 返る。

 朔は少し笑う。

「それ」

――はい。

「今のは違う」

 ましろの口元が。

 少し動く。

 笑ったようにも。

 見えた。

「でも」

 朔は言う。

「一人になるって」

 難しい。

 何をもって。

 一人。

 身体。

 名前。

 記憶。

 選択。

 他人との違い。

「たぶん」

 言葉を探す。

「みんなと違っていい、ってことかも」

 ましろが見る。

「いや」

 朔は自分で止める。

「それも俺の答えか」

 ましろ。

 静か。

「ごめん」

――ごめん。

「そこは真似しなくていい」

――いい。

「それも」

 少し。

 普通。

 みたいで。

 朔は息を吐く。

 その時。

 心臓。

 大きく。

 鳴る。

 どくん。

 世界。

 揺れる。

 ましろの顔が崩れる。

「……」

――帰って。

 声。

 戻る。

 遠く。

――帰って。

 別。

――帰って。

 近い。

 ましろが耳を押さえる。

「ましろ?」

――帰って。

――帰して。

――ここに。

――ここへ。

――戻して。

 声。

 増える。

 ましろの輪郭。

 何人にも。

 重なる。

「ましろ!」

――お母さん。

――家。

――痛い。

――寒い。

――帰りたい。

――生まれたくない。

――一人にしないで。

――一人になりたい。

 矛盾。

 全部。

 一緒。

 ましろの中。

「ましろ」

 近づく。

 彼女が後ずさる。

――みんな。

「違う」

――わたし。

「うん」

――みんな。

「違う」

――わたし。

「うん」

――みんな。

「ましろ」

 声。

 何千。

 何万。

 彼女の口から。

 身体から。

 周囲から。

 溢れる。

 顔。

 母親。

 子供。

 老人。

 男。

 女。

 知らない。

 知っている。

 全部。

 ましろ。

 ではない。

「名前」

 朔が言う。

「ましろ」

――ましろ。

「そう」

――ましろ。

「うん」

――名前。

「うん」

――わたし。

 輪郭。

 一瞬。

 戻る。

 朔は手を伸ばす。

「こっち」

 指。

 触れる。

 冷たい。

 違う。

 暖かい。

 分からない。

 ましろが朔の手を見る。

 握る。

 初めて。

 向こうから。

「……」

――わたし。

「うん」

――ましろ。

「うん」

 握る。

 強く。

 声。

 周囲。

 帰って。

 帰って。

 帰って。

 ましろが震える。

――わたしは。

 また。

 止まる。

「急がなくていい」

 朔が言う。

 自分でも。

 少し驚く。

「分からなくても」

 そこで。

 言葉を止める。

 あの時。

 幻の実家で。

 選ぶ。

 同じことを。

 また言いそうになった。

 違う。

 今は。

 選ぶ話じゃない。

「……」

 黙る。

 ましろが朔を見る。

 声。

 どんどん。

 大きくなる。

――帰って。

――帰して。

――わたし。

――みんな。

――わたし。

――みんな。

 手。

 握る。

 ましろ。

 顔。

 消える。

「ましろ!」

――わたし。

 違う声。

――わたし。

 もっと。

――わたし。

 増える。

 全員が。

 私。

 と言う。

 誰の。

 私。

「……」

 朔の頭が。

 痛む。

 境目。

 また。

 薄い。

 自分の記憶。

 誰かの記憶。

 実家。

 病室。

 海。

 学校。

 知らない母親。

 知らない子供。

 全部。

 自分のように。

 入る。

「違う」

 何が。

 違う。

 分からない。

 でも。

 久世は。

 自分ではない。

 御厨も。

 澪も。

 ましろも。

 違う。

 違うから。

 他人。

「ましろ」

 呼ぶ。

 返事。

 ない。

「ましろ」

――わたし。

「違う」

――わたし。

「名前じゃない」

――わたし。

 彼女が。

 両手で。

 頭を押さえる。

 声。

 止まらない。

――わたし。

――わたし。

――わたし。

 そして。

 突然。

 全部。

 止まる。

 ましろが顔を上げる。

 顔。

 ない。

 白い。

 ただ。

 輪郭だけ。

 声。

 一つ。

 小さい。

――わたし。

 間。

――は。

 長い。

 沈黙。

 朔は何も言わない。

 待つ。

 彼女の。

 次。

 ましろの手が。

 朔の手を。

 強く握る。

 そして。

 初めて。

 自分に向けて。

 問う。

――私は、誰?

 世界が。

 割れた。

*

 午後二時十四分。

 御厨は床で目を覚ました。

「……」

 県警本部。

 会議室。

 机が倒れている。

 椅子。

 資料。

 床。

 照明。

 点滅。

「黒瀬警部」

「いる」

 声。

 近い。

 黒瀬が起き上がる。

 玲奈。

 榊原。

 澪。

 一人ずつ。

 動く。

「水城さん」

 玲奈が近づく。

「大丈夫?」

「はい」

 澪は頭を押さえている。

「夢」

「見てた?」

「……分からない」

「伊東さんは」

 御厨が振り向く。

 椅子。

 机。

 床。

 いない。

「伊東さん?」

 返事。

 ない。

「伊東さん!」

 会議室。

 いない。

 廊下。

 御厨が走る。

「伊東!」

 返事。

 ない。

 洗面所。

 空。

 鏡。

 ひび。

 白い。

 何も。

 映っていない。

「黒瀬警部!」

 足音。

 黒瀬。

「いない」

「監視カメラ」

「確認する」

 榊原が会議室から出てくる。

「水城さんが」

「何ですか」

 御厨。

「まだ見えているそうです」

 澪。

 廊下の壁にもたれている。

 顔色。

 悪い。

「何が」

 御厨が訊く。

「木」

「大学の?」

「違う」

 澪は目を閉じる。

「どこか」

 呼吸。

 浅い。

「白いところ」

「伊東さんは?」

 澪が黙る。

「水城さん」

「いる」

 御厨が止まる。

「どこに」

「木の中」

 黒瀬。

「何?」

「伊東君と」

 澪が目を開ける。

「ましろが」

 少し。

 震える。

「一緒にいる」

「出られそうですか」

 玲奈が訊く。

 澪は首を振る。

「分からない」

「何が起きてる」

 黒瀬。

 澪は答えようとして。

 止まる。

「境目が」

「何」

「二人の」

 息を吸う。

「どっちがどっちか、分からなくなってる」

 廊下。

 誰も喋らない。

 御厨は割れた鏡を見る。

 白い。

 何もない。

 その奥に。

 誰かがいるような。

 気がした。

 でも。

 見えない。

 黒瀬が言う。

「伊東を探せ」

 御厨は頷く。

「はい」

「今度は」

 黒瀬の声が低い。

「こっちから引っ張る」

第十一話 了

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