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第9話 裁かれる側へ


あれから10日あまり。


久しぶりに足を踏み入れたオフィスの空気は、相変わらず乾燥していて、どこかよどんでいた。

 かつては、この空気に馴染もうと必死だった。


けれど今は、ただの「戦場」にしか見えない。


「行こう、三上さん」


隣に立つ初老の男性――カオルさんが紹介してくれた、労働問題に強い高木たかぎ弁護士が、力強く頷いた。

 私は背筋を伸ばし、自動ドアをくぐった。


フロアに入ると、電話の音やキーボードを叩く音が響いていた。

 私の姿に気づいた数人の元同僚が、ギョッとして目を丸くする。ヒソヒソというざわめきが、さざ波のように広がっていく。


その視線の先にいる人物、総務の黒田部長が、不機嫌そうに顔を上げた。


「……ああん? 三上?」


黒田は椅子にふんぞり返ったまま、鬱陶しそうに手を振った。


「なんだ、今さら。退職手続きなら終わってるぞ。部外者が勝手に入ってくるな」


「話がありまして」


「話だ? 泣きついても無駄だぞ。お前みたいな不倫女、雇い直すわけが……」


黒田の声は大きかった。フロア中の社員に聞こえるように、わざと「不倫女」という単語を強調している。


以前の私なら、恥ずかしさで縮こまっていただろう。

 でも、今は違う。


「訂正してください、黒田部長」


私は一歩も引かずに言い返した。


「私は不倫などしていません。あれは、完全な事実無根の冤罪でした」


「はあ? 証拠もあっただろうが。往生際が悪いぞ」


「その証拠が間違いだったと、相手方の弁護士も認めています」


私が合図を送ると、高木弁護士が一歩前へ出た。


彼は鋭い眼光で黒田を射抜くと、フロア全体に響くような通る声で告げた。


「弁護士の高木です。三上ヒカリ氏の代理として参りました」


「べ、弁護士……?」


「当社は、貴殿に対し、三上氏への『退職強要』『名誉毀損』および『強要』についての損害賠償、ならびに退職の無効を主張します」


オフィスの空気が一変した。

 黒田の顔から余裕が消える。


「な、なんだそれは。うちはコンプライアンスに基づいて処理をしただけだ! 会社に内容証明が届くような社員はリスクだから……」


「内容証明? ああ、あなたが『勝手に開封した』あの手紙のことですね」


高木弁護士が冷ややかに笑う。


「刑法第133条、信書開封罪。正当な理由なく個人の信書を開封する行為は犯罪です。内容証明であろうと、宛名が個人であればプライバシーは保護される。会社だからといって、中身を確認する権利などどこにもありません」


「そ、それは……会社の秩序を守るために!」


「秩序? 事実確認もせず、怯える女性社員を密室に閉じ込め、怒号を浴びせて退職届を強要することが、御社のコンプライアンスですか?」


高木弁護士は、ICレコーダーを取り出した。

 再生ボタンを押す。


そこから流れてきたのは、あの日、この男が私に浴びせた暴言の数々だった。


『お前の男事情なんぞ知らん!』

『不倫女を雇っておく余裕はないんだよ』

『退職届を書け。それがせめてもの情けだ』


フロア中の社員が手を止め、聞き耳を立てている。

 黒田の顔が、赤から青、そして土気色へと変わっていく。


「これは……違う、私は……」


「さらに、不倫の事実は存在しなかった。三上氏は完全な被害者です。貴殿は、無実の社員を、自らの保身と偏見だけで社会的に抹殺しようとした。……これは、明確なパワーハラスメントであり、不法行為です」


高木弁護士の言葉は、鋭利な刃物のように黒田を切り刻んだ。

 周囲の視線が、私への軽蔑から、黒田への疑念と軽蔑へと変わっていくのがわかる。


「う、嘘だ……不倫してないなんて……」


「本当です」


私は黒田を真っ直ぐに見据えた。


「相手の奥様とも和解し、真犯人も見つかりました。……確認さえしてくれれば、すぐにわかったことなのに。あなたは私の話なんて、1秒も聞こうとしなかった」


黒田はパクパクと口を開閉させ、脂汗を垂らして後ずさった。

 その時、奥の社長室のドアが開いた。


騒ぎを聞きつけた役員たちが、厳しい表情で出てくる。


「……黒田くん。ちょっと話がある。社長室へ来たまえ」


「せ、専務……ち、違うんです、これは誤解で……」


「録音も聞かせてもらったよ。……君の処分は免れないだろうな」


言い訳を叫びながら連行されていく黒田の背中は、あの日、会社を追い出された時の私よりもずっと惨めで、小さかった。


***


その後、会社側は全面的に非を認め、解雇の撤回と慰謝料の支払いに応じた。


職場復帰も打診されたけれど、私は丁重にお断りした。

 あんな場所に戻るつもりはない。ただ、「戻れる権利」を勝ち取り、それを自ら捨てることに意味があった。


手にしたのは、十分すぎる解決金と、回復した名誉。


会社を出ると、眩しいほどの西日が差していた。

 これで、すべて終わった。


――いや、彼らの地獄はこれからか。


風の噂で聞いた。

 確認不足で冤罪を作り上げた佐伯弁護士は、カオルさんからの懲戒請求を受け、弁護士会から厳しい処分が下る見込みだという。事務所の評判は地に落ち、廃業は時間の問題だろう。


兄のリョウタは、アヤさんとの離婚が成立したものの、慰謝料問題で泥沼化しているらしい。世間体を気にして揉み消そうとしたことが裏目に出て、職場にも「不倫騒動の当事者」としての噂が広まり、出世コースから外されたそうだ。


両親も、近所の目が怖くて家に引きこもっているという。


そして、元凶であるアヤさんと、トモヤ。

 カオルさんと、敏腕の高木弁護士がタッグを組んでいるのだ。二人が背負うことになる慰謝料と社会的制裁は、想像するだけで恐ろしい。


「……さあ、行こう」


私は大きく伸びをした。


スマホのアドレス帳から、「家族」と「会社」の連絡先をすべて削除する。

 画面から消えた名前と共に、私の心にこびりついていた重い鉛も消え失せた。


空っぽになったスマホ。

 それは孤独の証ではなく、自由の切符だ。


私はヒールを鳴らし、新しい人生へと続くアスファルトを踏みしめた。

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