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第10話(最終話) 失ったもの、得たもの



「三上さん、この資料ありがとう。すごく見やすかったよ」


「いえ、数字を整理しただけですので」


「その『丁寧さ』が助かるんだよ。前の人が雑だったからさあ。君に来てもらって本当によかった」


新しい職場の上司は、笑顔でそう言って缶コーヒーをデスクに置いてくれた。


ここは小さな貿易会社の事務室。

 前職のような大企業ではないけれど、働いている人たちは穏やかで、私の「真面目さ」を「融通が利かない」ではなく「信頼できる」と評価してくれる。


「……ありがとうございます」


缶コーヒーの温かさが、指先から胸の奥へと染み渡る。

 怯えながら出社していた日々が、遠い昔のことのように思えた。


***


休日の午後。

 私は駅前のオープンテラスがあるカフェで、待ち合わせをしていた。


「お待たせ、ヒカリちゃん!」


声をかけてきたのは、ショートヘアにした藤堂カオルさんだった。

 憑き物が落ちたように表情が明るく、以前の鬼気迫る雰囲気は微塵もない。


「ううん、私も今来たところです。……髪、切ったんですね。似合ってます」


「ありがとう。心機一転、ってやつよ」


カオルさんは席に着くなり、アイスティーを注文した。


私たちは、こうして月に一度ほどお茶をする関係になっていた。

 元々は「不倫された妻」と「冤罪の被害者」という最悪の出会いだったけれど、共に地獄をくぐり抜けた戦友として、不思議な友情が芽生えていた。


「そっちはどう? 新しい仕事」


「順調です。カオルさんは?」


「私もバッチリ。離婚も成立したし、慰謝料もしっかりむしり取ったしね」


カオルさんは悪戯っぽく笑った。


「あの二人、今頃地獄を見てるわよ。元夫は会社に居場所がなくなって自主退職したみたいだし、アヤって女も、パートを掛け持ちして死に物狂いで働いてるって」


「そうですか……」


アヤさんの名前を聞いても、もう私の心は波立たなかった。


「私の実家の方も、酷いみたいです」


私は風の噂で聞いた話を伝えた。


「兄は慰謝料の支払いで車もマンションも手放して、今は安アパート暮らしだそうです。両親とも喧嘩が絶えなくて、家庭崩壊状態だとか」


「……自業自得ね。あんなに素敵な娘を追い出した報いだわ」


カオルさんが、しみじみと言ってくれた。

 その言葉が、私の心の古傷を優しく撫でていく。


「私ね、ヒカリちゃんに会えてよかったと思ってるの」


「え?」


「きっかけは最悪だったけど、もしあなたが一緒じゃなかったら、私は夫の嘘に気づけなかったかもしれないし、復讐の鬼になって自分まで壊していたかもしれない。……ありがとうね」


カオルさんが手を差し出してくる。

 私はその手を握り返した。


「私の方こそ。カオルさんが連れ出してくれなかったら、私はまだあの家で、家族の奴隷をしていました。……私に『戦う勇気』をくれて、ありがとうございました」


握り合った手のぬくもりは、かつて求めても得られなかった「家族の絆」よりも、ずっと温かく、確かなものだった。


***


カフェを出て、私は一人、夕暮れの街を歩いた。


一ヶ月前の私なら、この夕焼けを見て「明日が来るのが怖い」と思っていただろう。

 今は違う。


私は多くのものを失った。


新卒で入った会社。

 生まれ育った家。

 血の繋がった家族。

 そして、「真面目にしていれば誰かが見ていてくれる」という甘い幻想。


けれど、後悔はこれっぽっちもない。

 失ったものの代わりに、私はあまりにも多くのものを得た。


私の価値を認めてくれる新しい職場。

 腹を割って話せる友人。

 十分な蓄え。

 そして何より――誰にも縛られない、私自身の人生。


「……今日は、美味しいものでも買って帰ろう」


私は大きく息を吸い込んだ。

 空気が美味しい。

 ただそれだけのことが、こんなにも幸せだなんて知らなかった。


私はヒールを鳴らし、明日へと続く道を力強く歩き出した。


もう、誰かに助けを求める必要はない。

 私の足は、どこへだって行けるのだから。


(了)

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